連 載 ストローブ/ゴダール/外と中 ジャン・ドゥーシェ氏に聞く41|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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ジャン・ドゥーシェ氏に聞く「映画/映画作家/映画批評」
2018年1月27日

連 載 ストローブ/ゴダール/外と中 ジャン・ドゥーシェ氏に聞く41

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ゴダール(中央)の記者会見にて。右端がドゥーシェ
HK 
 ドゥーシェさんの考え方を簡潔にまとめると、「芸術には批評が必要である。批評が行われなければ、その作品は存在しないも同然である。だから作品を愛し語る必要がある」。これについてはいいですね。
JD 
 はい。
HK 
 続いて、ストローブの発言を引用します。「映画…私は、映画が存在せず面白くなくなると考えられる点に達した。映画はそれ自体で存在するのではない。映画とは言語ではない。映画とは分析の器械であるだけだ。映画自体が目的となることがあってはならない」。
JD 
 彼の言うことは理にかなったことです。しかしそのような考え方からして、ゴダールとの大きな違いが明白に見えてきます。ゴダールにとって問題となるのは、アンドレ・バザンによる「映画とは何か」という問いです。そしてゴダールは、この問いを、自分の作品のフォルムとアクションの中で考察し続けています。ゴダールの全ての映画は、「映画とは何か」の探求です。ゴダールにとって「映画とは何か」という問いは、言い換えると「映画は存在している。しかしこれは一体何なのか」ということです。

その反対に、ストローブは、映画に対する確固とした考えを持って映画制作に踏み入りました。彼は映画の外にいて、中にはいません。このような観点を踏まえると、ストローブの言うことは非常に論理的です。彼は最後まで「映画」に出会うことはできていません。なぜなら、彼はいつも映画についての映画を作り、「映画」の上位構造であり、映画についての見解であり続けているからです。結果、映画の中にいることは決してなかった。
HK 
 そうは言っても、「映画」に対して抵抗をすることには、やはり理由があるのではないでしょうか。ストローブ自身が、「映画」の内側から作品を作るということを問題にしていないのではないですか。
JD 
 彼にとってはいいことなのでしょうし、映画の側にとってもいいことです。ストローブの問題とは、映画はストローブを必要としていないのに、ストローブは映画を必要しているということです。映画なしにストローブは存在しません。
HK 
 個人的な感想ですが、彼の作品を見直すたびに新しい考えがいくつも浮かんできます。
JD 
 彼がしていることには、当然興味があります。知的な面では、非常に面白い。しかし、ストローブの作品そのものを好きだとは言えないかもしれません。彼の作品を好きになることはできない。私たちは、ストローブの持っている考え方に引きつけられているだけです。
HK 
 確かにそのようなところはありますね。ストローブの映画は「映画」の周縁にあると思います。それゆえに、誰にでも受け入れられる映画ではありません。それでもゴダールのような人は、ストローブの映画をこの上なく意識しているのではないでしょうか。
JD 
 もちろん。ストローブはゴダールにとって、一種の魅了される存在だと思います。ゴダールの映画には、ストローブの映画の集積のようなところがあります。
HK 
 ゴダールの映画を見ていると、これから先の観客は、彼の作品をうまく飲み込めない気がします。たとえば『ヌーヴェルヴァーグ』の中にはアラン・ドロンがいましたし、『ゴダールの探偵』の中にはジョニー・アリディが出演していました。フランス語圏の文化の外に出てしまえば、または時代が変わってしまえば、彼らがいかにしてフランスにとって重要なアイコンであったかは、理解が難しくなります。ゴダールにはいつも、そのような何かに執着するところがあると感じます。一方でストローブの映画においては、そうした執着心がなく、より普遍的な事柄が扱われているのではないでしょうか。

<次号へつづく>

〔聞き手=久保宏樹/写真提供:シネマテーク・ブルゴーニュ〕
2018年1月26日 新聞掲載(第3224号)
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