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2018年2月6日

時代は「上」か「下」だ 立憲民主党とドゥルーズ=ガタリ

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昨年結成された立憲民主党に期待をかける者はやはり多い。山口二郎は「立憲民主党はこの20年間衰弱してきたリベラルの価値を再興することを使命とすべき」であり、そのためには世界的潮流である「ニューディール的なリベラル」を目指せ、と述べている(「立憲結党でみえた理念追求の機運」『Journalism』1月)。山口は安倍政権のオルタナティブになるには十分だと考えているようだが、アベノミクスの立役者である宮崎哲弥が同様の主張をしていることをどう考えるのだろうか。

宮崎は脱成長派と目される『朝日新聞』の社説が、株価上昇や雇用状況の改善などを認め、経済成長と再分配の必要を説いたことを絶賛し、「「失われた二〇年」に終止符を打ったのは、結局政策だった」とアベノミクスの成果を強調している(「時々砲弾」『週刊文春』1/18)。そのいっぽうで、前号の連載では「リベラルの目標」は「完全雇用の達成」「賃金の上昇」「労働分配率の向上」「経済格差の縮小」だと、民主党からつづく新自由主義的な発想にたいして、立憲民主党に釘を刺しているのだ(「時々砲弾」『週刊文春』1/4・11)。昨年発表した「基本政策」で公務員の労働基本権の回復とあわせて人件費削減をかかげたことで、宮崎の予感は的中したといえる。経済の好調がつづくかぎり、まっとうなリベラルは安倍支持に回らざるをえないことを宮崎の連載は示している。

では安倍政権が「ニューディール的なリベラル」を体現しているのかといえば、もちろんそうではない。昨年、生活保護費引き下げが発表されたことをうけて『世界』では特集「反貧困の政策論」が組まれている。小玉徹はアメリカやイギリスの都市の低所得者層が、ジェントリフィケーションによって住宅を失い、ときにはホームレス化する実態を「賃貸世代」という言葉で紹介している(「台頭する「賃貸世代」の反貧困運動」『世界』2月)。貧困問題に取り組んできた雨宮処凜が過去12年間の運動を振り返っている(「貧困は誰もが陥る可能性」『Journalism』1月)。雨宮の文章を読んで思うのは、この国の貧困運動の歴史は流行語大賞の歴史だということだ。「ネットカフェ難民」「ワーキングプア」「下流老人」など新しい貧困は、センセーショナルに報じられ、一時的に消費されるだけだった。

時代は「右」か「左」ではなく、「上」か「下」だ。と枝野幸男はしばしば語っている。「中」間層が没落し、階級が「上」と「下」に分かれているという意味において、それは正しい。だが、そのための政策は「ニューディール的なリベラル」しか提示されていない。世間が思うほど、安倍と枝野に違いはないのではないか。結局は経済を優先せねばならず、「あいまいなリベラル」に留まってしまうという点で。

最も大きな違いは、安保法制と憲法9条改正だろう。所信表明演説で枝野は集団的自衛権および自衛隊を明記する安倍改憲案を「地球の裏側までいって戦争ができる」と批判した。憲法9条を暴走するアメリカと距離を取るための「平和の盾」と考える護憲論(五野井郁男「憲法改正で護憲派が取るべき政治戦略」『Journalism』2月)と発想は同じだ。しかし「意外なことかもしれませんが、世界からは安倍首相とドイツのメルケル首相はリベラルだと見られています。両国は第二次世界大戦の敗戦国であるため、国際協調主義を強く打ち出すリベラル的立場をとらざるを得ない」という吉田徹の指摘もある(「生活に密着した憲法改正議論を」『第三文明』2月)。

ニック・スルニチェク+アレックス・ウィリアムズ「加速派政治宣言」は、この閉塞した現状を「私たちを取り巻く現在の危機に対する左派政党の応答は、せいぜいのところケインズ主義的な経済政策への回帰を呼びかけるといったものでしかなかった」と批判している。そして、資本主義を脱するため左派こそ科学技術を加速させろ、と「社会とその環境を最大限に統御するプロメテウス的政治」の必要を説いている。千葉雅也「ラディカルな有限性」によれば、世界的に流行した思弁的実在論から派生した政治的立場だそうだ(『現代思想』1月)。カンタン・メイヤスー『有限性の後で』の「祖先以前性」が、レーニン『唯物論と経験批判論』のマッハ主義批判と同じと思った程度にこの方面は暗いが、レーニンを肯定的に引用しているあたり、「加速派政治宣言」とは現代版レーニン主義ではないのか。

昨年、新ユーラシア主義のイデオローグであるアレクサンドル・ドゥーギンが翻訳、紹介された(「第四の政治理論の構築にむけて」)。訳者の乗松亨平によれば、ドゥーギンはリベラリズム、共産主義、ファシズムのいずれでもない「第四の政治理論」を説いているが、実質的にはワイマール期に勃興した「第三の道」のアップデートであるらしい(「敗者の(ポスト)モダン」『ゲンロン6』)。新左翼を淵源とするオカルト思想から大本教に接近した武田崇元も、いち早くドゥーギンに注目し、ユリウス・エヴォラの特異なファシズムの影響に言及している(高橋洋×武田崇元「「霊的ボリシェヴィキ」対談」『ムー』2月)。興味深いのは、いずれの思想も、フッサールの「超越論的主観性」を批判していることだ。ドゥルーズ=ガタリはフッサールの現象学にリベラリズムと資本主義の共犯関係を見て取っていた。

この道しかないと「ニューディール的なリベラル」が唱えられるなか、近年紹介された思想は、コミュニズム、ファシズムを下敷きにしている。1930年代、市場経済によって生み出された「下」の貧困を解決するために、これら三つの政治体制が台頭した。経済人類学者のカール・ポランニーはこの「大転換」に市場経済の終わりを見た。現在はその状況を反復している。

しかし、これらの思想も資本主義と真に切断できなければ、最悪の政治体制を招くだろう。昨年、あるジャーナリストが、ビッグデータやAIを駆使して国民と経済を統制しようとする習近平思想を「デジタル・レーニン主義」と名づけた。どこまで中国の実態に即しているかは不明だが、「プロセスとしての民主主義」ではなく、「集団的な自己制御」が真の民主主義だと説く「加速派政治宣言」のネガではないのか。いっぽうで、地政学と比較文明論を駆使しながら、旧ソ連と重なる「ユーラシア」がロシア本来の圏域だと述べるドゥーギンの思想は、近年のロシアの外交戦略と一致している。実際、ドゥーギンはプーチンのブレーンとも称されているようだ。ポランニーがいう「大転換」が、結局は国家による資本主義の延命だったことを思い起こさせる。

現状分析や運動の評価に異論はあるが、ドゥルーズ=ガタリの政治哲学を説く、佐藤嘉幸+廣瀬純『三つの革命』(講談社、12月)はやはり貴重だ。ドゥルーズ=ガタリにあるのは、次のような「下」の欲望をめぐる問いだという。
「人々はなぜ、より多くの課税を、より少ないパンを、と叫ぶのか。ライヒが言うように、驚くべきは、人々が盗みをはたらいたり、ストライキをしたりするということではない。そうではなくて、むしろ、餓えた人々が必ずしも盗みをしないということ、搾取される人々が必ずしもストライキをしないということである。人々はなぜ数世紀もの間、搾取、屈辱、奴隷状態に耐え、それらを他人にだけでなく自分自身にも望んできたのか」

なぜ「下」が公務員や生活保護バッシングに熱狂するのか。なぜ「下」がトランプを支持するのか。といった問題を考えるために欲望の視点は不可欠だ。そしてそれ以上に、一見オルタナティブに見える政治が同じ隷属を求める欲望に駆動されていることを明らかにする。私達にも分け前をよこせ、という「下」の運動とともに、資本主義的欲望からの切断の必要を説くドゥルーズ=ガタリがいまほど求められたことはない。繰り返すが、時代は「上」か「下」だ。(わたの・けいた=批評家)
2018年2月2日 新聞掲載(第3225号)
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