事後の「生き直し」を問題に 岩城けい「Matt」、原田宗典「〆太よ」ほか|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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2018年2月6日

事後の「生き直し」を問題に
岩城けい「Matt」、原田宗典「〆太よ」ほか

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今回は、芥川賞受賞作のイメージもあって、高齢者ものと母ものの割合が高い印象が残った。メディア進化論的にいえば、大衆を対象とする表現媒体は、文学、映画、TVといった先発順に、担い手の年齢層が高くなり、ゆるやかな棲み分けをするものである。ゲームやネット発信の発展で、TVが中年層のメディアに押し上げられつつあるとしたら、小説が終活をテーマとするのは自然の流れである。文学界での老人力の勢力拡大は今に始まったことではないし、悲嘆すべきことでもない。ただ、天邪鬼な私としては、せめて内容面で、良い意味の青臭さを優先したくなったのである。

岩城けい「Matt」(すばる)は、父親の転勤に伴って小学生の時からオーストラリアで成長してきたマット(マサト)が、義務教育最終年となる十年生(日本の高校一年に相当)の岐路に立って、差別や不遇に見舞われながら、学生生活の充実に努める自分探し的な青春物語。イタく熱い友情、覚束ない恋愛、崩れゆく家族の三点盛り。仲間も、嫌な奴(もう一人の自己を寓意する白人のマット)も、どこか性善説的な純朴さがあって、教育テレビの中高生ドラマの進化版を観るような気恥ずかしさはあるのだが、普通は知られざるオーストラリアの学校生活の活写と併せて、そこが新鮮である。脱ぎ捨てられない「ジャップ」という顔のために、くりかえし陥る自己嫌悪と格闘しながら、アイデンティティ・ポリティクス批判を自力で導き出していく物語、という要約をするなら、青くとも軽い内容ではない。読書に妙に時間がかかったのは、熟読してしまったからだろう。ひとつ構成上の引っ掛かりをあげるなら、中国人系移民の友人ロビーの不意の自殺である。本作には、多国籍多文化主義国家が鍛えた上げた教育への一定の信頼――少なくとも日本のよりはマシ――のようなものが見え隠れするが、そのような公的な善意が必ず抱え込む陥穽に足を捕らわれ、反抗する姿を描かずには、マットの解決不能な苦しみも、引いては、この小説の狙いが成立しない。制度に救われて終わりではまずいのである。ロビーの死はそのようなマットの怒りに輪郭を与えるのだが、やはり道具として使われている感が残る。


原田宗典「〆太よ」(新潮)も別の形で青臭い話である。大学在学中の頃、ひょんなことから雀荘で薬の売人と接触してジャンキーとなって以来、どん底を生きてきた現在二五歳の「おれ」が、盲目で金持ちの青年〆太に出会って友情を育み、人間的に更正していく――若干、仏映画『最強のふたり』を思い起こさせなくもない話。美や真実は視覚ではなく「音」によってのみ触れられるといった、薬で「キマ」った時の経験に基づく智恵や、「二つに一つを選べない言い訳をくっつけては検討するもんだから話がややこしくなる。こういうのを屁理屈っていうんだろうな逆に二つに一つを選ぶ言い訳が理屈ってやつだ」など、社会を撃つ格言めいた文章が頻発するのが微妙に説得的で楽しい。時代は、オウム真理教のサリン事件喧しい一九九四~五年である。新興宗教に走る若者と薬に溺れる若者とは、戦後的価値観の崩落に巻き込まれた犠牲者という点で共通する、と考えれば、ここに現代社会の「青春期」の探求を読み取ることもできる。気になった点は、後半における通俗的な筋立ての進行と、〆太の人物造型である。世間知らずの天使のような素直さと、それゆえに薬などの闇も無邪気に許容している非道徳的な性格設定が、少々アニメ的というか、今時の類型に寄っていて、生身の存在感が薄く思えた。

前回の時評では「崩壊感覚」をキーワードに掲げたが、今回は以上二作のように、事後の「生き直し」を問題とする社会派の内容が多かった気がする。落合恵子「泣きかたを忘れていた」(文藝)は、表向きは、母子家庭に育った「わたし」による母親の介護という非選択的な愛の話である。しかし特徴的なのはむしろ、母親の死を看取った後に続く物語尻の長さで、そこには十年後の、絵本屋の経営を中心とした生活、かつて同棲した「男」のこと、政治的活動、幼少期の母のことなど、半生の記憶の断片がまとまりなく描かれながら、思いは七二歳の「わたし」自らの、死を見定めた安堵の境地へと解き放たれていく。未読者には意味不明だろうが、私はこの作のポイントは、母親の死後、終活へと進むプロセスのなかで、政治の観念性を文学の現実性によって捉え返していくところにあると解釈した。「政治」と「文学」それぞれの言説には簡単には相容れない時間が流れているから、水と油が乳化するようには融和しない。文学に流れるのが象の時間なら、政治は鼠の時間である。〈終わり〉の景色から眺めたとき、フェミニズムという政治的立場を選択してきた「わたし」にとっても教条的に割り切ることのできない生の現実のうねりが立ち上がってくる。それは成否の物差しで測れば無駄に思えてしまう行いをも、人生のスケールにおいて肯定する時間なのだ。
文学における時間を考えるなら、保坂和志「十三夜のコインランドリー」(文學界)も外しがたい。本作には過去から未来を仮定・推量する文章が多用されている。過去から想像される可能世界と現在の現実世界との錯誤に生じるめまいや、持続の感覚のずれに、作者は執拗なこだわりを見せている。そのおかしな読点の打ち方にのって、いわば「存在と時間」の謎を小説的に考察するかのようだ(手法の有効性に賛否両論あるにしても)。私が芳川泰久「蛇淵まで」(文學界)から受けたのも、類似の時間感覚である。内容のことではない。学生時代の卒論の指導教官が芳川先生だったのだ(二〇年前の私のことは九九%の確率で覚えていない)。あの頃、先生の小説を評するようになると少しでも思ったことがあっただろうか(保坂風)。よしひとつ言いたい放題に言ってやろう。とは嘘で、程よく力の抜けた良質の作である。これも母親の死とその記憶をめぐる話。易断師の占いや果ては新興宗教にはまる「母」の言動の理不尽さが――生活の基底に直に触れている言葉だから、世の母親の言うことはだいたい理不尽なものとして子に映るのだが――どこか切実な、怖さと哀しさを帯びて描き出される。筆致は滑らかだし、記憶の強度の高い同じ情景を、別視点から繰り返しフラッシュバックする手法も熟れている。ただ、終わりにかけて急に高じる母への「怒り」はピンとこない。はじめから、「母さん、あなたがぼくには必要なんです。」という落ちは見え見えなので、照れ隠しの前振りの感が否めないのである。

一転、四元康祐「奥の細道・前立腺」(群像)は、下ネタ愛好家にとって極上の部類を提供してくれる笑える小説。芭蕉の句の引用を含む多くの短詩(や註釈)を塗した叙述のスタイルと、前立腺ガン検診のために尻の穴を掘られる話を掛けているので「奥の細道」なのだが、舞台はヨーロッパだし、知的に澄ました語りの飄逸さはスターンの『センチメンタル・ジャーニー』のほうが感覚的には近いかも。異郷で射精を失う悲哀と諦めのユーモアは、下の話でありながら上品。読書を楽しんだ順をいうなら本作が一番だった。

同じ下ネタ括りでも、AI搭載の「全自動前戯機ペロリーノ」の反乱という内容で、衒学的なおふざけを前面に出すのは、木下古栗「サピエンス前戯」(文藝)である。押井守以降だろうか、近年、人間ならぬ人形疎外論のようなSF的転倒の議論が散見されるようになったが、一応、その類いに属するだろうか。結論をいうと、狙いきった馬鹿馬鹿しさにいまいち乗れない。学術的言説のパロディを徹底したことで、一部の脳科学者の論理の胡散臭さを曝している結果には拍手である。まだ連載一回目である。化けるやもしれず。

最後に、瀬川深「主なき楽土」(すばる)。内容は略すが、カフカ、安部公房、初期の後藤明生のような不条理系の作風を思わせる。が、都市の孤独ではなく田舎町の行政の仕事を問題にしているところや、リアリズム寄りの細かな生活環境の描写に個性がある。その分、非常勤職員の主人公の与り知らぬ陰で何かが着々と進行している不気味さと、最後に降ってくる「災い」との間に飛躍が感じられたのが残念なところ(その「災い」に関する知識を持ち合わせなかった私個人の問題かもしれないが)。

おまけで、辻仁成「真夜中の子供」(文藝)。二〇〇〇年に博多の中洲で生まれ、中洲で育った無国籍児の成長物語。細かいカテゴリーに拘るつもりはないが、どこか中間小説的なので、文芸誌の中では浮いている。それでも、近所の風景が連発するから、一言述べなくてはいけない気になった。物語化を誘うリアルな祝祭空間が列島からほぼ消滅したことを憂えているだろう作者の、ロマンチストぶりはわが身にも覚えのある気持ちである。しかし、松本清張ばりのザ・昭和の最後の聖域のような中洲(と山笠)の描き方は、正直盛りすぎな気がする。
2018年2月2日 新聞掲載(第3225号)
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