1968年・イェルサレム・夏 書評|岳 真也(出版舎 風狂童子)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
2018年2月3日

世界は彼らのものだった 
とうに忘れていたはずの祈りを取り戻す

1968年・イェルサレム・夏
著 者:岳 真也
出版社:出版舎 風狂童子
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1968年は評者にとって中学入学の年だった。

高度経済成長が進展し、映画『2001年宇宙の旅』や『猿の惑星』が公開され、戦争を知らない子供たちが新世代感覚で若者文化、北米でいうところの対抗文化を盛り上げていたころ。実存主義思想家サルトルを愛読する全共闘活動家から音楽で意識革命を起こしたザ・ビートルズに共鳴する作家・芸術家に至るまで、新しい文化は多彩にして豊饒だった。

その中核を成していたのが団塊の世代、すなわち戦後すぐに生まれたベビー・ブーマーである。

あのころ、世界は彼らのものだった。

13歳の中学生は、もっと早く生まれていたら同時代を謳歌できたのにと、20歳前後の彼らを仰ぎ見た。

そんな年に、文字通り団塊の世代に属する岳真也の分身である本書の語り手ユウジはイェルサレムの集団農場キブツへ赴く道を選び、ベルギー出身で医学を志す少女ミレーヌと恋に落ちる。アメリカ帝国主義がヴェトナム戦争を続行する時代、駐日米軍の資金が大学に流入し、そこに属する学生たちすらいつしか侵略戦争の片棒をかつぐ格好になってしまった時代に、かといってそうした事態へ嫌悪感を覚えつつもどこか醒めた意識を持たざるをえないユウジは、闘争する仲間たちとも距離を置き、ひとりきりで自身を考え直すためにこそ、イェルサレム行きを決意する。だが、この多民族共同体で活動し恋人とはケンカするほどの仲を結びながら、やがてユウジは自身の父が第二次世界大戦のトラウマを抱えていたことを思い出すと同時に、ほかならぬキブツ内部にもナチス・ドイツの強制収容所体験のトラウマを克服できぬ者たちがいることを知るのだ。二年後に大阪万博を控えた高度成長期にあっても、戦争の禍根は国籍を問わず人々の心にはっきり刻み込まれている。一見したところ甘く美しく輝かしい青春小説のように展開する本書は、やがてもうひとつの戦争小説としての苦く辛く切ない読後感を残す。

もちろん、当時まだ一歩も海外へ出たこともない中学一年生が聞いたら、これほどにまぶしい日々はない。だが、ここで注意しよう。本書を古稀を迎えた岳が世に問い、自身とうに還暦を超えた評者が読むというのは、どういうことか。それはそっくりそのまま、ありえたかもしれぬもうひとつの1968年を追体験することを意味する。したがって、この青春小説には歴史改変小説としての妙味も備わっている。

本書のページを開く21世紀のわたしは、半世紀前の中学一年生だったわたし自身の意識をも開く。

すると、そのころ出会った人生最初の青春小説が浮かぶ。当時購読し始めた〈SFマガジン〉に連載されていた小松左京の『継ぐのは誰か?』が、それだ。北米南部はヴァージニア学園都市のサバティカル・クラスに属する人種も性別も超えた若き秀才たちが来る日も来る日も「人類は完全じゃない」のか否かという高度な議論に明け暮れるとともに、人類すらも超えた水準をも含む恋愛模様をたっぷり描き込んでいくこの小説は、60年代対抗文化がなければ不可能だったであろう自由にして無軌道なアメリカ青春群像を生き生きと伝え、何よりもわたし自身のアメリカに対する憧憬を〓き立てた。

そんな小説が、いったいどうして岳真也と関わるのか。じつは『継ぐのは誰か?』は、とんでもないところでキブツと関わって行く。同書の角川文庫版(1977年)解説を担当した同じく団塊の世代に属する作家・山田正紀には、学生時代の貧乏旅行の最中、ほかならぬキブツに身を置いていた時期があり、そこで出会った六十人ほどの国籍もまちまちな若者たちが、どこか小松作品におけるサバティカル・クラスの若者群像を連想させ、当時の「青春の愚行」を彷彿とさせると回想しているのである。

もともと20世紀初頭に帝政ロシアの迫害を逃れたユダヤ人が理想国家を夢見て建設した集産主義的共同体キブツは社会主義とシオニズムが融合した稀有なユートピア実験だったから、そこより多くの政治家や知識人が育った。しかし、あらゆるユートピアは完璧を目指すがゆえに内部から自壊する要素をも孕む。本書の若く青二才とすら呼べる主人公たちは、そんなことをあらかじめ自覚するほどには成熟していない。かくしてミレーヌは、帰国前日、主人公にこう言い渡す。「ユウジ、あなたは言ったわよね、わたしたちは歩きはじめたばかりだって。時間がいるわ、もっとわかり合うための時間が……そしてわたしたちには、それぐらいの時間はあるわ、きっと」(214頁)

一切が始まりであって、終わることなど考えようもない青春の時間が、ここに宣言されている。世界は彼女たちのものなのだ。

あまりにも甘過ぎる感傷と響くだろうか。しかし希望と絶望とが劇的に混濁する本書を読み終えた者は、結末においてこのように広大に開かれた可能性への夢のうちに、とうに忘れていたはずの祈りを取り戻すことだろう。
この記事の中でご紹介した本
1968年・イェルサレム・夏/出版舎 風狂童子
1968年・イェルサレム・夏
著 者:岳 真也
出版社:出版舎 風狂童子
以下のオンライン書店でご購入できます
2018年2月2日 新聞掲載(第3225号)
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