連 載 ストローブ/ゴダール/外と中 ジャン・ドゥーシェ氏に聞く42|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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ジャン・ドゥーシェ氏に聞く「映画/映画作家/映画批評」
2018年2月6日

連 載 ストローブ/ゴダール/外と中 ジャン・ドゥーシェ氏に聞く42

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パリのシネマテークにて(近影)
JD 
 ゴダールの映画は、「できごと」をとります。映画は事件を取り扱います。だから、ゴダールが出来事を撮るのは当然です。ジョニー・アリディは事件です。ベルモンドは事件です。ドパルデューは事件です。ナタリー・バイは事件です。イザベル・ユペールは事件です。ゴダールは、皆自分の映画の中へ写し込んでしまいました。ゴダールは出来事を見つめ、「できごと」の映画を作ります。

一方でストローブは、これに関しては断言しますが、「できごと」についての映画を作ります。事件となるのはストローブ自身です。映画自体が事件を取り扱うことはありません。
HK 
 その意味では確かに、ストローブは社会に対する分析のようなことをしますね。例えば『歴史の授業』では、カエサルを例にして資本と社会の関係を淡々と見せていく。このカエサルの人物像も曖昧にされ、特定の人物による事件というよりも、社会における普遍的な出来事のように見えます。
JD 
 見解になってしまうところが、ストローブの抱える問題です。一方でゴダールは、これに関しても断言しますが、映画の中にいます。つまり、「できごと」の中にいます。映画の特性とは、「できごと」を見つめるということです。リュミエール兄弟の時代から、もしくはそれ以前の映画から、映画は「できごと」によって成り立っています。ある広場を訪れ、50分ほどの長さを持ったフィルムに、広場で起きている何かを記録すること。あちらこちらへと動き回る人々を撮影すること。これは一つの事件です。動き回る人々は一種の事件なのです。私たちは「できごと」の内部にいます。

ストローブの映画においては、すでに述べたように、考えが先にあります。一つの場所とその場にいるべき人々という考えが優先されます。映画においては、それほど重要なことではありません。
HK 
 要するに映画が事件を必要とするということですか。
JD 
 映画は「できごと」を必要とします。映画とは事件によって作られます。最初期における映画の発明の一つが、その時に起きていることを見せるということであったのに、理由がなかったわけではありません。つまり、ルポルタージュです。その時代に何が起こっているかを即座に見せました。
HK 
 そうは言っても、ドイツは、映画に関してはストローブの傾向があるような気がします。例えばハンス=ユルゲン・ジーバーベルクの映画も、ストローブのようにして、世界が非常によく構成されているのではないですか。
JD 
 ジーバーベルクも、頭の中の出来事を作っています。
HK 
 映画だけではなく、ドイツの現代美術等を見ていても、哲学的な傾向があるように感じます。
JD 
 常にそのような傾向があるわけではありません。「できごと」についての映画と、思索によって作られる映画は別のものです。
HK 
 フリッツ・ラングも頭の中で出来事を作っていたのではないですか。
JD 
 ラングは起こりつつある「できごと」を見つめていました。ラングは、出来事についての映画を作っていたのではありません。彼は出来事の中にいました。この点については、よく考えてください。何が出来事についてで、何が出来事の中なのか。
HK 
 批評についても同じことが言えますよね。ドゥーシェさんは映画批評の中にいた。
JD 
 私は映画批評の中にいました。映画についての批評ではなく、映画の批評を行ってきました。しかし、今日の批評家たちは、映画についての批評を行っています。彼らは映画の中にはいません。 <次号へつづく>
(聞き手・写真提供=久保宏樹)
2018年2月2日 新聞掲載(第3225号)
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