柴田元幸氏インタビュー 小説の良さを伝える翻訳 『ハックルベリー・フィンの冒けん』(研究社)刊行を機に|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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2018年2月9日

柴田元幸氏インタビュー
小説の良さを伝える翻訳
『ハックルベリー・フィンの冒けん』(研究社)刊行を機に

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多くの人が子どもの頃に読んだことがあるだろうマーク・トウェインの名作が、柴田元幸氏の翻訳で『ハックルベリー・フィンの冒けん』として研究社から刊行された。
これまで何度も訳されてきたものとはまた一味違う柴田訳版『ハック・フィン』は、かつての読者から新たな読者にまで好評を持って迎えられ、すでに版を重ねているという。
この刊行を機に、柴田氏に作品の魅力について、そして翻訳についてお話を伺った。
(編集部)
第1回
他にはない一人称の語りの活きの良さ

原画表紙
――本の帯や広告などに「柴田元幸がいちばん訳したかったあの名作」と書かれていますが、もともとなぜこの作品を訳したいと思われていたのですか。
柴田 
 アメリカ文学の中で一番大事な作品を挙げるとすれば、ハーマン・メルヴィルの『白鯨』とマーク・トウェインの『ハックルベリー・フィンの冒けん』の二冊、あとウィリアム・フォークナーの一連の名作があります。その中で特にどれを訳したいかを考えると、『白鯨』はよい訳がいくつもあるし、フォークナーも新しい訳が続々出ている。『ハック・フィン』だけが、アップデートが無いわけではないんですけど、個人的にはちょっとまだ違和感が残っていた。もともと随分前から訳されているわけですが、やっぱりハックが「語っている」小説でもあり「書いている」小説でもあるということが十分訳に生きてないんじゃないか。特に気になるのは「書いている」という方ですね。原文を読むと結構スペリングとか違っていたりするんですが、それはハックが書いているから違うわけです。それを真面目に考えるなら、日本語訳でもハックがこんなに漢字が書けるはずがない、と思っちゃうんですよね。これだったらもしかするといままでの訳とは違うものを提示できるかもと思ったんです。もちろん「語っている」という方も大事で、こっちは貢献できる云々よりとにかくやってみたかった。やっぱりこの一人称の語りの良さは特別だから。語りはアメリカ小説の一種専売特許なんですけど、ここまで活きが良いものは他にない。

――マーク・トウェインの作品の中でも『ハック・フィン』が一番良くて特別でもあるということですか。
柴田 
 はい、語りということでいうと断トツじゃないでしょうか。

――これまでの訳では、語り手がハックであるゆえのスペリングの誤りなども含めた語りの活きの良さを考慮するよりも、日本語としての読みやすさが優先されて来たということなのでしょうか。
柴田 
 というか訳者に教養がありすぎるんじゃないでしょうか。もともと僕は教養がないから、教養を削ぎ落とした訳は得意なんです(笑)。

――教養主義的な翻訳になってしまっているものが多いという印象ですか。
柴田 
 ええ。もちろん、かつてはそういうものが必要だという空気があったわけだから、「しまっている」というよりはそうなるべくしてなったということなんでしょうけど。でもいまはそういう時代ではない。あと、登場人物を田舎者化するやり方とか、時代が変われば変わるべきだと思う。二年ぐらい前に『ハック・フィン』の翻訳について古川日出男さんと喋っていた時古川さんに、とにかくジムを「おいら」にするのは避けてほしいですねと言われて、そのとおりだなと思ったんです。この小説はハックとジムの二人の会話が多いから、ハックを「おれ」にするんだったらジムは「おら」にすれば差異化が楽で、誰が喋っているのかをクリアにできるわけだけど、ジムを定型的に田舎者化するのは避けたかった。

――注でも指摘されていますが、小説の中にシェイクスピアや聖書などからの引用も散りばめられていたりしますね。これは当時の読者ならばスッと理解できたのでしょうか。
柴田 
 別にシェイクスピアや聖書を読み込んでいなくても、なんとなく聞いたことがあるようなものをトウェインは引用しているに過ぎなくて、いまだったら流行りのテレビドラマに言及するとか、そんなのとあんまり違わないと考えていいと思います。つまり一般的に言っても、たとえばシェイクスピアの頃だったら、ものを形容するのにギリシャ・ローマの神話を持ち出すわけですよ。いまの作家なら映画や音楽ですよね。それと同じようなことなので、当時も別に高度な教養を必要としたような引用ではまったくないです。

――ハックとジムが旅の途中でペテン師の二人と出会ってしばらく行動を共にしますが、この二人が金を稼ぐためにうろ覚えのいい加減なシェイクスピア劇名場面を演じる場面があります。当時の読者もそういえばそんな芝居を聞いたことがあるぞといった感じで読んでいたと。
柴田 
 そうです。この二人がやってることはインチキだとはわかるんだけど、シェイクスピアをきちんと読み込んでいる人じゃないとこの馬鹿馬鹿しさは楽しめないなんてことはまったくないです。

――巻末の解説では「語りの問題」とおっしゃっておられますが、この小説は口語体で、しかも語っているのはハック本人という当事者で、ある一定以上の教養や学問を積み重ねてきた人間の語りではありません。このような語り方は画期的なものだったのでしょうか。
柴田 
 それまでは文学というと東部のインテリの専有物で、そのなかでだんだん、中西部・南部・西部の庶民の言葉が新鮮なものとして歓迎されるようになる。ハック・フィンはだから、画期的というよりその頂点と見るのがいいでしょうね。時期的には一八八〇年代で、ちょうど日本の言文一致運動と同じ頃なんですね。でも日本の言文一致運動は、日本を西洋文化に近づけるために生活に密着した文章を確立しなくてはいけない、と自分を西洋の方に向かって引き上げようという流れの一環だったわけです。一方アメリカのマーク・トウェインを始めとするそうした流れは、いまではリアリズムと言うわけですが、もうヨーロッパなんか偉くないから自分たちの独自の声を作るんだといった、もっと独自性を目指したものだった。そこが日本の言文一致とは微妙に違うんですね。どっちも新しいことをやらなくてはという切迫感は同じですが。
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この記事の中でご紹介した本
ハックルベリー・フィンの冒けん/研究社
ハックルベリー・フィンの冒けん
著 者:マーク・トウェイン
翻訳者:柴田 元幸
出版社:研究社
以下のオンライン書店でご購入できます
2018年2月9日 新聞掲載(第3226号)
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