批評について 芸術批評の哲学 書評|ノエル・キャロル(勁草書房)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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2018年2月10日

〈芸術批評=価値づけ〉の定義を擁護 
記述、分類、文脈づけ、解明、解釈、分析

批評について 芸術批評の哲学
著 者:ノエル・キャロル
出版社:勁草書房
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本書でノエル・キャロル氏は、芸術批評を、芸術作品の、何らかの理由に基づく「価値づけ」と定義する。芸術作品の価値は、作家がその作品によって達成したことを、その作品が属す諸ジャンルと諸カテゴリーに照合することによって、解明される。何をどのように達成したのかを確かめるには、制作にあたって作家が掲げた、意図と目的を把握する必要がある。また、この主目的の補助作業として、「記述(何がどう描かれているか)」「分類(ジャンル・カテゴリーへの)」「文脈づけ(作品の環境を記述する)」「解明(象徴記号の意味をつきとめる)」「解釈(主題・物語・行為の意義をみさだめる)」「分析(作品の機能を説明する)」がある。これが〈批評=価値づけ〉という定義の主な内容である。氏はこの定義への反論をいくつか挙げ、その一つ一つに応答しながら、この定義を擁護する議論を進めていく。その手順を少し、紹介する。
〈批評=価値づけ〉という定義への反対者が挙げる理由の一つに、〈価値づけは、批評の一連の作業が為される前に、すでに予め行われている〉がある。言いかえると、〈批評とは評者の主観的価値を作品および鑑賞者(または読者)に押しつける行為である〉となる。キャロル氏は、この反論においては選別と価値づけが同一視されていると指摘する。言いかえると、〈複数の対象の中から或る対象を批評するために選び出すことには、すでに価値づけが含まれている〉となる。しかし、批評家がつねにみずから、批評する作品を選ぶとは限らない。依頼されて批評する場合もある(本書評はこれに該当する)。また、〈選別=価値づけ〉という考えには、〈選び出された作品=好意的に評価される作品〉という等式も含まれる。しかし、批評家は自分で選んだ作品を批判する場合もある。したがって、〈選別=価値づけ〉という等式は疑わしい。仮にこの等式が正しいとしても、〈批評=価値づけ〉という定義は排除されない。選別は、批評作業を終えた後にも為されうるからである。

〈価値づけは批評作業を終えてから為されうる〉という考えは、批評は主観の押しつけではなく、むしろ芸術作品およびその作品を制作した芸術家との対話に基づいて、芸術家がその作品に込めた意図を客観的に理解する過程の一部であるということを、示唆する。キャロル氏は、ジャンルとカテゴリーが批評の客観性を担保すると述べている(本書238―40)。ジャンルとカテゴリーが固定しておらず、生成と消滅、分化と合成の渦中にあることは言うまでもない(253―56)。〈価値づけとしての批評〉を支えるジャンルとカテゴリーが変化しうるということは、キャロル氏が〈歴史〉を重視していることを示唆する。一見きわめて形式的だが、実のところ本書が提起する〈批評〉は、みずからが歴史的に規定されていることに自覚的であると思われる。《art》という語が今日のそれと同じ意味になった一八世紀以来(16―17)、特にフランス革命以後、批評は芸術作品を購入する新たな顧客=ブルジョワジーのための美的〈快〉の教育装置として機能してきた一面が指摘されているからである(77―80)。(その意味で、公衆に書物を紹介し、その読みどころを〈指南〉する機能を担う(?)本書評も、この歴史的規定を免れていない。)キャロル氏は、マルクスによるユートピアにおける理想的な批評――他者ではなく自分にとっての〈価値〉を人びとが忌憚なく明示し合う行為としてのそれ――への言及に触れたうえで、「だがわたしたちの文化においては、この種の批評はそう一般的なものではない」(73)と断っている。マルクスの理想的批評を、キャロル氏が〈主観の押しつけ〉と同一しているか否かは、本書のみからではわからないが。いずれにせよ、「わたしたちの文化」はいまだ、したがって〈批評〉もまた、資本主義下にある。

〈主観の押しつけ〉との差別化を図るキャロル氏の〈批評〉には、ブルジョワジーへの〈快〉の教育とは異なるものに向かう可能性もある。既述した〈芸術作品を通しての芸術家との対話〉だけではなく、対話を通して把握された〈価値〉の読者への伝達である。批評的判断と〈趣味(快)〉および〈美〉の結合に加担した廉で、氏はヒュームとカントを批判しているからである(215―20)。ヒュームとカントは〈人間に共通の本性〉(或る刺激は誰にでも同じ〈快〉の反応を引き起こす)に依拠して、美的判断を間主観的に基礎づけようとした。「だが近代人が、人間共通の本性という考え方に懐疑的になり、代わりに徹底した相対主義をとるようになるにしたがって、今では、批評的判断と快の感覚の類推アナロジーによって、〈批評上の賛意、嗜好、好みは私的なもの、すなわち、それらを発する人や行為者に相対的なものである〉という想定が自然と呼びこまれるようになった」(219)。この一節に、キャロル氏が〈批評=主観の押しつけ〉を退ける理由が示されている。すなわち、芸術は〈快〉と結合した限りでの〈美〉に尽きるものではない。また、芸術の価値は〈私的趣味〉に留まるものではない。氏において〈芸術〉は、他者と何がしかの理解を共有することの可能性を開く行為と場を指している。(この共有が「人間共通の本性」に基づくかどうかは措くにせよ。)キャロル氏は、私たちがふだん行っている「読心」という能力は芸術においても生かされるし(101)、また芸術においてはなぜか神秘化されがちな解釈という活動(「読心」)は、日常的な事象であるとも述べている(190)。ユートピアとは、労働/芸術という区分が廃棄され、さらには芸術が〈美―快をもたらす特殊ないとなみ〉であることをやめてもいる世界なのかもしれない。いずれにせよ、批評の務めは価値の読者または鑑賞者による把握を妨げる障害を除去することであり(64)、また作家の意図を代弁することである(199)という主張は、ブルジョワジーの私的嗜好の満足への加担とは別の批評の方途を指し示している気がする。(尤も評子はキャロル氏の他の仕事を知らないため、確かなことは言えない。)

〈芸術〉という名の、他者を理解したいという思考に係わって、印象的な一節を引用する。「つまり、わたしたちは他人の公式声明を寛容な心で、正当に、かつ正確に扱わねばならない。対話相手との関わり方は公平なものでなければならないし、わたしたちは相手が伝えようと意図していることを理解しようと努力しなければならない。おそらくこの種の道徳的コミットメントを支持する最良の証拠は、わたしたちが「こちらはそうは言ってないのに、あの人はわたしが言ってないことを勝手に言ったことにしている」と思ったときに自分の中に感じる、不当さ(injustice)の感覚である。こうしたことが起こったときにわたしたちが経験するいらつきは、わたしたちが「不当な扱いを受けた」と感じていることを示している。これと同様に、わたしたちが芸術家の意図を強く感じ取り、その意図を知ってさえいて、さらにはその芸術家の作ったものが彼の意図に整合的であることを認めてもいるのに、それでもその意図に逆らう解釈にわたしたちが固執するのであれば、私たちはそのときまさに、その芸術家を不当に扱っているのである」(198)。私たちは「不当さの感覚」を、例えばイーストウッド監督映画作品『チェンジリング』(2008米)の、警察権力を補完する精神病院に閉じ込められた女性たちを演じる俳優の演技から、受けとる。

誰かを理解したいと思うのは、私がその人ではないからだろう。異なるから〈理解〉ということは起こりうる。もし〈平等〉があるとすれば、それはこのことを契機としていないだろうか。その意味で本書には、芸術を〈感性の共有〉と考えるジャック・ランシエールと、〈共通の言葉〉をつくりださなければ、〈私たち〉は消えてしまうと考えたレイモンド・ウィリアムズの思考に通ずる面がある気もするが、どうだろうか。評子の誤解かもしれない。(森功次訳)
この記事の中でご紹介した本
批評について 芸術批評の哲学/勁草書房
批評について 芸術批評の哲学
著 者:ノエル・キャロル
出版社:勁草書房
以下のオンライン書店でご購入できます
2018年2月9日 新聞掲載(第3226号)
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