近衛文麿 野望と挫折 書評|林 千勝(ワック)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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2018年2月10日

現代の時代状況を反映させず近衛を認識することが肝要

近衛文麿 野望と挫折
著 者:林 千勝
出版社:ワック
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近衛文麿 野望と挫折(林 千勝)ワック
近衛文麿 野望と挫折
林 千勝
ワック
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近衛文麿は、すでに亡くなってから70年以上たつが、いまもなお「近衛文麿」に関する著作が毎年の様に出版されている。

早い時期の「近衛論」には、近衛の親交があった人々によって描かれた、例えば矢部貞治、富田健治、松本重治などの「近衛論」が知られている。これらは、後世の多くの「近衛論」が依拠している重要な一次的な史料だといえよう。だが、実際に近衛を知っている彼らが近衛の本音や性格を正しく言い当てているかといえば、必ずしもそうとは限らない。近衛は、自分の感情や本音を直接表に表すことは少なく、また聞き上手なので、相手が自分の主張に賛成してくれていると勘違いさせることもしばしばある。力を持たずに権威を保持するために身につけた「お公家さん」的な近衛の接し方が相手に誤解を与えるのであろう。

最近出版された近衛に関するノンフィクションにおいて、「通説を見直す」「正体を暴く」などといったセンセーショナルな言葉が本のうたい文句として使われることがある。おそらく著者は、近衛の友人や部下たちの近衛に対する見方に違和感を抱き、それとは別の見方があるに違いないと確信するのであろう。近年では、生か死かという極限におかれた近衛と木戸幸一との間の人間ドラマに仕立て上げた鳥居民氏や工藤美代子氏の「近衛論」は、実際読者を感心させるような「新説」を提示することに成功しているといえよう。

さて昨年もまたノンフィクションで「近衛論」が出版された。書下ろし770枚の大作、林千勝著『近衛文麿―野望と挫折』がそれである。著者は、歴史の専門家ではなく、大手都市銀行出身で、現在は不動産投資開発会社役員という経歴を持つ。著者は、近衛の周囲にいた人物達の言説や行動を丁寧に追い、従来知られていない細部までも調べ上げた。それらを基にして実務家の想像力は、歴史家とは異なるどのような「別の近衛像」を描くのか期待が膨らむ。

近衛論の論点は幾つかあるが、その一つは、近衛は、定見のない政治家だったのか、それとも確固たる主体性がある政治家だったのか、という点である。歴史学者筒井清忠氏のよく知られている『近衛文麿―教養主義ポピュリストの悲劇』(岩波現代文庫)で描かれる近衛像も前者に近い。ただし、筒井氏はここで、近衛はよく言われるように「優柔不断」あるいは「意志が弱かった」のではなく、その本質は、「教養主義」であり、そこから柔軟な「折衷主義」が生まれ、外からはポピュリストと見られるようになったと見なす。後者の代表は、古川隆久氏の『近衛文麿』(吉川弘文館)であろう。ここでは「近衛は思想的にも手法的にも一貫性が強く、人気取り政治家でも意志が弱いわけでもない」と見なされる。

これについての林氏の結論は、古川氏と内容は異なるが、近衛に極めて強い意志があったというものである。すなわち、その意志を貫くために近衛には戦略があり、林氏の言葉をそのまま使えば、「メジャーシナリオ」とそれがうまくいかなかった場合の「マイナーシナリオ」があったという。「メジャーシナリオ」とは、「支那事変から対米開戦へそして日本の全面的敗北、併せて天皇退位と米軍進駐、近衛による親米政権の樹立」であり、「マイナーシナリオ」とは「ソ連をバックとした敗戦革命」による覇権獲得である。副題に「野望と挫折」というタイトルをつけている通り、近衛は野心満々の政治家だというわけである。

思想的に考えると「メジャーシナリオ」と「マイナーシナリオ」は繋がらない。次善策ということではなく、まったく別の路線である。それらに共通するのは、単なる覇権獲得であり、それが実現できれば、米ソどちらの側に立ってもよいということになる。つまり、近衛はイデオロギー的意図を持たず、単なる権力志向の政治家だったということになってしまう。これには異論を唱える論者も多いのではなかろうか。

「マイナーシナリオ」は、最近よく見られるもので、近衛周辺にいた風見章、松本重治、尾崎秀実、太平洋問題調査会に参加していた人々などの存在から、日本の中枢に共産主義者が入り込み、「北進論」を避けさせ、米英と戦うように仕向け、第六回のコミンテルン総会の政治綱領に従って「敗戦革命」を起こそうとしていたというものである。この見方は、間接的に推論することは可能であろうが、これを実際に証明するには、コミンテルンの史料、あるいは近衛が延安にいた野坂参三らと連絡を取り合っていたというようなことを示す史料、陸軍中枢と共産主義者との間の決定的な関係を示す文書などの裏付けが必要であろう。

この説を採る人々の中には、マッカーシズムの時代の様に民主主義者、社会民主主義者、現体制を批判する者、共産党のシンパ、コミンテルンの活動家をいっしょくたにして「アカ」と見なし、彼らが一つの指令系統によって革命を起こすべく動いていたと見なす論者もいる。これは、自分の見えないところで大きな意図が働き、それが世界を動かしていると考える俗にいう「陰謀説」に近いものであり、そこはもっと詳細に見ていく必要があろう。「通説を見直す」こと、今はやりの言葉で言えば「もう一つの事実(オルタナティヴ・ファクト)」を語るには、現代の時代状況を反映させないで近衛を認識することが肝要だといえよう。
この記事の中でご紹介した本
近衛文麿 野望と挫折/ワック
近衛文麿 野望と挫折
著 者:林 千勝
出版社:ワック
以下のオンライン書店でご購入できます
2018年2月9日 新聞掲載(第3226号)
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