追悼 西部邁 対談=田原総一朗・猪瀬直樹 /寄稿=山本光久|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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2018年2月16日

追悼 西部邁
対談=田原総一朗・猪瀬直樹 /寄稿=山本光久

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評論家で保守思想の語り手として知られた、社会経済学者の西部邁氏が、一月二一日に亡くなった。
西部氏は人間の合理性を疑い、歴史に根ざす伝統の意義を説いて、大衆社会・対米追従批判を軸に絶えず発言を続けてきた。その覚悟の死に、各界から死を惜しむ声が相次いだ。
本紙では、「朝まで生テレビ!」で共演した田原総一朗氏と猪瀬直樹氏に対談していただいた。
また、死の前夜、偶然バーで同席したという、山本光久氏にも寄稿をお願いした。 (編集部)

西部邁(にしべ・すすむ=評論家)
一九三九(昭和十四)年、北海道長万部町生まれ。東京大学経済学部卒、同大大学院修士課程修了。東大在学中の六〇年安保闘争では全学連の指導的役割を果たすが、最終的に左派と決別。八六年に東大教授に就任、八八年に人事をめぐる対立を機に辞職。九四年に月刊論壇誌「発言者」(後継誌「表現者」)を創刊。八〇年代後半からは、討論番組「朝まで生テレビ」の出演など、評論家として活躍した。八三年『経済倫理学序説』で吉野作造賞、八四年『生まじめな戯れ』でサントリー学芸賞、一〇年『サンチョ・キホーテの旅』で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。主著に『ソシオ・エコノミックス』『大衆への反逆』、一七年六月に『ファシスタたらんとした者』、一二月に『保守の真髄 老酔狂で語る文明の紊乱』など著書多数。二〇一八年一月二一日没。享年七八歳。
第1回
■六〇年安保 煽動家への変容 〈メタモルフォシス〉

田原 総一朗氏
田原 
 西部邁さんは、六〇年安保のときの東大・駒場の学生運動のリーダーでした。彼は東大教授を辞めてから、我々は安保条約について何にも知らなかった、何にも勉強していなかったと言っていますが、それは僕らもそうで、当時の西部さんたち運動家は、岸信介はA級戦犯だと、岸がやる安保条約がいいわけがないと。一九四八年十二月二三日、今の天皇誕生日の日に、巣鴨拘置所(巣鴨プリズン)でA級戦犯七名が処刑され、その翌朝、岸信介、児玉誉士夫、笹川良一らが釈放されます。だから密約があったに違いないと。アメリカの戦争に日本も参加する、そのための安保条約だと思い込んでいたのです。吉田(茂)安保(五一年)と岸(信介)安保(六〇年)は根本的に違っていて、吉田安保は言ってみれば占領政策の延長だと。アメリカが欲しいと言えば、日本に相談なくどこにでもいつまでも基地を作れる。しかも日本を守る気はまったくないのに対して、岸の安保はアメリカが基地を作りたいときは事前に相談をしなくてはいけない。それから条約期間十年と期限を切って、日本を守る義務も入れて、非常に良くなったんだと。そういうことをまったく知らないで反対と言っていたんだと。なぜ反対していたか、さらに詳しく言うと、岸が二年前の一九五八年に予防拘禁を可能にさせる警察官職務執行法(警職法)の改正案を出した。戦後日本は占領されて警察が弱体化した、だから改正して強くしようということだったのですが、市民団体やマスメディアの抗議運動があって、野党はもちろん、自民党の中でも戦前回帰だとして廃案になりました。そういう経緯があって、岸信介の推し進める改定安保を学生たちは中身の検討をすることがなく大反対していたんです。そして安保闘争の六・一五事件で樺美智子さんが亡くなって、岸内閣は安保と心中することになったわけです。
猪瀬 直樹氏
猪瀬 
 西部さんは昨年、『ファシスタたらんとした者』(以下『ファシスタ』、一七年六月:中央公論新社)、『保守の真髄 老酔狂で語る文明の紊乱』(以下『保守の真髄』、一七年十二月:講談社現代新書)という二冊を出していますが、前者は個人史で、後者は自分の保守思想のことをもう一度言い直しています。十二月に出た『保守の真髄』のあとがきを読むと、自分はもうすぐ死ぬと、明言していますね。
田原 
 僕にも何度も言ってるんですよ。死ぬときは自殺する、ピストルを買うと。
猪瀬 
 『ファシスタ』では、六〇年安保までの生い立ちを書いていて、日米安保条約の意味なんて知らなかったと。その当時の学生運動は時代の気分の反映だから、本なんてろくに読まずに、安保の意味なんて理解しないで学生運動をやっていたのではないでしょうか。
田原 
 今もそうです。
猪瀬 
 では、なぜ六〇年安保の学生運動があったかというと、少し前の全学連委員長だった森田実さん(政治評論家)や香山こうやま健一さん(元学習院大学教授)の砂川闘争(五五年~六〇年代)や警職法反対闘争(五八年)といった学生運動がすでにあったのですが、西部さんは森田さんたちから五、六歳遅れてきた世代なんですよね。森田さんたちは立川の米軍基地拡張に反対する砂川闘争をやってもう終わっていた。それで共産党に対して反発する勢力として、新左翼のブント(共産主義同盟)が登場した。
田原 
 反代々木(反日本共産党)ですね。
猪瀬 
 それまでは共産党だけが唯一の左翼でしたが、六〇年安保の直前に新左翼が出てきて、ブントの新世代の一人として西部さんが現われて、当時北大にいた唐牛かろうじ健太郎が引っ張り出されて全学連委員長になる。唐牛はニューヒーローみたいな感じだったのではないでしょうか。
田原 
 僕は何度も会ったけれども、唐牛健太郎はとても素直な青年でした。後に右翼の田中清玄せいげんから金銭援助を受けていたことが発覚して問題になりましたが。六〇年安保では共産党も社会党も一緒に運動したけれど、安保のやり方をめぐって、共産党と新左翼が割れてブントが生まれたんです。
猪瀬 
 島成郎しげおさん(精神科医)がブントの書記長で、学生部隊として唐牛健太郎、西部邁、後に経済学者として功績を残す青木昌彦といった人物が新左翼として登場してきた。要するに過激だったということですね。共産党と社会党が手を組んで大学の先生も一緒になって普通にデモをやっているけれども、国会突入とか過激な学生運動がそのとき始まったということですよね。なぜそういう新勢力が生まれたかというと、一九五六年にハンガリー動乱が起きて、ソ連の支配に抵抗する民衆蜂起が起こる。共産主義というのはスターリン主義で結局独裁じゃないかと、アメリカの帝国主義とソ連のスターリン主義は等価であって冷戦構造が出来上がっているとの分析によります。
田原 
 だから、それを引き継いで六〇年代後半の全共闘は反帝反スタと言ったんです。
猪瀬 
 そういうものが共産党の中から一つの新しい潮流として出て来て、分派が起こって、それが世界連続革命論のトロツキーを担いでいるからトロツキストと呼ばれた。冷戦で固定化された構造に対して、変えていかなければいけないという動きが学生たちの眼に新鮮に映ったということですね。そして西部さんは北海道から出てきて大学に入ってそういう渦に巻き込まれる。学生は血気盛んだから、安保条約を勉強していなくてもこれが時代の潮流だと思うとそこに飛び込んでいくんです。当時の進歩的文化人たちも六〇年安保の意味、中身の論争なんかほとんどしていなかったのですから、学生が知らないのは当たり前で、ではなぜあれだけ盛り上がったかというと、あれはアメリカに対するリベンジ、ナショナリズムだと思います。
田原 
 反米のナショナリズムですね。
猪瀬 
 左翼が運動を起こしているように見えて内実はナショナリズムが底流にあった。ナショナリズムを左翼という表現でやっているという、整理されていない世界だったんです。
田原 
 いまだにそれは整理されていません。
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この記事の中でご紹介した本
ファシスタたらんとした者/中央公論新社
ファシスタたらんとした者
著 者:西部 邁
出版社:中央公論新社
以下のオンライン書店でご購入できます
保守の真髄 老酔狂で語る文明の紊乱/講談社
保守の真髄 老酔狂で語る文明の紊乱
著 者:西部 邁
出版社:講談社
以下のオンライン書店でご購入できます
 経済倫理学序説/中央公論新社
経済倫理学序説
著 者:西部 邁
出版社:中央公論新社
以下のオンライン書店でご購入できます
私の死亡記事/文藝春秋
私の死亡記事
編 集:文藝春秋
出版社:文藝春秋
以下のオンライン書店でご購入できます
生と死、その非凡なる平凡/新潮社
生と死、その非凡なる平凡
著 者:西部 邁
出版社:新潮社
以下のオンライン書店でご購入できます
2018年2月16日 新聞掲載(第3227号)
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