村上春樹と《鎮魂》の詩学 書評|小島 基洋(青土社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
読書人よ、集まれ!
▶メールマガジン登録

トップページ

特集

書評

連載

コラム

ニュース

読書人とは

読書人紙面掲載 書評
2018年2月24日

村上の小説に込められた鎮魂の技法を分析

村上春樹と《鎮魂》の詩学
著 者:小島 基洋
出版社:青土社
このエントリーをはてなブックマークに追加
村上春樹は昨年末にチャンドラーの長編7作の翻訳を終えた際のインタビューで、翻訳とは原典を「ばらばらにしてもう一度組み立て直す」作業であり、「小説は、どう解体するかというところにかかっている」、「自分自身の一部を訳しているような気持ちになることもあります」と答えている。

文学研究も村上のいう翻訳と創作の関係と近似しているのかもしれない。作品を解体し、そして組み立て直す、それは論じる者の一部を訳していく行為でもある―。

ジェイムズ・ジョイス研究者による本著は、喪われた恋人・「直子」への弔いに焦点を当てて、村上の小説に込められた鎮魂の技法を分析した書である。愛する人を失くした心の傷みに詩学が有効に働くことが明かされた。

まず、『風の歌を聴け』における詩学の技法は、「幻惑」である。喪ってしまった恋人を当初は直接的には描かず、自死したと知らされた日時の数字を作中に忍ばせることで代替させる幻惑、『風―』は八月の物語なのにホワイトクリスマスという言葉を置くことの幻惑。
ストレートに描かない理由は、描けないほど悲しみが深いからであろうことは、章を追うごとに明らかになっていく。タイトルの意味をテキストの中から綿密に追っていく方法も秀逸である。

喪われた恋人は『1973年のピンボール』で、ようやく「直子」という名が与えられる。直子とピンボールマシン、この「連想」の詩学は、『羊をめぐる冒険』で直子を、耳のモデルの女の子や誰とでも寝る女の子などで「再帰」させるところまで進められる。引き続き繰り返される作中に書かれた数字へのこだわりは、たとえば誰とでも寝る女の子が登場する周辺には25、26の数字がちりばめられていて、それは『ノルウェイの森』で直子が自死した8月25~26日と呼応していると指摘する。やはり連作的初期作品の核心は、直子の死にあったことがわかる。さらに『羊をめぐる冒険』冒頭にある8時25分など作品中に散りばめられている数字の再構築によって直子への追悼はゆるぎなくなされていることを鮮やかに分析していくのだ。

『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』では、スキータ・デイビスの歌詞を小説に引用する際に、海と星が含まれた行を削除したことの意味を、本当に大切なものは敢えて消すことで目立たせようとする詩学だと著者は述べる。遺漏なくテキストに向かう力は一貫している。

『ノルウェイの森』では、冒頭にある「多くの祭りフェトのために」の言葉に注目し、それがフィッツジェラルド『夜はやさし』の献辞に出典を見出して、作中に登場する精神を病んだ美少女ニコルと、『ノルウェイ』の直子をオーヴァーラップさせていく重要な指摘もある。最終章の『ダンス・ダンス・ダンス』は「埋葬」がキーワードになっている。死者を数字やマシンに置き換えて再現させ再喪失し、ようやく埋葬に至ることができた喪の行為の丹念な流れの追跡は圧巻である。

詳細なテキストの読みのみならず、掲載されている写真にあるピンボールマシンの構造や内部、埋め立てられて五十メートルしか残っていない芦屋の海岸線、かつて直子とデートしたであろう洋菓子店やピザハウスなどへの取材は、村上春樹へのオマージュという名にふさわしいフィールドワークである。

『ノルウェイの森』の直子は、「本当にいつまでも私のことを忘れないでいてくれる?」と「僕」に囁くように言う。忘れないために出来ることは、一枚岩的に記憶にとどめるのではなく、ばらばらにしてあちらこちらに置き、横着しがちな記憶中枢を常に奮い立たせる必要がある。そして、「本当に」と直子が念を押したように、心に深く刻み留めておくためには、喪ってしまったことの傷みを受け入れていくための詩学が必要であることを本著によって教えられる。
この記事の中でご紹介した本
村上春樹と《鎮魂》の詩学/青土社
村上春樹と《鎮魂》の詩学
著 者:小島 基洋
出版社:青土社
以下のオンライン書店でご購入できます
2018年2月23日 新聞掲載(第3228号)
このエントリーをはてなブックマークに追加
山﨑 眞紀子 氏の関連記事
読書人紙面掲載 書評のその他の記事
読書人紙面掲載 書評をもっと見る >
文学 > 日本文学 > ノンフィクション関連記事
ノンフィクションの関連記事をもっと見る >