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2018年3月13日

小説(語り)が抱える悪意 本谷有希子「静かに、ねえ、静かに」/木村紅美「羽衣子」

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最初に勝手なキーワードを言うのが簡単な気がする。今回は小説の「悪意」について。といって、かつて小川洋子の芥川賞受賞作「妊娠カレンダー」(一九九〇)の主人公が、毒性を含有するグレープフルーツの皮で作ったジャムを妊婦の姉に食べさせ続けた悪意のように、登場人物が抱える邪な気持ちのことだけではない。これから述べるのは、小説全体(語り)が抱える悪意のことである(ただし、当時の小川が、描きたいのは悪意そのものより、それを「隠そうとしたり誤魔化そうとしたりする心の動きの方」かもしれないと発言したことには関係する)。少し違うが、作家の悪意と考えてもいい。小説とは、その内容を語る者の悪意を、表現の可能性に転換することができる装置なのである。

本谷有希子「静かに、ねぇ、静かに」(群像)は、別個の短編三作で構成されているのだが、共通のテーマを取り出すなら、リアルとヴァーチャルが相互侵出する離人症的なSNS系社会の危うさである。第一編「本当の旅」が最も悪意・・の強烈な一作だろう。スマホでグループラインに陽性のメッセージや動画を常時アップし、「幸せ」の体験を共有し続ける「僕」らアラフォー三人のマレーシアへの旅。異物の混入―動画撮影中にぶつかったおじいさんの怒りなど―を排除する「加工」が次第に露わになる、そのほころびを、「仕事してるってこと自体、もっと恥ずかしいって意識を持つべきだと思う」式の、現実を否認する痛ましき論理が過剰に縫い合わせていく。そして結末において、虚実の不整合面は完全に破れ、「僕」らは身の破滅に至るのである。決して目新しい題材ではないのだが、各々の挿話のあるあるな細部の描写や、客観視のできない「僕」語りを通して、その「僕」の半宗教的な信念と揺らぎを見せていく話の展開は上手というほかない。ただ、人生の意味は「波動の形成」にあるんだ、というニューエイジな会話まで出てくると、やりすぎ感が目立ってくる。「僕」らが本当に新しいメディアを通した新しい幸福の共同性を築きつつある可能性を思わせる、わずかな判断保留の要素を読み手に残して欲しかった。

第二編「奥さん、犬は大丈夫だよね?」は、主人公の「私」が極端なオンライン買い物依存症ショッパホリックである点で前編のテーマを踏襲している。そんな妻の一時避難リトリートを目的としたのか、夫は会社の同僚夫妻のキャンピングカーによる一泊旅行に便乗する計画を立てた。無邪気でどこか危うい同僚夫妻や、移動する車内住居は、地に足の着かない「私」の無感覚化した日常意識の寓意のようなものである。その夜、「私」からスマホを取り上げていた夫が朝方のショッピング履歴を発見し、怒りに黙して車外に出て行ってしまう。「私」は同僚夫妻と飲み続け、不意に「あるはずのものが消えてるって、どんな感じかしらね」とイタズラを思い付いて車を移動させるのだが…。衝撃の結末を書くのは気が引けるので、抽象的にいうならば、やはり「私」は目を背けていたリアルなもの・・・・・・に決定的に躓くのだ。

三編目「でぶのハッピーバースデー」では、揃って失業中の夫婦が無様な二人三脚で、無気力な底辺生活からの脱却と再生を期している。夫にとって、でぶ・・と呼ぶ妻の歯並びの悪い口元は「いろんなことを諦めてきた人間」を指し示すである。ネットスラング的な意味でのフラグのようなものである。コンピュータゲームのプログラムは、プレイヤーキャラクターが何らかの選択をした場合、特定のフラグを立たせ、それに応じた特定の展開・結末を用意するという記述の仕方をする。つまりフラグとは、キャラ当人からは見ることのできない、しかしプログラムの全体から背負わされた宿命のことである。でぶ夫妻にとって、でぶの口元は夫妻を不幸へと導く刻印なのだ。その意味では、本編も拡張現実の世界を描いた話になる。そして、ほんらいメタ世界に属するはずのを、歯医者で現実に取り除くという越境行為をしたとき、夫妻にとっての世界の虚実の噛み合わせはゆがみ、でぶの顔面は無残にも崩れ始めていく。しかし、虚と実を切り離し、正しく折り重ねた世界に生きている周囲の正常な人間たちは、でぶの肉体的な崩壊にまるで気が付かない。

以上の三連作すべて、悪意によって掬い出された世界を描いている。というのも、私の考える悪意の語りとは、自分を戯画化する自嘲的な視線ではない。また、風刺のように対象を攻撃する視線でもない。それは、現実が正しく見えなくなった者、虚実を混同しながらも「善意」に生きている(つもりの)人間に、生ぬるく寄り添う視線なのである。ただ、文字通りドラマチックかつカタルチックな演出を求められることの多い舞台演劇の影響もあるのか、どの作も誇張法のえぐみが少々残るのが玉に瑕か。

その点のさじ加減に気を遣ったのが、木村紅美「羽衣子」(すばる)だろう。五十過ぎで独り身の晃代あきよは、バイト先のスーパーに頻繁に現れる後藤という男やもめの存在を意識している。ある日、晃代は近所の川で白鳥の餌やりに居合わせた精神障害のある後藤の娘を、羽衣伝説にちなんで羽衣子ういこと名づけ、人間界に捕らわれた白鳥の化身に見立てた悲話をこしらえる。あげく、彼女の救出を理由に後藤宅に勝手に上がり込むまでに屈折した、半ば無自覚的なストーカー行為をするようになる。怖いといえば怖い。しかし、舞台である盛岡の住宅街の星空を背景に、白鳥が舞う幻想的な風景のように、どこまでが晃代の妄想で現実なのか、彼女の狂気と正気の境は最後まで曖昧なままだ。怖さを怖さとしてだけではなく、多少は愛すべき存在に落とし込む効果が悪意の語りにはある。ジェンダーバイアスのかかった感想かもしれないが、この種の目線の使い手は女性作家に多い気がする。『文學界』の特集が岡崎京子というのも何かしらの符号かもしれない(まともに読んだことはないのだが―いま『pink』を読んだらちょっと違った)。

その他の面白かった作品について。吉村萬壱「真空土練機」(すばる)は、要約の不可能な、種々の人物の拙劣な思惑をまさに真空土練機に原土として放り込んでひねり出したような群像喜劇。神的視点から、その時、その時の瞬間をつないで場面と人物の転換をしていく手法は新しくはないが、微妙に蔑視的なPC抵触寸前の文言をリズミカルに畳みかける饒舌な文体とあいまって、滑稽のうねりが作り出されていく。結末の「一本糞」(の排出の快楽)以外に何も残らない潔い作品。

松尾スズキ「もう『はい』としか言えない」(文學界)は、詳細を紙幅の都合で省略せざるをえないが、浮気で家庭というパーソナルな世界の危機を作ったダメおやじが、安楽死という人類規模の倫理の問題に巻き込まれる冒険譚とでも言っておけば良いのか。力作であることは述べておきたい。少し気に掛かるのは、浮気の事実を突きつける妻と主人公のリビングでの無言の対峙を描写して「ハイパーリアリズム絵画のようである」とするような一言多い戯画的な比喩である。手癖のようなものだと思うが、時代を帯びて見えるので、卒業してもいいのでは。

最後に、小谷野敦「とちおとめのババロア」(文學界)。フランス文学を専門とする三八歳の大学教員である純次が「ネットお見合い」を通じて、文学好きの皇族女子ヨウコと出会い、結婚に至る話。女王の生活実態をどれだけ精確に反映しているのか判断できないが、一方の純次のように文学的素養が無駄に豊かで根は不謹慎という研究者は、その逆の、無駄に生真面目だけど専門外の教養は覚束ないタイプに比べて絶滅種になったと思うので、全般に事実的なリアルさはないが話としてのリアリティはあるといった印象である。皇室関係は時事的なトピックなのでタッチィな部分もあると思うが、宮家の人間が「出会い系」に登録していたとしても、特に不敬な印象を持たせない。人間主義的な観点から天皇制に否定的な見解に寄るようにも見えるものの、政治的立場が押し出されることもない。むしろ本作は、皇族や研究者のような存在要件として世界とのディタッチメントを必要とする人間が、結婚やその前提となる愛情という否応なしのコミットメントを要する、その両立可能性を探る話として読めるのではないか、と私は考えた。その点で、ふつう純文学が忌避するハッピーエンドな結末も有意義になろうというもの。ところで、バルザックと徳田秋聲の邂逅に込められた意味があるとしても、無教養な私にはわからない。衒学的な嫌味が滲み出るのは確かだが、マンガチックな小ネタと文体の抑制が効いているので、とぼけた味わいも醸しており、楽しく読めた。

なお、松尾と小谷野の間に紛れ込ませてある壇蜜の「タクミハラハラ」(文學界)だが、周囲のいかなる思惑が交錯しているか知るよしもないが、このレベルなら掲載しないという結論が欲しかった。
2018年3月9日 新聞掲載(第3230号)
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