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2018年3月10日

まさに作者の遺訓 
誰もが「敗者」であるからこそ問われる生き方

玄鳥さりて
著 者:葉室 麟
出版社:新潮社
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玄鳥さりて(葉室 麟)新潮社
玄鳥さりて
葉室 麟
新潮社
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昨年の十二月、葉室麟が死去した。享年、六十六。あまりにも突然の訃報に衝撃を受け、それは今でも続いている。だからだろう。死後に刊行された本書が、作者の遺訓に思えてならない。

九州の蓮乗寺藩。百五十石の家に生まれた三浦圭吾は、城下にある林崎夢想流の道場に通っていた。そこで元服前の圭吾の面倒を見てくれたのが、八歳年上の樋口六郎兵衛だ。三十石の軽輩だが、道場一の腕前で、独自に編み出した秘剣「鬼砕き」の使い手である。六郎兵衛に譲られた手柄が縁となり、藩と関係の深い商家「津島屋」の娘の美津を娶り、さらには家老の今村帯刀の派閥に所属することになった圭吾。日の当たる道を歩き、順調に出世していく。

一方、どこか陰のある六郎兵衛は、帯刀の政敵に剣の腕を見込まれ、刺客を命じられる。しかし帯刀の護衛に圭吾がいたことから、目的を果たさず退散。この一件が尾を引き、藩士を斬った六郎兵衛は、遠島になってしまう。

それから十年。罪を赦され帰って来た六郎兵衛は、寺男になり、静かに生きていこうとする。だが、終わることなき権力闘争にかかわり、身動きできなくなっていた圭吾を助けるため、再び剣を振るうのであった。

蓮乗寺藩は、作者の創作した架空の藩である。二〇一三年の『おもかげ橋』に登場しているので、名前を記憶している読者もいるはずだ。ただしストーリーの直接的な繋がりはないので、いきなり本書から読み始めても大丈夫である。本を開けば、すぐに物語の世界に引き込まれるだろう。なぜなら圭吾と六郎兵衛のキャラクターが魅力的だからだ。

ふたりの主人公は、実に対照的である。まず圭吾だが、傍目には羨ましいほどの出世をしながら、藩の暗部を知り、しだいに追い詰められていく。不運な境遇の六郎兵衛を助けようとしながら、保身や権勢欲に溺れ、利用しようともする。常に心が揺れ動く、人間臭さを抱えているのだ。

そして六郎兵衛だが、とにかく一途である。周囲からは衆道ではないかと思われるほどの好意を圭吾に寄せるのだが、その真意が判明するエピソードには感動した。暗い人生の中でも、光を失うことのない純粋な心に、胸打たれるのである。このふたりを通じて作者は、人を想う心の尊さ、生きることの厳しさ、矜持の持ち方など、さまざまなことを教えてくれる。まさに遺訓といっていい。だから、興趣に満ちたストーリーを追っているうちに、襟を正したくなってしまうのである。

ところで、エッセイ集『河のほとりで』に収録された「歴史小説を書くということ」で、作者は歴史を正直に見つめることの難しさを述べながら、“ひとは生きていくことで、挫折や失敗の苦渋を味わう。そうなると、歴史を見つめても、もはや「勝者」の視点は持ち得ない”という認識を得たと書いている。こうした人間に対する眼差しが、本書にも注がれているのだ。ラストまで読めば明らかだが、圭吾と六郎兵衛のみならず、彼らを利用しようとした家老や藩主も、勝者たりえていない。

そこに物語の、深い読みどころがある。誰もが挫折や失敗をする「敗者」であるからこそ、生き方が問われる。心に迷いのある者は、悩みながら進めばいい。覚悟の決まっている者は、一心不乱に進めばいい。もちろん人によって、求めるものは違う。でも、懸命に歩んだ先に、それは確かに存在する。圭吾と六郎兵衛が体現しているではないか。彼らの人生こそが、敗者の栄光に他ならないのだ。
この記事の中でご紹介した本
玄鳥さりて/新潮社
玄鳥さりて
著 者:葉室 麟
出版社:新潮社
以下のオンライン書店でご購入できます
2018年3月9日 新聞掲載(第3230号)
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