楽隊のうさぎ 書評|中沢 けい(新潮社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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【書評キャンパス】大学生がススメる本
2018年3月17日

中沢 けい著 『楽隊のうさぎ』
就実大学 安宅 星夏

楽隊のうさぎ
著 者:中沢 けい
出版社:新潮社
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楽隊のうさぎ(中沢 けい)新潮社
楽隊のうさぎ
中沢 けい
新潮社
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頭上まで満たされた水に喘いでいたのに、実は座り込んでいただけで、立って見渡してみると水位は腰ほどしかなく、案外自分でも対処できそうだと思えることがある。混乱状態で自分の状況に気付くことは難しいが、それを周囲の人が教えてくれることもある。しかし、その人の自分への信頼に気付けていなければ、そもそも教えてくれる言葉が耳に入ってこない、ということはないだろうか。この物語は、心がすれ違うもどかしさと、人や自分自身を信じることの大切さを、教えてくれる。

主人公の奥田克久は小学校でいじめに遭い、中学入学後は学校にいる時間を短くしようと決めていた。しかし、部活動は全員加入という校則のもと、先輩の熱烈な勧誘があり、彼は吹奏楽部に入部する。ただでさえ吹奏楽部は体育会系文化部とも言われるほど練習が厳しく、コンクール前の夏休みは返上して練習に励むのが当然といったところがあるが、克久の通う中学校の吹奏楽部は全国大会連続出場を果たすほどの強豪であり、ましてや練習も一層厳しい、ということを彼は知らなかったのだ。意に反する入部ではあったが、克久は思春期特有の戸惑いを抱えながらも、個性豊かな部員や顧問の先生と共に音楽を作り上げることに夢中になり、徐々に変化していく。技術的にも、そして精神的にも成長を遂げた克久は、吹奏楽コンクール自由曲の冒頭を飾るティンパニの役割を任される。曲の一音目がどう出るかで、その後の評価が大きく変化するため、責任重大である。それも、静まり返った広大なホールで、五千人の視線を集めて放つ一音である。奏者にのしかかる重圧は並大抵のものではない。

練習に練習を重ねて本番に挑んだ克久だが、いざ舞台に立つと、緊張で気が動転してしまう。実は私もたいへんなあがり症だ。吹奏楽部でトランペットを吹いていたが、一音もまともな音が出せないまま舞台を降りる、ということがままあった。作中では、この時の克久の身体の中が、「宇宙の神秘と呼びたくなるくらいの大きな暗黒が恐怖と沈黙の結合物として広がる」と表現される。大げさに思うかもしれないが、極度に緊張している人の心中を写生したら、まさにこのような絵ができあがるだろうというほどに的確だと感じる。優れた比喩表現はここに限ったことではなく、演奏中に感じていた漠然とした不安や昂りが言語化されていく感覚に喜びを覚えた。

一時は己の闇に飲み込まれた克久だったが、顧問である指揮者の笑顔に、周囲との輪郭が明瞭になることへの勇気を与えられ、雄々しい「孤独」な奏者として、仲間の努力を全身で引き受ける覚悟を決め、立ち上がる。音楽に出会う前の克久なら、他人の笑顔に気づき、そこに信頼を感じることすらできなかっただろう。克久は、音楽に触れることで、確実に変化した。

中学一年生の夏、この作品に出会った。吹奏楽を始めたばかりで、一致団結して作り上げる音楽に夢中だった。当時貼りつけた色とりどりの付箋が今も残っているが、大学生になって読み返すと、なぜ心に残ったのか思い出せないページにも貼ってある。しかし、以前は理解できなかったノーマークの文章が、今は胸に訴えかけてくる。この本には、克久の母親・百合子の目線で書かれた部分もあるが、現時点において理解はできても、共感はし難い。きっとまた、わたしが親となったときに読み返せば、新たな付箋を追加することになるだろう。
この記事の中でご紹介した本
楽隊のうさぎ/新潮社
楽隊のうさぎ
著 者:中沢 けい
出版社:新潮社
以下のオンライン書店でご購入できます
2018年3月16日 新聞掲載(第3231号)
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