記憶の家の祈りの調べ 睦月 都|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
読書人よ、集まれ!
▶メールマガジン登録

トップページ

特集

書評

連載

コラム

ニュース

読書人とは

ニューエイジ登場
2018年4月10日

記憶の家の祈りの調べ
睦月 都

このエントリーをはてなブックマークに追加
母は五島列島の生まれで、夏休みになると母はいつも、私と妹を連れてその生家に戻った。祖母は花を育てるのが好きな人で、離島の田舎らしく広すぎる土地の内部には、子どもたちには出入りを禁じられていた蘭の温室や、階段を昇って入る、円型のしゃれた花壇があった。とはいえ、子どもだった私にはそこに植わっている花々の美しさよりも畑で穫れる西瓜のほうがはるかに魅力的だったわけだが、今はもう住人のいないあの家での生活を回想するとき、あの円型の花壇から逃れ出るように咲いていた百合の花をまず思い出す。それから、蜜をふくんだサルビアの赤。びたびたと跳ね回っていたトカゲのしっぽ。ぼおぉん、と時刻を告げる柱時計。朝、その家にいる者たちがみな起き出して祈りを捧げた「祈りの間」……。

 あやまちて切りしロザリオ轉がりし玉のひとつひとつ皆薔薇 葛原妙子『原牛』

葛原妙子の歌をはじめて読んだとき、形容しがたい深い衝撃に打たれながら、これは祈りの調べのようだ、と思った。かつてあの「祈りの間」で、よく意味もわからず唱えていた祈祷文が蘇った。

どの宗教にもある程度共通して言えそうだが、カトリックの祈祷文には独特の「ふし」がある。それはおそらく意図して構成されたものではなく、古くより、大勢の信者が一堂に会して祈りを唱えているうちに自然と生まれてきたものだろう。ここで祈祷文の調べについて詳細に検討してゆくことは叶わないが、最も重要な「主の祈り」を例に引くだけでも、〈天にまします我らの父よ、〉と一節目を七・七で入りつつ、〈願わくは御名の尊まれんことを、御国の来たらんことを、御旨の天に行わるる如く、地にも行われんことを……〉と、伸びやかに長く唱える節と、短く・低く言い切る節との繰り返しが行われていることに気付く。葛原の非常に独特な韻律感を「横溢と欠落」という語を以て指摘したのは川野里子氏だが、この「横溢と欠落」の韻律に、私は先に述べたようなカトリックの祈りの調べになにか近似したものを感じずにいられない。

葛原はその晩年まで信仰を拒み続けたが、長女・猪熊葉子氏が大学入学をきっかけに入信して以降、カトリックに対しては並々ならぬ執着があったという。対して私は幼い頃に洗礼を受けたものの、次第にカトリックへの信仰を手放していった方の人間である。だが最近になってまた、私という人間の奥にも、カトリックやそれにまつわる記憶が深く根を生やしているようだと、そんな自覚が芽生えてきた。

 悲傷なきこの水曜のお終ひにクレジットカードで買ふ魚と薔薇 睦月都

私は文語で歌を作っているが、その文語感覚のルーツを思うと、幼い頃に丸覚えした多くの聖歌や祈祷文に行き当たる。また、自分の歌に頻出する「魚」や「薔薇」といったモチーフも、やはり自分の中に根強く宗教的なイメージが残っているのだろう。その宗教的な感覚は歌人としての自分の資質を育んだ土壌であったと同時に、今なお衰えぬ巨大で強力な呪縛であるように思える。

表現をする上で、自らの出自を問い直すことを避けては通れない。これから、私は歌を通して何度もあの記憶の家に戻りながら、あの頃とは違う今の〈私〉の目で、宗教という大きな問いを見つめ直す必要にたびたび迫られるだろう。その強い予感が、今の自分に兆している。
2018年4月6日 新聞掲載(第3234号)
このエントリーをはてなブックマークに追加
ニューエイジ登場のその他の記事
ニューエイジ登場をもっと見る >
学問・人文 > 評論・文学研究 > 作家研究関連記事
作家研究の関連記事をもっと見る >