プリーシヴィンの日記 1914-1917 書評|太田 正一(成文社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
2018年4月21日

日記が作家の存在証明としての作品であり人格そのものである

プリーシヴィンの日記 1914-1917
著 者:太田 正一
出版社:成文社
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ロシア・ソビエトの作家ミハイル・プリーシヴィン(一八七三―一九五四年)の名前は、日本ではあまりなじみがないかもしれない。その最大の理由は、ロシアで彼の理解が十分進まなかったことにある。その結果、一部の人々の称賛と評価を除き、自然・動植物の観察者、森と水の歌い手、子供向け作家、放浪する詩人=哲学者、あるいは車・カメラや狩猟好きのナチュラリストとされてきた。

しかし、作品が徐々に、幅広く読まれていくのと並行して、ソビエト末期の一九八〇年代以降、本格的な理解が始まる。その大きな契機となったのは日記の出版だった。日記が作家のバイオグラフィ解明だけでなく、作品理解に不可欠なことはプリーシヴィンの場合に限らないが、彼の日記は特別だった。一九〇五―一九五四年のほぼ半世紀にわたって書き継がれ、しかも、作家が終生こだわり続けた日記を保存し、解読・校訂作業に没頭した妻と協力者たちによって日記出版という「事件」が引き起こされたのである。日記のごく一部はすでにソビエト期に活字化されていたが、厳密な校訂・編集作業による全文刊行は一九九一年に始まり、二〇一七年に終了した。全一八巻(約一万四千ページ)、これによってプリーシヴィン日記の全体像がようやく明らかになった。

五〇〇ページを越える太田正一氏による編訳書は、作家の日記全体から見れば初期の三年間でしかない(厳密には、逮捕される一九一八年初頭まで)。しかし、日記が作家の存在証明としての作品であり、人格そのものであるという事実が今回上梓された訳書からも十分伝わってくる(ちなみに、太田氏によるプリーシヴィン作品の訳本は五冊を数える)。評者は、プリーシヴィンの日記全体を「二〇世紀前半ロシア社会の異種年代記」と考えるが、初期の段階ですでにその予兆は示された。

日記が始まる一九一四年以前、彼はすでに作家の道を歩んでいた。ギムナジア(古典中学)への入学、落第・留年と放校、シベリア、バルト、カフカスでの学業とマルクス主義運動の「洗礼」、そして逮捕、「不穏文士」の烙印を押されてライプチヒへ逃亡、同地の大学入学・卒業、帰国後は農業技師として働きながら作家を志し、北ロシア、奥ヴォルガその他の土地の民俗誌(太田氏の訳本がある)や短編作品を発表し、三巻著作集(一九一二―一四年)を刊行していた。第一次世界大戦からロシア革命時までの注目すべき転形期を扱った今回の訳書では、戦場を駆け廻る従軍記者としての活動や、農村も都市も革命前の騒然たる状況下、母親からの小さな相続地での農作業に腐心する姿、さらに、革命状況への過敏な反応(二月革命後の県委員会全権代表としてボリシェビキの槍玉にあがった)、土地所有をめぐる多くの闘争の中で苦悩する自身の様子が仔細かつ精緻に観察・記録されている。作家自身の感性と思索の過程を知るだけでなく、第一次世界大戦の激戦地ガリツィアのルポルタージュとして、また、革命直前の農村の荒廃ぶりや地方の政治的・社会的混乱を伝える証言としても貴重である。

かつて、彼と交流があったシンボリスト詩人アレクサンドル・ブロークは、プリーシヴィンについて「ロシア語の達人」だが、「文学の形式を、言葉ほど自由に駆使してはいない」と評したことがある。それは苦言ではなく、形式優先の一九世紀的文学観と二〇世紀的なそれのズレを示す指摘であり、同時に、プリーシヴィン作品が枠としての文学を逸脱していたことを物語っている。日記はそのことを鮮明に教えてくれる。時に読者は、日記と短編作品とのボーダーが消滅し、両者が一体化するかの印象を抱くことがあるが、それは、目に映った自然・季節や動植物、そして人々や社会の一瞬の移ろいと変容に目を凝らし、省察する中、始原の言葉を求めて彼が日記に向かっていたためであろう。

凝縮度がきわめて高い訳業に心から称賛の言葉を贈りたい。
この記事の中でご紹介した本
プリーシヴィンの日記 1914-1917/成文社
プリーシヴィンの日記 1914-1917
著 者:太田 正一
出版社:成文社
以下のオンライン書店でご購入できます
2018年4月20日 新聞掲載(第3236号)
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