海を抱いて月に眠る 書評|深沢 潮(文藝春秋)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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2018年4月21日

日韓両国の戦後に翻弄された一人の男性の生涯

海を抱いて月に眠る
著 者:深沢 潮
出版社:文藝春秋
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この小説は、九〇歳で死去した李相周イサンジュの葬儀の場面からはじまる。国本直男、文徳允ムントクユン文山徳允ふみやまとくのぶなどいくつかの名前を持つが、それは苦難に満ちた李の生涯を表している。各章の凡そ半ばで視点が入れ替わる。小説の現在の時間を李の娘梨愛リエが、過去を李が語ることで、李の生き方が複眼的に、説得力をもって捉えられることになる。

寝室の机の引き出しには、大学ノートの束を入れた紙袋が遺されていた。二〇冊に及ぶノートには、韓国から密航してきた李の半生が記されていた。

一九三一年に慶尚南道キョムサンナムドで生まれた李は、四七年二月、友人の姜鎭河カンチンハ韓東仁ハントンインと共に、密航船を使って三千浦から対馬沖に脱出した。帝国日本による植民地支配から解放された後の韓国では、民主化デモやストライキを取り締まるために戒厳令が布かれ、「アカ狩りと称して報復に及ぶ警察と右翼になぶり殺しにされた人びとも少なくなかった」。

朝鮮半島では当時、住民の自治機関であった人民委員会を、米軍政が弾圧したことに反発し、四六年九月、釜山にはじまる鉄道労働者のストライキが全国規模のゼネストへと拡大した。しかし慶尚北道キョムサンポクド大邱テグで、警官隊と民衆のデモ隊との武力衝突、いわゆる「一〇月抗争」と呼ばれる事件が発生し、約三カ月にわたって白色テロが加えられた。

空襲の傷跡がまだ生々しい博多の街で、李はアメリカ兵を目撃するが、「笑顔をふりまく明るいその姿は、朝鮮半島を血なまぐさい抗争に追いやった犯人とはとうてい結びつかなかった」。その一方、日本の都市が「こんなにも破壊されてしまったことに打ちのめされると同時に、日本人がアメリカ兵を恨むことなく従順でいることがにわかには理解できなかった」。

同じ密航船に乗ってきた運び屋のアン・チョルスが闇市で米の配給手帳を買う。戦後の混乱のなか、その手帳は身分証明書として使えたことから、李は「文徳允ムントクユン」という身分を手に入れた。「雄鶏のように、賢く、耐え、信頼される強い男になるんだよ」というオモニの言葉通り、彼は日本名を使わず、いつか祖国に帰る日を夢見ながら「ムン」として生きようとする。

一九六〇年四月、不正選挙で大統領に就任した李承晩に抗議する大規模なデモによって、大統領が下野する。いわゆる「四月革命」に呼応して「権力に媚びず、金の力に誘惑されない、暴力に屈しない」方針を掲げる在日韓国青年同盟(韓青)が設立され、文京区金富町に事務所を構えることになった。韓国政府の御用団体のような存在であった民団青年部に反発を感じていた文は、鎭河と東仁と共に韓青に入会する。  

朴正煕パクチョンヒが軍事クーデターによって独裁政権を樹立すると、それを支持する民団指導部から韓青は「さまざまな脅しや圧力を受ける」ようになった。暴力団に襲撃され、韓青から脱会する者が出てくる。

韓青の事務所に手伝いにきていた南容淑ナムヨンスクに魅かれ、文は彼女と結婚する。日韓国交正常化のための会談が再開された頃、初めての子どもが死産するという不幸に見舞われる。「日本の植民地支配の責任問題を曖昧にしてでも金銭のやりとりを優先させる」朴政権に、そして「過去にきちんと向き合おうとしない日本の不誠実な態度」に文たちは「怒り心頭」だった。

「堂々と、韓国人としての誇りを持っている若者」であり続けようとした文に対して、日本で生まれ育った容淑は、「あなたにとっての韓国人は、あくまで朝鮮半島に住む韓国人で、私たち在日韓国人ではないのね。在日韓国人は日本の社会で差別されてきて、ずっと苦しんできているのに、私たちが暮らしやすくなるようになんてあなたは考えていないでしょ」と抗議する。

「いつも目が向いているのは海のむこうばかり」で、結婚記念日すら忘れてしまうという文の生き方に、容淑は苛立ちを隠しきれない。二つの国で生きることの相克が夫婦の間で表面化した場面である。

小説の中で発生する重要な事件の一つが、一九七三年八月八日の金大中拉致事件である。民団反主流派によって結成された「民族統一協議会」は、金をかくまう。メンバーの一員であった文も、潜伏活動を資金面で支える役割を与えられる。しかし息子鐘明が先天性心疾患の治療のために手術を受け、妻の実家のプラスチック工場が倒産し義父が心臓麻痺で急死する。

窮地から脱するために、文は変節を余儀なくされ、民主化運動に加わらないことを誓約させられる。さらに、韓国に強制送還された韓東仁が国家保安法違反の罪で逮捕され、獄死したことを知らされる。文はついに〈海のむこう〉の世界をあきらめ、〈海のこちら〉で家族と共に生きることを決意する。「文山徳允」の通称名を使いはじめるのは、この頃からであった。

この小説には、東西冷戦の下、日韓両国の戦後に翻弄された一人の男性の生涯が感動的に語られている。テロと独裁、そしてマイノリティへの差別に耐えながらも、人間の尊厳を見事に回復した民衆の戦後史であるといえよう。
この記事の中でご紹介した本
海を抱いて月に眠る/文藝春秋
海を抱いて月に眠る
著 者:深沢 潮
出版社:文藝春秋
以下のオンライン書店でご購入できます
2018年4月20日 新聞掲載(第3236号)
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