人形 書評|ボレスワフ・プルス(未知谷)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
2018年4月28日

ポーランド近代社会の壮大なるパノラマ

人形
著 者:ボレスワフ・プルス
出版社:未知谷
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人形(ボレスワフ・プルス)未知谷
人形
ボレスワフ・プルス
未知谷
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ポーランド近代小説の傑作『人形』の翻訳がついに出た。すでに二〇を超える言語に翻訳されている本作は、今日使用されているのとほぼ変わらない標準ポーランド語で綴られ、本国では現在も初中等教育の必読図書に数えられる。待望の邦訳だ。

作者ボレスワフ・プルス(本名アレクサンデル・グウォヴァツキ)は1847年ルブリン地方のフルビェシュフに生まれた。ルブリン地方は現ポーランド共和国の地図では最東端に位置するが、列強諸国による分割統治下にあった十九世紀においては、ロシア領に属していた。父親は士族(農奴制に立脚した荘園領主で、「シュラフタ」という)家系の出だったが、いわゆる零落士族で、領主の地所の管理業務に従事していた。青年プルスは生活費や学費を自力で工面しなければならなかった。

1870年代初め、プルスは当時新しいメディアとして大衆の内に読者を獲得しつつあった新聞や週刊誌に、進歩的啓蒙的な時事評論・随筆を書き始めた。数十年にわたって書かれたその膨大なテクストは、作家本人によって『週刊クロニカ』と名づけられ、二〇世紀後半二〇巻本で刊行された。文芸批評家スタニスワフ・ブジョゾフスキは言う。「プルスの登場人物の心理や彼らの話す言語には、社会構造の中で起こる絶え間ない変化の影響が感じられる。プルスは社会環境に対するバルザック風の感性をもっている」(『ポーランド人作家小事典』、1966)。『週刊クロニカ』で培われた緻密な観察眼、不平等な社会体制に対する皮肉なまなざし、人情味あふれるユーモアはプルスの作品世界にも通じる。

プルスの小説家デビューは1873年のことであった。数々の優れた短篇を世に送り出したのち、1880年代半ば頃から長篇へ転じた。『人形』は長篇二作目にあたる(1887年から89年新聞連載、90年刊行)。物語は、士族の娘イザベラ・ウェンツカに恋焦がれるスタニスワフ・ヴォクルスキを中心に展開する。ヴォクルスキは零落士族の家柄出身で、1863年の蜂起参加者としてシベリアへ追放された過去をもつ。ワルシャワへ舞い戻った彼は高級雑貨店の主として手広く商売を展開し、瞬く間に一財産を築き、士族に商売の資金を提供するほどの地位へのし上がっていく。彼は新興市民勢力の代表である。一方、ウェンツカ家に代表されるポーランド士族は、実際は破産状態にありながらサロンに出入りし、散財し、彼らだけに許される慣習や作法を守りながら生きている。農民はいまだ人間扱いされず、ワルシャワ郊外には貧しい庶民がごまんといる。ユダヤ系住民は激しい反ユダヤ主義に晒されながらも、商業資本の分け前にあずかろうとチャンスをうかがっている。ヴォクルスキ雑貨店の老いた番頭ジェツキは、「諸国民の春」で味わった高揚感を懐かしみながら、旧世代の代表として社会の変化を憂う。「社会は沸き立つ湯だ。昨日底にあった水は、今日表面めがけて上昇し(中略)、明日はまた下へと降ってゆく」(971頁)。

本作の見どころの一つは、多様な新旧勢力のせめぎ合いが、登場人物の話す言葉や語り口によって書き分けられる点にある。言語が身分や階級の違いを示す指標として機能し、言葉遣いからお里が知れる・・・・・・――そんな言語空間が1870年代末のワルシャワにはあった。それは時として、ポーランド・ロマン主義の礎だったポーランド語が、異言語によって凌駕されるスリリングな瞬間を生む。ポーランド貴族のフランス語交じりのポーランド語(「フランス語をふんだんにちりばめた、まるで吹き出物だらけの人間の顔のようなポーランド語」、82頁)、ロシア商人スジンの話すロシア語訛りのポーランド語、ユダヤ人高利貸しシュラングバウム氏のイディッシュ語が、標準ポーランド語を転覆させんばかりの勢いで飛び交う場面は圧巻だ。

もっとも訳者は、イディッシュ語を「つたない不完全なポーランド語」風に訳し、「文法的破格を多く含む、ユダヤ人訛りが強いポーランド語なので片仮名語で表記した」という注を付けている。これは、貴族階級や市民階級の話す標準ポーランド語を頂点とする言語的序列が、本小説の背景になっているせいだ。標準ポーランド語と同格になりうるのは「国語」であるドイツ語やフランス語(しばしば原語のまま表記されている)であってイディッシュ語ではない、ということなのだろうか。

たしかに「失われた国家主権の回復」という政治的使命を担ったポーランド・ロマン主義は、各分割領内で文化闘争が繰り広げられる中、ポーランド語を旗印とした。社会の啓蒙と近代化を牽引した新興勢力、すなわち市民は、そのロマン主義を乗り越えようとしながら、気づけば自身の内部を侵食され、足元をすくわれていく。イディッシュ語が彼らの耳元でどう響いていたのか、という問いは、本作を読み解くもうひとつの鍵であろう。(関口時正訳)
この記事の中でご紹介した本
人形/未知谷
人形
著 者:ボレスワフ・プルス
出版社:未知谷
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2018年5月4日 新聞掲載(第3237号)
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