小説とは何か? 芥川龍之介を読む 書評|小谷 瑛輔(ひつじ書房)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
2018年4月28日

「作者芥川」という一つの物語に集約されていく「芥川作品」たち

小説とは何か? 芥川龍之介を読む
著 者:小谷 瑛輔
出版社:ひつじ書房
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本書は、芥川龍之介の研究において、この十年ほど精力的に執筆活動を重ねてきた著者が、二〇一四年に東京大学に提出した博士論文『芥川龍之介研究』をもとに編んだ一書である。

一読して気づかされるのは、その手法がいかにもオーソドックスなことである。目次を見ただけでも、「羅生門」「鼻」「酒虫」「手巾」「芋粥」「或日の大石内蔵之助」「南瓜」……と、従来あまり注目されてこなかったものもふくむ初中期の「作品」が時系列に沿って並べられ、論の対象となっている。本書はこうして、「芥川作品」を「貫く一つの文学理念」や「芥川的な思考」を浮かび上がらせようとするのである。

著者によれば、「芥川作品」に一貫しているのは「自己言及」性だという。著者が芥川を「小説の規範の境界を際立たせ続けた作家」と呼ぶゆえんである。具体的には、「「羅生門」で語り手の枠組みを逸脱していく主人公が描かれ、語りによる意味付けの不可能性が示されると、次には「鼻」で、当初の枠組みを離脱した主人公を再び別の枠組みによって捉えようとする語り手が登場し」(第十章)という具合に、本書において、「芥川作品」たちは、「作者芥川」というひとつの物語に集約されていくのである。

本書において、「作者」という語は「語り手」ともに用いられているが、著者はそれを、いわゆる「内包された作者」よりももっと実体に近いものとしてイメージしているようだ。同時代の言説や人間関係、芥川個人が執筆に際して参照した資料などを駆使して、著者はいわば、想像される理想の「作者」像を語り、先行研究による批判から芥川(の小説)を守っている。

文学研究の世界において、「作者」の扱いは実に難しい。しかし、「言語」というものの性格上、「ある表現主体が小説によって何ごとかを表現する」、「作品そのものから読み取れる問題」といった語り方は、ややナイーブであろう。むしろ、読む立場でありながら「表現主体」を代弁せずにいられない(我々の)欲望の出所が那辺にあるのかという地点に踏み込んで論じてもらえたら、まさに「小説とは何か?」についても一層議論が深まったと考えるが、これはない物ねだりであろうか。

というのも、本書の記述の中には、非常にすぐれた文学社会学的アプローチとして読める部分も少なくないからである。例えば第二章では、「問題文芸」が否定され、その代表的存在としてバーナード・ショーが排除されていく大正五年当時の文壇を背景に、芥川の初期小説も同様に「深み」のなさを批判されがちであった状況が示されている。そうした背景のもとに初めて、「手巾」で、「ストリントベルクの毒をまだ理解できずに読んでいる長谷川先生の様子が、ショーを読んでいながら」「ショーの毒を理解できない英語教師の滑稽さになぞらえられている」ことの「深み」もわかる。また、長谷川先生が読み、「型」の「臭味」を心乱されるストリントベルクの文章が、ショー批判で知られる小宮豊隆の訳だということに、一種の言説の応答状況を見ているのも面白い。

第四章で、「新技巧派」という名称を芥川ら『新思潮』同人が、「迷惑」なそぶりをみせながら引き受け、「セルフプロデュース」に用いた形跡を見出しているのも興味深い。著者は同じ章の中で、こうした戦略が「分かりやすい「情報」や「記号」では済まない、様々なリテラシーを高度に要求する」ものであると語っているが、それはまさに、著者自身が高度な「リテラシー」を以て構築した「表現主体」の姿である。これは著者自身の「意図」とは異なる読み方かもしれないが、そこから学べるものは大きいだろう。
この記事の中でご紹介した本
小説とは何か? 芥川龍之介を読む/ひつじ書房
小説とは何か? 芥川龍之介を読む
著 者:小谷 瑛輔
出版社:ひつじ書房
以下のオンライン書店でご購入できます
2018年5月4日 新聞掲載(第3237号)
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