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2018年5月11日

島薗進・香川知晶・小松美彦鼎談
人文知は科学技術の暴走を止められるか
『〈いのち〉はいかに語りうるか?』刊行を機に

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第4回
人文学の意義と現状

島薗 
 いのちとは何かという点については、小松さんは『あしたのジョー』を引いて、かなり挑戦的な問題提起をされていますよね。
小松 
 小論ではまず、古代ギリシアから今日に至る科学的生命観の歴史を、伝統的な「機械論対生気論」とは異なる自分なりの視点から、つまり科学は生命現象の背後に潜在する「隠れた何か」を探究し続けてきたという視点から、再構成しました。そして科学が神話を起源にもつという事態に絡めて、科学的生命観の限界を考えました。そのうえで人文知からいのちを捉えた場合、どういう成分があるか、四つ挙げました。ひとつは「ある」に対して「いる」ということ。これは前期ハイデガーが言いたかったことの核心ではないかと思っています。二番目にちょっと異質ですが、「自分の速さで走りつづける」ということ。たとえば或る人間の生き様を見て感動した場合、実は何に感動しているのか。その実体を表わす言葉です。第三に「生きる」という時に、生物的に生きているだけではなく、他者との関係性があって生きているということ。しかも自ら生まれようと思って生まれて来た人間はひとりもいない。そういう意味での絶対的な受動性です。最後に精神医学者の木村敏先生のいわゆる「リアリティ」に対する「アクチュアリティ」。この四点のうち「自分の速さで走りつづける」と結びつけて『あしたのジョー』の解読を行い、人文知の観点からいのちの一側面を描いたつもりです。私の論じたことは、誰しもが日常的に感じていることのはずです。それを誰かが言葉にしておかないと、生命操作の凄まじい展開の中に、そうした個人的な経験や感性・感情のすべてが吸収され無化されてしまうと思ってきたのです。

もう一点押さえておきたかったのは、生命をめぐる科学と科学技術の違いです。つまり、生命を認識し把握する科学と、生命を操作する科学技術。この違いを踏まえたうえで、そもそも科学による生命把握の本質を歴史的に明らかにしたかった。この問題意識はおそらく斎藤論文とも重なっており、斎藤さんは現在の生物学の中心をなす細胞と遺伝子の概念を分析した。両概念は、「誰々の遺伝子が受け継がれている」、「我々は組織の一員すなわち細胞である」等々、人や社会を表し評価する言葉としても口にされます。だがそもそも細胞や遺伝子は科学の中で、確定し一定した概念として続いているのかどうか。この点を検討した斎藤論文の意義は大きい。つまり細胞概念も遺伝子概念も、私たちがかつて教わったようなものでは最早なく、様々に揺らぎ拡散している。人々の日常的な生命観や生命倫理に大きな影響を与えているはずの生物学の中心概念の実態がこうだというのです。以上のことを確認して、既に議論の中に出て来ていますが、第二の論点として人文学の意義とそれを取り巻く現状について議論したいと思います。六・八通知の問題も含めて、現在いかに大学の中で人文学が切り捨てられているのか。
香川 
 国立大学において人文系の研究を縮小させる。これが通知の最も簡単な概略です。「誤解」だとも言われていますが、通知以前から一連の動きとしてあったのは事実です。その動きが消えているとは思えません。この方向が続いていけば、人文社会系で残るのは、体制に奉仕できる研究分野だけでしょう。先程も言いましたが、技術的な応用で何かが起こされた時、我々の本質を破壊している可能性があります。そういう状況を前にして、人文学でなければ果たせない役割が大きくなっている。逆に人文学が大きな声をあげる時代にあると思います。因みに今回の本は「学術会議叢書」の二四巻目となりますが、これは、法学系を除くと、人文社会系が中心となって編まれた最初の一冊です。まさに必要とされているから叢書として刊行されたと思っています。
小松 
 最初で最後にならないようにしないといけませんね。
香川 
 ええ。小松さんの言葉を借りれば、人文学も自分の速さで走りつづけないといけない。それが要請されている。島薗さんが、ゲノム編集技術など、医療の領域における問題を指摘されていますが、原発や他の分野でも、同じようなことが起こりうる。そういう意味では、繰り返しになりますが、危機だからこそ人文学の意義が強く打ち出せる時代になっている。
島薗 
 たとえば医学部で、哲学なり人文学を教えていた教員が退職すると、その代わりを採ることができなくなって来ています。医学部の事情からすると、国家試験にたくさんの人を通さないといけないから、それに合わせた科目を増やす。本来は人間形成が医学の基礎にあるべきはずなのに、人間形成のための教養を身に付ける人文学が視野の外に置かれる。このことは、小松さんの論文にある、いのちという側面から生命を見るという視点と深く関わっている。そういう視点は、かつては宗教や哲学、あるいは芸術・文学を学ぶことによって形成されていた。だからこそ人文学が教養の基礎と考えられていたわけです。それが蔑ろにされるというのは、共同生活の知的資源が枯渇していくことに繋がると思います。
小松 
 医学部の場合、今は専門が日進月歩していますから大変だと思います。ただし、医学部で同時に必須なのは人文学、とりわけ文学ではないか。文学性を持たない医師は「治し屋」でしかない。
香川 
 医学部の人文学軽視については、背景として大きいのは国際認証だと思います。アメリカやカナダでは、「職業専門学校」であるメディカルスクール(MS)が日本の医学部にあたります。日本のカリキュラムも、それに合わせて変えられた。医師免許資格を取っても向うで認められないからです。ところがMSに入るには、四年制大学を卒業していないといけない。既にリベラルアーツを学んだ学生がMSに入学して医学を学ぶわけです。そうした事情を抜いて、今の日本の医学部の教育カリキュラムは突如改定された。医師国家試験も、従来あった医の倫理の項目がほとんどなくなっています。これも米加のスタンダードに合わせた。長年医学部で教えて来た実感では、恐ろしい医者が年々増加している印象が強いですね。
小松 
 明治維新政府が、科学と技術のうち思想としての科学を切り捨てつつ、主要には技術を導入した。現在の医学教育でも、まったく同じことをやっている。それは日本の大学の全体傾向を見ても同様です。
島薗 
 ただ大学の中には、今までの伝統的なあり方とは違った、新しい人文学の方向性を打ち出そうという動きも出て来ていますよね。たとえば東大文学部の死生学・応用倫理センターがそうです。現代社会の諸問題への対応力が弱まっている人文学に対して、アクチュアルな問題に向き合う姿勢を持たせることをひとつの狙いとして始まった。書斎の学から臨床的・現場的な学を含んだ人文学へという試みです。この本は、そうした動きに棹差していると言えるのではないでしょうか。また現在の大学を見ていると、就職に役立つ実学が重視される傾向にあります。それを社会も求めている。しかし逆に今、四〇代になって改めて勉強したいという層が増えていて、彼らが求めているのは専門的技能ではない。人間としての学びが必要だという意識が強い。そこはシステムが求めるものと人々の望むものとのあいだに開きがある。ようやく大学もそれに対応し始めています。ハーバーマスが「システムによる生活世界の植民地化」と言ったけれど、システムは生きた人間の世界を囲い込んで閉じ込めようとする。そうした植民地化を、なんとか押し破ろうとする動きも、大学の中に出て来ているとは思います。
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この記事の中でご紹介した本
〈いのち〉はいかに語りうるか?─生命科学・生命倫理における人文知の意義/日本学術協力財団
〈いのち〉はいかに語りうるか?─生命科学・生命倫理における人文知の意義
著 者:香川 知晶、小松 美彦、島薗 進
出版社:日本学術協力財団
以下のオンライン書店でご購入できます
2018年5月11日 新聞掲載(第3238号)
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