島薗進・香川知晶・小松美彦鼎談 人文知は科学技術の暴走を止められるか 『〈いのち〉はいかに語りうるか?』刊行を機に|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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2018年5月11日

島薗進・香川知晶・小松美彦鼎談
人文知は科学技術の暴走を止められるか
『〈いのち〉はいかに語りうるか?』刊行を機に

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第5回
国家と科学技術

小松 
 一方で、私が今の状況を見ていて特に心配するのは、香川さんの論文にあった、生命倫理学の領域にコンサルティングの要素が、日本でも急速に入って来ていることです。コンサルティング型生命倫理が当たり前のこととなり、それ以外の生命倫理学、あるいはその根底にある思想を、若い学生たちが全く知らずに大学で学ぶ。非常に怖いことです。生命理理を含めて人文知は、そうした方向に変容していっている。新自由主義的な資本主義社会に、丸ごと呑み込まれつつあるように思います。
香川 
 島薗さんが言われたように、人文学も現実の問題に目を向ける必要があると、私も思います。その時に、たとえば生命倫理の領域がどういう対応を取れるのか。現実にぴったりくっついて、なんとか生存をはかろうとする傾向が強くなりはしないか。そうなると人文知はまったく必要とされない。もちろん現実的には、純粋な人文社会系の研究で食べていくことはできませんから、ニーズに合わせたコンサルティング業務もやらなければならない。外から見ていると、何が面白いのかと思いますけれども、新自由主義的な体制に取り込まれつつ、コンサルティング業務をしないと生きていけない側面もあるでしょう。そこで若い研究者も苦しんでいる。しかし少なくとも、自分がやっている仕事が、全体のシステムの中でどこの位置にあるのか。そのぐらいの視点は持つべきである。そこに人文学の存在する大きな意味がある。私の論文の中に、アメリカの研究者カール・エリエットが生命倫理について述べた言葉を引用しました。「合衆国の生活の形と方向を支配している経済・娯楽・政治から成る複雑な機械の新たな歯車になりつつある」。「歯車」になるのは、ある意味で仕方がないことかもしれない。しかし「歯車」であることを意識できずにいるのは、非常にまずいと思いますね。
小松 
 自分のやっている学問が本質的にどのようなものなのか、社会全体の中でいかなる意味を持っているのか、これは五〇年前の大学闘争で根底的に問われた問題だと思います。しかし、そうした意識が希薄になっているのみならず、「何が面白いのか」と今言われたけれども、面白さに対する実感さえもが奪われてしまっている気がしてなりません。そうやって人間の一番の核の部分まで奪っていくのが、現在の科学技術政策、経済政策なのではないか。最後の論点として、この問題を議論したいと思います。

端的に言えば人文学潰しとは、ものを考えない人々を量産する政策に他ならないでしょう。さらに言うと、それは医療福祉や社会保障の切り捨てとも連動している。障害者・病人・老人には安楽死・尊厳死によって早めに死んでもらう、またあらかじめ問題があると判断された人間は、出生前診断によってなるべく生まれさせない。そうやって単純労働力としての人間だけを確保し、彼ら/彼女らから人文学を学ぶ機会を奪い、ものを考えない、体制にとって都合のいい人間を作り出す。ほんの一部の人たちのみ、経済発展に寄与する形で、人文社会系統の学問が許される。全体はこういう構造的な動向にあると思います。国家と科学技術のあり方に関して、島薗さんから発言をいただけますか。
島薗 
 歴史的に振り返ると、米国によるマンハッタン計画は、国家が巨大な影響を生み出す新たな科学技術研究を秘密裏に進め、倫理的な問題は隠した実例として思い浮かびます。ただ、人間の生活を脅かすのが当時は巨大技術だったものが、今や手近に使える科学技術にも浸透して来ている。それによって生じる様々な痛みや不都合が、あちこちで現れています。デュピュイが「破局」という言葉で表していることです。そういう状況を敏感に感じ取るのが芸術家です。「生活世界の植民地化」に耐えられなくなる、ディストピア的生活を強いられることに対する悲鳴が、芸術等々で表現される時代になっていると思います。たとえばカズオ・イシグロの作品がそうですね。彼が昨年ノーベル賞をもらった。あの時、ICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)が同時受賞している。国連でも核兵器禁止条約が採択されました。そういう動きもあるわけです。世界の宗教勢力を見ても、この条約には大方賛成です。科学技術の支配に対する違和感は、グローバル社会の草の根レベルではかなり広がっている。他方で、科学技術システムの拡充によって潤いを得る人も増えている。テクノクラート的な支配と言っていいと思います。それに対しては、カトリック教会が二〇一五年に出した、環境問題についての回勅『ラウダート・シ』が参考になります。回勅の基本的な観点のひとつが、テクノクラティック・パラダイムに対する批判です。グローバルな市民社会の中では、テクノクラティック・パラダイムを制御しようとする動きが世界的に共有されつつある。同時に、伝統的な宗教や哲学・思想のような文化資源が不可欠であるという認識が育って来ている。そういう兆しはあるように思います。
小松 
 日本からは、その兆しが見えて来ませんね。
島薗 
 日本は早くから近代化して西洋思想を身に付けたと同時に、古くから中国やインドの思想を学んで来たこともあり、それらを比較しながら思想伝統を学んだ蓄積があります。その意味では、独自の視点を持っている。また足尾の鉱毒や原爆や水俣病、原発事故といった科学技術システムによる被害、あるいは731部隊や和田心臓移植という特異な経験も持っています。そうした経験を踏まえ、是非日本から発信しなければいけないと思いますね。
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この記事の中でご紹介した本
〈いのち〉はいかに語りうるか?─生命科学・生命倫理における人文知の意義/日本学術協力財団
〈いのち〉はいかに語りうるか?─生命科学・生命倫理における人文知の意義
著 者:香川 知晶、小松 美彦、島薗 進
出版社:日本学術協力財団
以下のオンライン書店でご購入できます
2018年5月11日 新聞掲載(第3238号)
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