島薗進・香川知晶・小松美彦鼎談 人文知は科学技術の暴走を止められるか 『〈いのち〉はいかに語りうるか?』刊行を機に|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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2018年5月11日

島薗進・香川知晶・小松美彦鼎談
人文知は科学技術の暴走を止められるか
『〈いのち〉はいかに語りうるか?』刊行を機に

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第6回
日本の近代一五〇年

小松 
 六〇年代から七〇年代の公害を総括し、新たな科学技術政策を推進しようとした。それが日本政府の進めてきたバイオテクノロジー政策ですよね。近年ではその基盤をなすのが、香川さんが本書で論じた科学技術基本法(一九九五年)です。それが現在の科学技術政策を決定付ける指針となった。
香川 
 その点に関しては、斎藤光さんが書かれた「「科学技術基本法」の構図と意味」(二〇一五年)が刺激的な分析をしており、引用させてもらいました。基本法からは、その後の大学改革、人文系の縮小もはっきり見えるというのが、斎藤さんの分析です。この路線は九五年の時点で引かれていた。さらに斎藤さんの分析に照らせば、日本の科学・科学技術をコントロールし、動かしているシステム(体制)は巧妙に作られているが故に、その構図が見えなくなっている。そういうシステムの中に取り込まれているのは人文学だけではなく、自然科学や医学の研究も同様である。轟論文で言われる「ゲ・シュテル」を司っている力に駆られて、自然科学者の研究もある。なおかつ、そのこと自体がわからないシステムが構築されている。それを方向づけたのが基本法だった。その意味は非常に大きい。基本法が目指している体制が着々と実現される中で、現在の日本における様々な問題が生じているのだと思います。
小松 
 基本法が人文社会系を導入し、科学技術の推進を応援する役割を果たさせる。それだけではなく、科学技術そのものをある方向性へと牽引していきながらも、科学者自身そのことがわからない仕組みになっている。ここが特に重要な点だと思います。斎藤論文を私なりに噛み砕いて話します。何を研究するか、どういう論文を書くかは、一見自由に見える。しかし、そこには予め枠が設えられていて、その枠内の研究ならば研究資金を出す。結果として科学者・技術者の発想を、設えられた枠に閉じ込め、国家資本が科学・科学技術の「観察と実験の場」を制約していく。我々は、その制約をなんとか外していかなければならないし、研究者もそうした構造のあることを自覚する必要がある。

もう少しスパンを広げて考えてみると、人文社会系の科学・科学技術への協力要請は、九五年の基本法に始まったことではない。まったく同じことが、一九六〇年の科学技術会議の第一号答申で謳われています。現実的には協力がなされないまま放置され、それがついに具体的な形でできるようになったということだと思います。私の見方では、生命倫理と科学技術社会論(STS)が協力を期待され、実際に「ゲ・シュテル」の装置として機能している。さらにスパンを広げて、山本義隆さんがこの一月に出された『近代日本一五〇年』(岩波書店)で論じていることに注目したいと思います。山本さんは、次のような指摘をしている。科学・科学技術の下にすべてが動員されていく構造は、黒船来航以来、この国の一貫したやり方だった。まず西洋から、西洋的な思想を切り捨て技術だけを取り入れた。特に軍事技術を取り入れる。対外的な防備という目的もあったが、根底にあるのは経済発展だった。その流れは、第二次大戦敗戦後の一時期を「見せかけ」の休止符としながら、連綿と一五〇年間続いている。こうした日本の近代一五〇年を、山本さんは見事に描き出した。この歴史を踏まえて、現在の新自由主義に基づく科学技術政策についても考えなければいけないと、私は思っています。
島薗 
 新自由主義と言うと、レーガン、サッチャーが思い浮かびますが、一九八〇年代前半に成立した英米の政権が、資本主義における社会的公正の観点からそれまで形づくられてきた規制をどんどんはずしていったわけですよね。経済効率がすべての物事の判断基準となり、民主主義的な政治の手続きも厄介なものとして蔑ろにされていく。倫理や政治に委ねるべき問題も、数値で計れる効率性の基準に従属するようになる。実質的には力の支配であり、政治の腐敗や格差の拡大をもたらし、あちこちに綻び・軋み・痛みを生じさせた。そうしたグローバル資本主義に代わる社会システムのビジョンが、現状では見あたらないながらも、先程も言ったように、グローバルな市民社会からオルタナティブな方向性を示そうとする動きは出て来ている。2017年度の国連の核兵器禁止条約採択やノーベル平和賞・文学賞が示したものは、市民社会の意思の表明でもある。背後にはNGOや宗教組織の動きがあり、そういう活動の積み重ねから声が出てくる。環境問題については、一定の成果が出ていますよね。これが生命科学技術にも広がっていくかどうか。人類がいかに科学技術を制御できるか。人類・文化の多様性を前提としつつ、人類的合意を作っていけるかどうか。京都会議やパリ会議、あるいは核兵器禁止条約といった動きを積み重ねていくことが重要です。ゲノム編集やいのちの選別についても近い将来、そちらの方向へ踏み出していく可能性があると思いますが、少し楽観的な考えでしょうか。
小松 
 ゲノム編集に関しては、全体に関わる問題なので、可能性はあると思います。ただ臓器移植や体外受精などについては、個々人に関わる問題とされ、個人主義・自己決定権に還元される傾向があるので難しい気がします。最後に、一言ずつ発言をいただいて、議論をしめたいと思います。
香川 
 ゲノム編集の問題について補足しておきます。科学者が自らの研究を自主規制する、その大いなる先例となったのがアシロマ会議です。科学者の良心に任せるということです。ところが現状を見ていると、本当に科学者に任せていいのかどうかが問われている。豚の体内で人間の臓器を作るという話があったり、そうした場面における科学者の言動を見ていると、倫理的な問題はまったく顧みられていない。もちろん実際に研究している人の意見を見れば、慎重論が多いと思います。それが国の審議会の場になると、行け行けの発言が前面に出て来る。あれを見ると、従来のように、科学者の自主規制に期待しておけば大丈夫という楽観的な段階ではなくなっていると思いますね。島薗さんもお書きになっていますが、学術会議や審議会のあり方も含めて、科学者任せにしない。倫理的な問題も、科学者以外の人間が十分に発言できる場を作っていく。そのことが大きな課題になると思います。
島薗 
 研究開発の面では今、社会技術開発センター(RISTEX)というものがあります。大きなお金で科学技術を推進していくJST(科学技術振興機構)が、社会科学や人文科学もそこに組み込もうとしている。大きな特徴は、プログラム・オフィサーが研究の方向付けをすることです。そういうものに従属する傾向が強まっている。香川さんの論文を読んでも、よくわかります。それに対して学問共同体が悲鳴を上げている。私は、日本の学術会議が軍事研究に対して抵抗の姿勢を示したのは、大きな意味があると思っています。今回のような本が出ることも大きい。科学技術政策を進める側も、こうした声を聞かなれければ未来はない。もっと人文学に耳を傾けよと言っておきたいですね。
小松 
 おふたりの言葉を受けて、「日本丸」を操舵している人々に対して具申します。このままでは原発とバイオで日本は滅びてしまう。しかも、そうした危機的状況を考えない人間を、次から次へと輩出させる政策を採っている。それで果たして本当にいいのか。もうひとつ。様々な社会変革を考えている人たち、あるいは実践活動に従事している人たちを見ていると、原発や自然エネルギーに関する研究、市民運動に関わっている人たちは別にして、科学技術政策とその実態、特に生命科学技術に関して無頓着な人が多い。しかし社会体制が科学技術によって支えられている以上、科学技術の変革なしに社会体制の変革もない。この当たり前のことに目を向けてもらいたいと、最後に述べておきたいと思います。
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この記事の中でご紹介した本
〈いのち〉はいかに語りうるか?─生命科学・生命倫理における人文知の意義/日本学術協力財団
〈いのち〉はいかに語りうるか?─生命科学・生命倫理における人文知の意義
著 者:香川 知晶、小松 美彦、島薗 進
出版社:日本学術協力財団
以下のオンライン書店でご購入できます
2018年5月11日 新聞掲載(第3238号)
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