虚構の醍醐味に真正面から触れる  ホン・サンス「夜の浜辺でひとり」|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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2018年5月15日

虚構の醍醐味に真正面から触れる 
ホン・サンス「夜の浜辺でひとり」

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ホン・サンスの『夜の浜辺でひとり』は二部構成からなる映画だ。第一部はドイツのハンブルクを、第二部は韓国のカンヌンを舞台として、それぞれヨンヒの物語を語っている。普通に考えれば、これは既婚者との恋に破れて傷心の女優がドイツに行き、また韓国に戻って来るという物語だ。この解釈を誤りだと否定したい訳ではない。だが、本当に正しいという保証はどこにもない。

あえてこじつけを書こう。例えば、ヨンヒが映画を観終えるところから第二部が始まる以上、彼女はそこでまさに第一部を観ていたという可能性を否定できない。『映画館の恋』を観た観客にとっては、むしろそれが自然な解釈かもしれない。第一部もヨンヒの物語だが、彼女は女優だし、私生活を描く半ばドキュメンタリー、半ばフィクションの映画も存在する。自身が主演したそんな作品を彼女は観たのではないか。ニット帽の男も彼女と同様、映画俳優となる。これは都合のよすぎる勝手な読みなのか。だが、第一部が現実ならば、第一部で彼女が誘拐されて、それが第二部で一切なかったことになるのは奇妙だ。

映画内映画よりも妥当に見えるのが、第一部と第二部は並行世界であるという解釈だ。『正しい日 間違えた日』を観た観客にとっては、これはそれほど不自然ではない。傷心の女優ヨンヒが彷徨の末、浜辺に辿り着くという、異なる国を舞台とするトポロジックな二つの物語。第二部のヨンヒの外国帰りという設定が観客のミスリーディングを誘っている。だが、この設定も第一部の彼女の渡欧と対をなすものだから、全く奇妙でない。

最後に、最も珍妙に見えるのが、最後の浜辺以外は全て夢だったという解釈だ。これこそ強引な読みだと人は言うだろうが、登場人物がどこかで目覚める以上、そこまでは全て夢だったという可能性は常に存在する。『夜の浜辺でひとり』に夢の場面があること自体は、その範囲はともかくとして否定し難いし、『ヘウォンの恋愛日記』を観ていなくても、ホン・サンスの映画では目に見えるものが現実とは限らないことを、観客はよく知っている。しかも、この解釈は最もありえなさそうでありながら、最も整合性のとれたものである。

ニット帽の男が映画の物語世界の鍵のようにも見える。仮に、男はヨンヒの無意識を象徴し、彼が彼女を誘拐するのも、延々と窓拭きをするのも彼女の心象風景だとすれば、女優のドイツからの帰還という解釈も、説得力が格段に増す。だが、これもある意味で都合のいい読みにすぎない。ニット帽の男も他の人物たちと同様、画面上にはっきり見える存在であり、冒頭では台詞も発しているからだ。

どの解釈が正しいかは問題ではない。虚構世界を確定できないことを確認したいのだ。観客が見るのは虚構世界それ自体ではなく、虚構世界の表象である。観客にとって、虚構の物語世界は不可知の地平にある。リアリズムは虚構の豊かさを狭めるだけだし、論理的整合性も世界の有様を保証するものではない。

ホン・サンスは映画を真理からも現実からも切り離して、徹底して虚構の表象と戯れる。解釈なしに作品を観ることはできないが、分かりやすい読みを用意して観客を安心させることを、彼はしない。『夜の浜辺でひとり』は虚構の醍醐味に真正面から触れる映画だ。

今月は他に、『レディ・プレイヤー1』『ミスミソウ』『わたしはわたし』などが面白かった。また未公開だが、ブノワ・ジャコーの『ボディ・アーティスト』も良かった。(いとう・ようじ=中央大学教授・フランス文学)
2018年5月11日 新聞掲載(第3238号)
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