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手塚治虫―深夜の独り言
2018年5月15日

手塚治虫―深夜の独り言(8)先生の背中を流す

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連載が一本少なくなって少し余裕が出来たある日、NHKラジオの収録をする事になった。例によって締切りがあるので、
「先生、ネームだけでも書いて下さい」と頼むと、
「車の中で書きましょう。中村さんも一緒にNHKへ行きますか?」 担当編集者としては当然、「着いて行きます」と答えた。

ところが五分もしないうちに、「車酔いしそうだから、ネームはかんべんして下さい」

ほどなくNHKに着き、待合室で待っていると二時間ほどで収録が終わった。一路、手塚邸へ。午後十一時三十分帰宅。先生我が家へ入ろうとすると玄関に鍵がかかっている。
「今日はNHKで仕事をして遅くなるから鍵をかけずにいてくれと言ったのに」
と先生激怒して、奥様の居る部屋のガラスをガンガンと叩く。窓から家の灯りがともり、玄関の鍵がガチャリと開く音がする。先生、無言で仕事場に入り、ネームを書こうとすれど気が立って書けない。と、
「中村さん、一緒に風呂に入りませんか?」と来た。 私は、「僕はいいですから、先生どうぞお入り下さい」と答えると、「まあ、そう言わずにどうぞ。うちの風呂は広くていいですよ」
と更に誘う。ここで断ってヘソを曲げられると困ると思い(担当編集者はこんな事にも気を遣うのだ)
「それではお言葉に甘えて…」と従った。

風呂場を見て驚いた。信じられない位広いのだ。普通の家の倍以上あり、蛇口も三つ並んでいる。バスタブも大きくて広い。先生が先に湯船につかり、出た所で私が入る。カラスの行水で私は出るつもりだったが、ふと先生の背中を流してみたくなった。
「先生、背中を流しましょう」と話しかけると、「いや、いいです」と遠慮する。
「まァ、そうおっしゃらずに」と言って私は先生の後ろに回り、石鹸をたっぷりなすりつけたタオルで背中を洗った。この天才の背中は大きくて白い。それより驚いたのは筋肉の柔かさである。どのような世界でも筋肉の固い人は大成しないと言われている。とくに芸術家の筋肉は総じて柔かいと言われている。やはりそうだったのか、と私は納得した。
「先生、ずいぶん柔かい筋肉ですね」と驚嘆した声を発すると、
「そうですか、僕は小さい頃、かけっこは長距離が得意だったんです。今でも持久力はありますよ」
と、得意気に答えた。その後、ネームにとりかかったのは午前〇時。半徹夜の作業をこなして先生は寝室に入り、私はネームをトレーシング・ペーパーに書き写した。当然徹夜である。(なかむら・かずひこ=元小学館編集者)   
2018年5月11日 新聞掲載(第3238号)
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