権力と美術についての見事な考察 そして大胆な視線の虚構の交錯 アレクサンドル・ソクーロフ「フランコフォニア」|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」

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映画時評
2016年10月14日

権力と美術についての見事な考察 そして大胆な視線の虚構の交錯 アレクサンドル・ソクーロフ「フランコフォニア」

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占領下のパリで、二人の人物がナチスドイツからルーヴル美術館の所蔵品を守った。まず当時のルーヴル美術館館長、ジャック・ジョジャール。彼は第二次世界大戦が勃発する前から所蔵品を地方に運び始めていた。次にドイツ人将校、ヴォルフ=メッテルニヒ伯爵。彼は美術品管理の責任者として派遣されたが、所蔵品のドイツへの輸送に応じなかった。アレクサンドル・ソクーロフは『フランコフォニア ルーヴルの記憶』の中核にこの二人の物語を置いて、その行動を称えている。

だがそれだけでは済まない。ルーヴルの壮大なコレクションの多くは絶対王政と帝政に負っている。美術館は権力とともに成立し拡大したのだ。それ故、占領下の出来事は、ひとつの権力が作ったものが別の権力によって脅かされたという事態にすぎないとも言える。

映画はそこで美術館と権力の関係の主題を掘り下げる。ナポレオン一世とマリアンヌがルーヴルのなかを彷徨う。フリジア帽を被ったマリアンヌはフランス共和国の象徴だ。『モナリザ』を並んで見つめて、ナポレオンは「私だ」と、マリアンヌは「自由、平等、博愛」と繰り返し言う。美術館は国家権力に属するのか、民衆のものなのか。帝政と共和政の亡霊の彷徨を通じて、ルーヴル美術館とそれが象徴するフランス文化の本性が問われている。

しかし、『フランコフォニア』の魅力がこうした主題の考察のみにあるとするなら、それは大きな間違いだ。ソクーロフの真の偉大さに観客が出会うのは、あくまでひとつひとつの画面においてである。映画の中盤で、左端に映されるサウンドトラックによって横幅が一層狭くなった画面のなかを、メッテルニヒが占領軍の建物に入り、奥へと進んで行く。彼が黒いコートを着て部屋を横切る時、手前で少年が拳銃を天井に向けている。階段を上る時、別の男と交錯し、画面上部にももう一人男が現れる。美しい女がどこかを見つめ、カーテンの奥で煙草を手に持つ若い男の視線と交錯する。メッテルニヒが奥へと進む廊下の手前に使用人の女性が現れ、すぐに姿を消す。別の男が右手を上げて挨拶する。矢継ぎ早に示されるこれらの人物。そしてカメラがコートを脱いだメッテルニヒをドアの奥に示すと、不意に右にパンして手前の無人の部屋をゆっくりと捉えだす。なんと見事な編集のリズム。なんと生き生きとした人々の動きと眼差し。物語の進行に寄与しないこうした細部の描写こそがこの映画の真の魅力なのだ。

運動はルーヴルの絵画や彫刻にはない映画ならではの要素として、この作品でひときわ輝いている。その魅力が頂点に達するのは、セーヌの河岸を兵士と娘が幸せそうに走るのを捉える俯瞰ショットにおいてのことだ。

一方、視線は絵画や彫刻と映画に共通する要素として重要な機能を果たしている。ルーヴルの美術品を示す時に、ソクーロフが肖像画の人物の眼差しを強調することに注意しよう。勿論、占領軍の建物における男女の視線や記録映像が示す当時の人々の視線は生々しい魅力に溢れている。だが、『モナリザ』の場面における絵画の視線と二人の亡霊の視線の切り返しにこそ、虚構の戯れという映画の本質が露呈している。権力と美術に関する見事な考察も、編集が大胆に作るこの視線の虚構の交錯を前にすると色褪せてしまうようだ。

今月は他に、『映画 聲の形』『ハドソン川の奇跡』『オーバー・フェンス』などが素晴らしかった。また未公開だが、ビー・ガンの『凱里ブルース』も驚異的だった。
2016年10月14日 新聞掲載(第3160号)
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