ようこそ、映画館へ / ロバート・クーヴァ―(作品社)ポストモダン作家の孤独 アメリカ社会をまるごと文学空間の中へ|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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2016年10月14日

ポストモダン作家の孤独 アメリカ社会をまるごと文学空間の中へ

ようこそ、映画館へ
出版社:作品社
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北米のポストモダン文学がその隆盛を極めたのは、ケネディ暗殺に揺れた一九六〇年代から、ウォーターゲート事件によって政治不信が最高潮に達した七〇年代にかけてのこととされる。小説内における虚実の転倒、情報のインフレーション、難解な専門用語と感覚的な物語展開を絶妙にブレンドさせた語り口。そうしたものを特徴とするこの文学ジャンルは、先進国における先進的であるがゆえの悲哀を描き、八〇年代には、日本の作家たちにも多大な影響を与えた。

『スローターハウス5』、『重力の虹』、『ユニヴァーサル野球協会』。今振り返っても、ポストモダン文学は、確かに新時代を画するムーブメントであった。だが、ここで気になるのは、たとえばヘミングウェイらの「失われた世代」や、ジャック・ケルアックらの「ビート世代」と比べたとき、ポストモダン作家たちの連帯はほとんど語られることがなかったという事実だ。

今回、クーヴァーが八七年に発表した短編集『ようこそ、映画館へ』を読み終えて、ポストモダン作家の抱える孤独というものに、私は改めて胸を衝かれた。例えば、冒頭の短編「名画座の怪人」では、誰もいない映画館で種々雑多な上映をする映写技師の煩悶が語られる。「つねに視点と対象のあいだには、埋められない距離が存在する」と彼は思う。それは「昔の探偵映画」のごとくに、たとえその距離を埋めようとしても、「結局、自分自身の腐敗した罪の意識が拡大されて見えるだけだ」。

あるいは、映画『カサブランカ』のパロディ作品「きみの瞳に乾杯」。ここでは、自分が映画の登場人物であることにうすうす気づき始めた主人公リックがとらわれる、こんな着想が印象的だ。「連続して動くフィルムの齣としての時間のことを考えている。〔……〕万が一、ふたつの齣のあいだに滑り落ちたらどうなるのだろう?」

同時代のフィルムスタディーズを創作に取り込んでしまおうとする貪欲さを露わにしながらも、クーヴァーは、表現する側と表現される側のあいだに横たわる、決して埋めることのできない溝の深さに怯えている。その名状しがたい恐怖というのは、ふたつの大戦の間に生まれ、冷戦下の核の脅威にさらされたポストモダン作家たちに特有の感覚なのかもしれない。

かのピンチョンも述懐するように、ビート世代には遅すぎて、ヒッピー世代には早すぎる、はざまの世代であった彼らは、アメリカの「現実」を変革せんとする、過去と未来の二つの世代の間に落っこちた反動で、ひたすら「虚構」の構築に勤しんだ。そしてそれは、まるで映画『カサブランカ』の酒場さながらに、革命家も官憲も無政府主義者さえもが自由に行き交える「場」となって、二十世紀後半のアメリカ社会というものを、まるごとすっぽり文学空間の中へと取り込むことに成功したのである。

かくして、世代を代弁する若手が次々とシーンから消えていくのを尻目に、ポストモダン作家はかくしゃくとして執筆を続けている。ヘミングウェイはかつて、アメリカ文学の起源を『ハックルベリー・フィンの冒険』に求めたが、来年一月にアメリカ本国で発売予定のクーヴァーの最新作は、同作を題材にした『ハック・アウト・ウエスト』であるという。モダン以後の世界を虚構化してきた孤高の作家が、モダニズム以前の傑作を、いったいどのように再虚構化するのか。ポストモダン文学の隆盛は、あるいはまだ、極まっていないのかもしれない。(越川芳明訳)
この記事の中でご紹介した本
ようこそ、映画館へ/作品社
ようこそ、映画館へ
著 者:ロバート・クーヴァ―
出版社:作品社
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2016年10月14日 新聞掲載(第3160号)
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