万引きのひとつもさせてやりたかった いくらでも頭を下げたかった  斉藤斎藤『人の道、死ぬと町』(2016)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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現代短歌むしめがね
2016年10月21日

万引きのひとつもさせてやりたかった いくらでも頭を下げたかった  斉藤斎藤『人の道、死ぬと町』(2016)

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現代口語短歌の最重要人物・斉藤斎藤が2007年に発表した「今だから、宅間守」という連作のうちの一首。タイトル通り附属池田小事件をはじめ、児童が被害者となった実際の事件が多くモチーフとなっている作品である。事件に関する供述調書などの参考文献を注釈に付け、現実の犯罪者と歌人である〈私〉との境界線があいまいになってゆく世界観を表現することで、読者の倫理観を強烈に揺さぶってくる。きわめて先鋭的な実験作である。

掲出歌に添えられた詞書(解説文)の一部を抜粋する。「もしも生き延びた拓海は(中略)三十年後に大阪池田小に押し入り七歳の子どもを八人殺していたかもしれない。もしも仮にそんな拓海になったとしても、そんな拓海にすらなれず拓海が七歳で殺されたことが悔しい。」被害児童の親の心情になり代わっているかのようで、最終的には親ゆえの倫理観の倒錯がある(なお実際には拓海という名前の被害児童は存在していない)。宅間守は本当に絶対悪なのか。正義や倫理といったものは、人間関係のほんの小さな変容でどう転がるかもわからない、ひどく不確定な頼りないものではないか。相手が死者となったというだけで「万引きをさせてやりたかった」という思いは素朴な愛のかたちへと昇華されてしまっていいものなのか。人間として許されることと許されないこととの差は何なのか。答えの出ない問いを突きつけることは、まさしく文学の仕事である。
2016年10月21日 新聞掲載(第3161号)
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