死の宿命の達観の上に生の喜び、画面の快楽 オタール・イオセリアーニ「皆さま、ごきげんよう」|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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映画時評
2016年11月11日

死の宿命の達観の上に生の喜び、画面の快楽
オタール・イオセリアーニ「皆さま、ごきげんよう」

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12/17(土)より、岩波ホールほか、全国順次ロードショー! (c)Pastorale Productions-Studio99


犬を連れて女が歩く。その帽子をローラースケートで走る二人の娘が奪い去り、カメラがその走りに合わせて素早く左から右へ移動する。帽子は青年に渡され、別の男が乗る三輪自転車の籠に入れられる。カメラは自転車に合わせて今度は右から左に動き、スーパーから出て来た男女を奥に捉えて停止すると、この二人の前を窃盗団の娘たちが通り過ぎる。ここまでがワンショットだ。次のショットでは青年が老夫婦の持ち物を盗み、彼を追うカメラが奥の警察署長を捉えて止まると、別のローラースケートの娘が署長の帽子を奪って禿頭が露になる。ショットが替わり、青年がその帽子を受け取って先程の自転車の籠に入れる。その次のショットの冒頭でも青年が盗品を籠に入れ、カメラは自転車を追って移動するが、路上で酒を飲む浮浪者を捉える。パトカーが現れ、カメラは再び動き出す。パトカーが自転車を追い越して停車し、警察署長らが降りて男を捕まえてショットが終わる。

オタール・イオセリアーニの『皆さま、ごきげんよう』における窃盗団のこの生き生きとした描写に、映画の快楽が溢れている。人の手から手へと盗品が渡っていく様子が、ローラースケートの滑走や青年が仲間の自転車の籠に物を入れる動作の反復によってリズミカルに描かれる。カメラが窃盗団の動きに合わせて移動したり、他の人物を捉えて止まったりと、複雑な動きをすることで、描写のリズムが一層豊かなものになっている。見事だ。

窃盗団が姿を消した直後に起こる出来事も忘れ難い。先程何気なく映し出された路上の浮浪者がここでの主役となり、ロードローラーに轢かれて文字通りぺしゃんこになってしまう。ジェームズ・ウィリアムソンの無声短篇映画と同じギャグだが、イオセリアーニはこれに、押し潰された男を他の浮浪者たちが扉の下の隙間から建物のなかに入れるギャグを重ね、さらには浮浪者たちの帽子を突風で飛ばしてみせる。帽子を飛ばす突風は後に別の場面で繰り返される。さらにアパルトマンの管理人がロードローラーに轢かれそうになる場面も登場するが、ぺしゃんこになる浮浪者とこの管理人を演じるのは同じ俳優だ。彼はまた、フランス革命期にギロチンで処刑される貴族と刺青をした戦場の司祭も演じていて、司祭と上記の管理人はそれぞれ最後に、酒を口から吐く同じ仕草をする。『皆さま、ごきげんよう』では、物語の快楽からはみだす画面の快楽が、このように差異と反復の豊饒な遊戯を構成して観客を圧倒するのだ。

こうした画面の快楽が単なる生の楽天的な喜びではないことに注意したい。革命のギロチンは現代のパリでは魚の頭部を切断する調理器具として、生首も人類学者が収集する骸骨や復元された頭部として再登場する。そもそも死の主題は、戦場で現れてはすぐに倒れていく無数の兵士たちを経て、ロードローラーに轢かれる浮浪者や、ウォルシュの『彼奴は顔役だ!』のラストのように階段で倒れて死ぬ運転手に直接的に引き継がれている。

この映画の生の喜びは死の宿命に対する達観の上に成立しているのだ。この点で、イオセリアーニの作品世界は小津安二郎の『小早川家の秋』に通じている。家族の物語では全くないとはいえ、『皆さま、ごきげんよう』はどこか「小早川家の冬」と呼びたくなる映画である。

今月は他に、『永い言い訳』『ジェイソン・ボーン』『ぼくのおじさん』などが面白かった。また未公開だが、ベンハミン・ナイシュタットの『運動』も良かった。
2016年11月11日 新聞掲載(第3164号)
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