宮台真司・苅部直・渡辺靖 鼎談 分断化された社会はどこに向かうのか 予測されたトランプの勝利、能天気なリベラル、SEALDsの残したもの、新科目「公共」、天皇のお言葉と退位問題…|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
哲学からサブカルまで。専門家による質の高い書評が読める!
~毎週金曜日更新~

▲トップへ

  1. 読書人トップ
  2. 特集
  3. 宮台真司・苅部直・渡辺靖 鼎談 分断化された社会はどこに向かうのか 予測されたトランプの勝利、能天気なリベラル、SEALDsの残したもの、新・・・
特集
2016年12月23日

宮台真司・苅部直・渡辺靖 鼎談
分断化された社会はどこに向かうのか
予測されたトランプの勝利、能天気なリベラル、SEALDsの残したもの、新科目「公共」、天皇のお言葉と退位問題…

このエントリーをはてなブックマークに追加
年末恒例の「回顧特集号」をお送りします。学術・思想・政治・文学・歴史・芸術・ノンフィクションなど、ジャンルごとに一年を振り返ります。宮台真司・苅部直・渡辺靖氏に、トランプ現象から天皇退位問題まで議論してもらいました。(編集部)

ローティの「予言」

苅部
今年は後半になって、大きな出来事が国内外でいくつも起こりました。最初はやはり、トランプ大統領当選について、多くのメディアで発言されている渡辺さんからお話しいただけますか。
渡辺
今年一年はトランプにはじまり、トランプに終わりました。どことなく虚しい気もしています(笑)。なぜトランプが勝利したのか、あるいはクリントンが負けたのか、その原因については、既に新聞・雑誌・テレビなどで報じられています。「読書人」でもつい最近、井上達夫さんと対談をしていますので(十二月九日号)、なるべく重複しないよう話をしたいと思います。

最近私の周囲で話題になっているのが、アメリカの哲学者リチャード・ローティが、一九九八年に刊行した『Achieving Our Country』(邦訳『アメリカ未完のプロジェクト』晃洋書房)という本です。今回のトランプ現象をそのまま予言したわけではありませんが、本の中の一節が今の状況をかなり言い当てていると思います。ローティはどのようなことを言っているのか。労働組合に入っているメンバーや、あるいは組合に入っていない低スキルの労働者たちは、ある日気づく時が来るだろう。彼らの政府は賃上げをすることもないし、雇用の海外流出を防ぐこともしない。郊外に住んでいる白人のミドルクラスたちは、彼らのために税金を負担しようとも思わなくなる。そうなった時、社会のシステムにヒビが入る。その裂け目でいかなる事態が生じるのか。高給取りや官僚、ポストモダンの学者など、そういったインテリたちの思う通りには社会を運営させないという非常に強いメッセージを発する指導者が突然現われ、その人物が求心力を持つようになるだろう。そうなるとアメリカ社会は、過去四十年間に成し遂げて来たはずのものが失われ、マイノリティや女性の権利などが一気に後退していく。低学歴の人たちはエリートに対して持っている怒りのはけ口を、その強い指導者の中に見出すことになるだろう。ローティはそうした趣旨のことを言っているのですね。十八年前のことですが、結構似たような状況が現実に起こっている気がします。

こうした状況をグローバル化の反動として位置づけることも可能です。もしくは、この年末回顧の鼎談の中でも、過去三、四年ぐらい繰り返しテーマになって来ましたが、ミドルクラスの縮小した社会、あるいはソーシャル・キャピタルが低下した社会の必然と捉えることも可能です。そのことが今年、アメリカという場所ではっきりした形で表われた。ローティの「予言」も合わせて、やはり私にとっては最も衝撃的な出来事でした。アメリカで起きたことは、おそらく先進国に共通して生じ得る現象でしょう。イギリスのEU離脱とアメリカのトランプ現象を同一視することに私はやや違和感があるのですが、似ている部分もある。そういう意味で、日本も含めて、来年選挙が行われるオランダやフランス、ドイツなどの動向が気になるところです。
宮台
ローティから始めるとはさすが渡辺さん。一九九五年オックスフォード・アムネスティ・レクチャーズの人権について考えるシリーズでローティが面白いことを言います。人権はユニバーサルだとされるが幻想だ。一九六四年にリンドン・ジョンソン米大統領が公民権法にサインするまで女性も黒人も人間じゃなかった。誰を人間だと思えるかは具体的な育ち方で決まる。それをコントロールするのが感情教育。言説の普遍性を議論する暇があればさっさと感情教育をしろ。知よりも情意だというプラグマティズムです。同じ時期、一九九三年に、普遍的リベラリズムを奉じていたジョン・ロールズが諦めて政治的リベラリズムに舵を切ります。僕は「リベラルの駄目さ」に引きつけて議論します。近代の全体社会(紛争処理・資源配分・集合的決定など一揃いの機能を備える単位)は国民国家で、資本主義・主権国家・民主政のトリアーデですが、グローバル化で中間層が分解すると、感情政治の拡がりでトリアーデはトリレンマに変性します。EU離脱にせよトランプ当選にせよ、トリアーデを前提にした「主権と資本のどちらかを民主で選ぶ」営みだから、鬱屈した多数派が資本ならぬ主権を選びますが、新興国に抜かれた先進国は更に沈み、鬱屈した人々が更に資本よりも主権を選ぶという悪循環が回わります。トリレンマ化の実態です。だから僕はトランプ当選を予想し願望したけど、多くのリベラルがヒラリーを望んだのはローティ的に言えば文化左翼の呑気な幻想のなせるわざです。

世銀統計が示す通り途上国の貧困率を劇的に下げたグローバル化はたとえ先進国の中間層が貧困化しても善いことです。でも社会の適応限界を超えた速度でのグローバル化は政治の揺り戻しでグローバル化を台無しにする。森から薪をとるのは良いけど、木の成長速度を考えないと植林しても砂漠化します。コストの低い所に資本を移動するグローバル化の野放図は、焼き畑農法に似て限界に達して揺り戻します。どのみち揺り戻すなら早い方がいい。後になるほど後遺症が激しいからです。ならば今こそトランプが選ばれるべき時。当然混乱が生じます。政治的正しさ糞食らえといったヘイト野郎が跋扈、女性や民族・人種・宗教的マイノリティーが苦境に陥り、分断が露呈する。でも野放図なグローバル化を放置した輩が堀った墓穴で、元々進んでいた分断が露呈しただけ。僕がネット放送で繰り返し紹介した通り、米国の白人死亡率の高さ・象の鼻の図として知られる中間層没落・過去三十年の政治的立場の極化の統計からみて揺り戻しは時間の問題でした。差別や排外主義のヘイトも、イデオロギーのなせるワザじゃなく、座席数の急減で座れなくなった者が誰かを叩き出そうとして仲間と思えない連中から順番に名指すだけの話。仲間と思えない連中はこれからも永久にいる。大規模定住社会の摂理です。
苅部
ローティの話で思い出したんですが、ハリー・G・フランクファートの『不平等論』(山形浩生訳、筑摩書房)が九月に刊行されました。フランクファートは、平等が道徳的に優先されるべき価値だという考え方を、徹底的に批判しているんですね。根本にあるのは平等ではなく、個人それぞれを、その個別性に応じて、敬意(respect)と不偏不党性をもって扱っていくことが大事であると。そしてあくまでも、その次に出て来る手段にかかわる価値が、ひとしなみの平等であるというわけです。トランプが大統領候補として注目される前に書かれたものですが、トランプ支持の根柢にある、特権層に対する不満をどう評価するかについて考えさせられる本です。平等はもちろん、デモクラシーの根本理念ですが、富はみなに同等に分配されるべきだという点だけにこだわっていると、貧困な労働者層の反感を煽り、ほかの意見に耳を貸さないような過剰な熱狂を生み出してしまう。トランプ現象にも、そういうことが底流にあったと思います。

大統領選に関しては、クリントンが勝つと僕も思っていて、予想がはずれました。でも考えると、渡辺さんが昨年の著書『アメリカのジレンマ』(NHK新書)で書かれていたことをよく読めば、こういう結果になった背景が理解できるんですね。つまり民主党が、インテリ・エリートと大企業優遇の政党に変わり、労働者の要求を全然汲み上げない存在になってしまった。共和党もエリートに対する反感をすくいきれない。そういう状況でトランプに大きな注目が集まった。これは単なる一過性の事件としてとらえるのではなく、長期にわたる社会の変化によって起きたと考える必要があるでしょう。考えてみればオバマの時だって、それまでは共和党が勝っていたいくつかの州が民主党支持に転じた、番狂わせの大統領選だった。そうした目で見ると、前から始まっていた変化の結果として、今回の大統領選を位置づけることもできるでしょう。

ただ少し心配なのは、渡辺さんも指摘された点ですが、反グローバリズムでナショナリズム、孤立主義に向かう今のアメリカの流れが、ほかの先進国にも広がって来ることです。さらにまた、大統領選でのCNNの出口調査によると、よく指摘されるように経済状況と学歴について、貧乏で学歴の低い層でトランプ支持の割合が高いのですが、クリントンを支持した人の割合との差は、それほど大きくない。差がもっと大きいのは、人種や年齢、性別による違いで、白人対マイノリティでは白人、女性よりは男性、若者よりは中高年がトランプに投票している傾向。人種・性別・年齢で投票先が決まってしまうという、身も蓋もない話です。これがいい傾向とは思えないんですね。
宮台
厳密には、金持ち白人が共和党候補に入れ、貧乏人とマイノリティが民主党に入れる構図は変わらなかったけど、ラストベルトを中心に没落労働者層がトランプに入れて結果が動いた。そこもローティに引きつければ「人権のユニバーサリズム」も「うまく回る近代国民国家」も幻想です。全ての等価交換は、起点での巨大な<贈与=剥奪>を前提する。この思考をフィジオクラシーと言います。ウォラーステインの世界システム論が典型です。「うまく行く国民国家」はフィジオクラティックな前提の上にある。ユニバーサリズムとフィジオクラシーが両立しないのは当たり前。分厚い中間層が続くはずもない。だから中間層の再生可能性もない。そこで既得権益をシェアできたはずの没落中産階級が「座席数の急減」で「誰かを叩き出すゲーム」を始めた。そこに出てくるのがセクシズムやレイシズム。差別主義に“戻った”のではない。誰かを叩き出す段になって仲間だと思えない奴を名指すのは当たり前。ローティによれば「誰と誰は平等だ」という言葉は無意味。性別・民族・宗教の異なる連中とフュージョンして遊ぶ感情教育がなければ、イザというとき性別・民族・宗教の違いでいつでも「叩き出し」が始まる。これまで既得権を得ていた白人が六割以上いるから、「誰と誰は平等」という言葉に過剰な意味を見出す文化左翼がのさばる間は、ヘイト現象こそが自然である、と。

だから僕自身トランプ当選の可能性が高いと思ったし、トランプ勝利を待望しました。待望の理由は、(1)野放図なグローバル化がもたらすものへの気付き、(2)正しいだけで楽しくないリベラルの愚昧への気付き、(3)対米追従を前提に座席争いするヘタレ官僚による引き回し(TPP、辺野古移転、原発再稼働…)への気付きに繋がるから。(2)と(3)は後で触れますが、(1)のグローバル化の野放図を放置してきた責任はリベラルにあります。三十年前のリベラル・コミュニタリアン論争で「正義」と「善悪」の差異が主題化されます。「善悪」は各人各様でも「正義」は“誰からも”支持され得る。さて“誰からも”とはどの範囲かと。九三年に論争が決着。所詮は国民国家内の話だとなりました。日本のリベラルは国民国家内でさえなく、九条護持を掲げて平和主義を気取りつつ、安全保障を米国に依存して負担を沖縄に押しつけた。「見たいものしか見ない」御都合主義の典型です。リベラリズムはユニバーサリズムどころか所詮はコミュニタリアニズムの変種に過ぎない。これが論争が与えた気付きです。ならば問題を覆い隠すユニバーサリズムを諦め、コミュニタリアニズムとコスモポリタニズムの両立可能性という細い道を歩むべきです。九三年以降のロールズが言う「重なり合う合意」とはそういうもの。鈴木邦男氏が言う「右翼国際主義」が典型です。その場合、コミューナルな範囲は沖縄差別問題が示すように国民国家より小さい。ヒラリーが勝ってたら、九三年に思想としては敗北したリベラル・ユニバーサリズムがゾンビのように延命し、“茹で蛙”よろしく留め置かれた我々は、どこかで巨大な揺り戻しを経験したはず。野放図なグローバル化にどう制約をかけて、コミューナルなコスモポリタン化というグローバル化の新たなステージに向かうべきか。それを考える機会を提供してくれたトランプ当選は歓迎されるべきです。
「正義」と「享楽」

渡辺
トランプの言動を見ていると、アメリカの民主政を語る言葉の劣化を印象付けられることがあまりにも多い。ただ見方を変えると、それまで民主党の主流派にも共和党の主流派にも見捨てられていたサイレントマジョリティが、今回もう一回、政治の回路の中に参加することができた。これ自体はアメリカの民主政が健全に機能していることの証だろうと思います。民主党はこれまでリベラルを標榜しながらも、実際には、経済的に取り残された層の声なき声をすくい上げることができなかった。その代わりに、性的マイノリティや宗教的マイノリティの権利を守る、アイデンティティ・ポリティクスの方に少し力を入れ過ぎた感じがあった。有権者の一番の関心事である経済的な部分、つまり困窮した層をどう引き上げてゆくかについては、ほとんど何もしてこなかった。あるいは共和党の反発もあって何もできなかったと言う方が正確かもしれません。その意味では、宮台さんがおっしゃるように、今回のトランプ現象も、評価すべき点は多々あると思います。いわゆるユニバーサリズムや多文化主義、グローバリズムといったエリートの発する言葉の限界が露呈され、ポリティカル・コレクトネスが否定された。「エリートたちの化けの皮が剥がれた」と言ってもいい。イギリスのEU離脱においては、ブリュッセルのEU官僚の支配に対する反発などがあり、離脱のデメリットを説くエリートたちの言葉は多くの市民に届くことはなかった。アメリカを見れば、共和党・民主党、両党のエリートたちは、社会に渦巻いている痛みを見過ごしたところがある。では今後、高学歴のエリートたちは現状にどう対応し、自らの考える正しさを市井の人びとに伝えてゆけばいいのか。
宮台
もう方向性は示されました。(2)の「正しいだけで楽しくないリベラル」が関連します。世界中でリベラルや左翼が退潮する理由がそれ。「正義」の軸と「享楽」の軸があります。昨今のリベラルは「正しいけど、楽しくない」。河野太郎と洋平の区別も付かずに河野談話問題で太郎を批判するウヨ豚が、勘違いを否定されて直ちに「それでも太郎は気にくわねえ」と居直るように、「享楽」に向けた疑似共同性の樹立が賭けられている以上、「正しくない」との批判は痛くも痒くもない。「正義」と「享楽」の一致が稀という問題を伝統的に主題化してきたのは大衆社会論です。中間層が空洞化して、分断された個人が、これから貧困化していくという不安に苛まれる場合、「正義」と「享楽」が分離して「享楽」へとコミットするようになると。「権威主義的パーソナリティ」を論じたフロムが、絶対的貧困度とは別に見出した全体主義化の集合的な主観的条件です。ならば、中間層の分解過程では自動的にリベラルよりウヨクが有利になる。この流れの中で「正しさ」に粘着すると、「正しさ」を口実にマウンティングしたいだけの浅ましい輩に見えます。それに気が付かずに「正しくない」と批判し続けるのは、ユニバーサリズムも所詮「仲間内の平等」に過ぎないという(1)の問題を横に置いても、能天気過ぎます。戦後の効果研究が示した通り「正義」と「享楽」の一致条件は分厚い中間層が支えるソーシャル・キャピタル(人間関係資本)。仲間に自分が埋め込まれているという感覚があれば、仲間を傷つける奴に憤ることが「正義」かつ「享楽」になる。

夏の参院選で解散したSEALDsの奥田愛基氏にも申し上げて来たけど、人が「正しさ」から離れているのは、こうした一致条件を無視して「正しさ」をベースにマウンティングするばかりで「享楽」の輪を少しも拡げられないリベラルのせい。リベラルに必要なのは「正義」と「享楽」の一致だけど、既に申し上げた理由で一致条件を中間層の復活には探れない。ならばテクノロジーを駆使して工夫するべきです。ただし「正しいけど、楽しくもある」じゃ駄目で「楽しいけど、正しくもある」が必要です。鬱屈した人は「享楽」が欲しいのだから「同じ楽しむなら、正しい方がいいぜ、続くし」と巻き込むのがいい。元ヤンキー連中は商工会議所や青年会議所や後援会に絡めとられて専ら自民党政治に組み込まれますが、彼等がリベラルにこそ吸い寄せられる仕掛けを目標にします。たとえ“馬鹿包摂”でもPPAPのピコ太郎のようなTRAPの流れがヒントになる。ヤク売買の場所を意味するTRAPにRAPを賭けたもので、沈下したRAPがEDM(電子ダンス音楽)と合流して生じた最近の流れだけど、包摂力が高くて世界中でRAPブームが再興しました。いずれにせよ(1)で述べたグローバル化の野放図が“必然的に”ウヨク化を帰結するとは言えない。グローバル化とネット化で「誰が仲間か」がどんどん不分明になるのに、「正義」と「享楽」の乖離による「享楽」の優位化に対処する仕掛けを模索しなかったリベラルの、自業自得です。そうした「享楽」の仕掛けもトランプ陣営が圧倒的でした。イベントに集まった人数が同じでもコミットメントがヒラリー陣営を圧倒していた。「市井の人々に正しさにコミットしてもらうには?」という問いへの答えは「正義」と「享楽」を一致させるテクノロジカルな工夫です。
苅部
トランプの例を見ていても、英国のEU離脱の例でも、問題は、「正しいこと」の実現をストレートに求める志向が、デマゴーグと容易に結びつくんですよね。英国の場合では、EUに現在拠出している金を福祉に回せるとか、アメリカ大統領選で、児童売春に関する情報がクリントンのメールから見つかったという類のデマ。「ポスト・ファクチュアル・デモクラシー」(事実無根の民主主義)と呼ばれる傾向で、池内恵さんがネット上で「デマクラシー」と訳されたのが適訳だと思います(笑)。このような戦術に人々がとりこまれないようにするための手立てを、真剣に考えないといけない。選挙や国民投票では、デマクラシーを煽ることで権力を取れるかもしれませんが、すでに英国でも投票後に嘘がばれたように、権力をとったあと、それを日常的に運用する場面では、同じ手法がもはや通用しなくなるでしょう。
宮台
難しい点です。社会が「ポスト・ファクチュアル」「ポスト・トゥルース」に向かっているのは確かです。「正義から享楽へ」の流れです。見掛け上、デマの「疑似現実」で「現実」が覆い隱される事態だけど、戦間期にリップマンが提示した「疑似現実/現実」図式は先進国で高度消費社会の記号的消費が始まる時期にボードリヤールによって退けられました。お前が「疑似現実」を批判して持ち出す「現実」もまた「疑似現実」だと。実際ヒラリー陣営がそう批判されていました。社会学的には、共同体的な共通感覚や共同身体性が消えれば直ちに「現実」の共有が困難になる。ハイデガーの「用在性」の問題です。メディアが分化したから共通前提が寸断されたのではなく、共通前提の崩壊がメディアを分化させた。八〇年代前半にマーケットリサーチの仕事をしていたので体感しています。こうした社会的条件のせいで、これが現実だという「真実の言葉」は空間の直進力を失い、「これはデマだ!」「それがどうした!」という遣り取りになる。代わりに浮上するのが「機能の言葉」。 
技術による社会変革

宮台
コミュニケーションからコンスタティブ(事実確認的)な要素が消えて専らパフォーマティブ(遂行的)になる。だから大澤真幸氏が言う「アイロニカルな没入」が拡がり、嘘と知りつつコミットするのです。
渡辺
トランプのコアな支持者はまさにそうですね。
宮台
その意味で今日では、「本当に正しいか、ただのデマか」をめぐる議論をフォローできること自体がリベラルということで、そこがトートロジーになっている以上、「正しさ」に固執しても拡がらない。
渡辺
トランプの場合、発言の七五パーセントぐらいが、事実に基づかないという調査もある。だけど彼のコアな支持者からすると、そんなことにはあまり拘泥しない。そこにカリカリするのはリベラルであって、トランピストが求めているのはそういうことではない。ポリティカル・コレクトネスに反することをズケズケと言う。そこにトランプの誠実さを見出し、なおかつそれだけの度胸を兼ね備えたタフガイであると見なす。エリート・メディアがトランプを叩けば叩くほど心情的にトランプにシンクロしてゆく。そうした歪んだコミュニタリアンまがいのネットワークができてしまうのが、今の時代のややこしいところです。フェイクニュースも厭わないフェイクコミュニテイというか……。

ただ、やはりもう一度考えてみたいんですが、新自由主義に象徴される今日のグローバル化した社会の中では、ミドルクラスが瓦解し、格差が拡大し、取り残され、忘れられてしまう人たちがどうしても出てくる。そういう人びとに対して、もう一回社会の中に然るべき尊厳と居場所を与えることは可能なのか。たとえば富裕層の累進課税率を高くして、再配分する。結果としてミドルクラスが育っていけば、購買力もつき、消費も盛んになるのでビジネスのマーケットも広がる。治安も改善するかもしれない。中長期的にはいろんな恩恵がある。そのことに富裕層の人も気づくはずだと思いますが、この時代においては説得力がない。

トランプがやろうとしているのは、まさにレーガノミクスの再来、トリクルダウンです。しかし理論通りにはトリクルダウンはしない。上は上で溜め込んでしまうし、タックスヘイブンを介して税逃れもできる。レーガン時代からアメリカの格差社会は顕著になりました。そうなると、トランプノミクスによって、この傾向が繰り返されることになる。つまりミドルクラスはますます縮小する。さらにロボットやAIが進化すれば、持てる者はさらに高度な生産手段を持ち、低学歴・低スキルの労働者たちはますます太刀打ちできなくなる。おまけに再分配も敬遠されるとなると、末恐ろしい世の中になる気がします。
宮台
繰り返すと近代は資本主義・主権国家・民主政のトリアーデですが、資本主義のグローバル化が中間層を貧困化させて社会が空洞化すると、Brexitが象徴するように選挙や国民投票が「資本と主権とどちらが重要かを、民主で決める」図式に陥る結果、主権が選ばれて排外主義化する。するとグローバル化する新興国に抜かれて貧困化がさらに進み、ますます排外主義的に主権化し、経済的に沈下する。トリクルダウン策を採らなくても必然的に悪循環が回ります。必要なのは主権を制約してグローバル化を制御するグローバル・ガバナンスだけど、EUのドイツ民間銀行一人勝ちの帰結や、TPPの米国富裕層一人勝ちの図柄が、希望を挫きました。トランプ選出は気付きの機会だけど、トランプ自体はコミューナルなグローバル化に向かう政策を持たない。

でも、世界の貿易量が減り、グローバル化が新フェーズに入りつつある事情を見逃せない。賃金や土地が上がった中国が消費社会化で内需が膨らんだ結果、中間生産財から最終生産財までを中国国内で作るようになり、中間生産財輸出型ビジネスモデルが終わりつつあります。インドやミャンマーが中国の道を追走できるわけではありません。テクノロジーの高度化が、コスト面で資本をワザワザ他国に持ち出す必要を免じるだけでなく、物やサービスの安価さよりも微細なサービスの質で勝負をするゲームをもたらすからです。長い目で見れば地産地消型のローカル経済を回すグローバルなIT産業を前提としてグローバル化を回すという新フェーズに入ります。六〇万都市の米国ポートランドが象徴的ですが、今は胡散臭くてもクリエーティブ・シティの方向に向かうしかない。共同体を空洞化させる旧式のグローバル化にブレーキをかけ、新式のグローバル化のスロットルを踏む政策的選択肢が採用される必要があります。テクノロジーの発達をコミューナルなものの刷新に結びつけられない限り、民主政が妥当な政治的決定を出力し続けることは今後不可能です。

人文系の学者が不得意なテクノロジーの要素に注目するべきです。トランプ支持のオルタナ右翼は馬鹿だけど、中には「新反動主義者」と呼ばれるシリコンヴァレーの有力テクノロジストが含まれていて馬鹿じゃない。ピーター・ティールのような人たちです。彼らは「制度による社会変革」を信用せずに「技術による社会変革」に思いを託します。結局は他人を傷つけずに幸せになれれば――「享楽」できれば――良いのです。かつては制度的再配分しかありませんでしたが、今は<世界体験>をテクノロジーで制御できます。我々には<世界>(現実界)が直接与えられることはなく、我々が手にするのは<世界体験>(想像界)で、それは言語プログラム(象徴界)に媒介されています。<世界〉を<世界体験>に媒介する関数が言語プログラムとしての社会。この媒介を言語が作り出すテクノロジーが支援する割合が膨らみつつあります。ポケモンGOのような拡張現実が示すのは、かつて物の配分が可能にした幸せという<世界体験>へのアクセスが、情報の配分で平等化される可能性です。制度と違って技術は個人ごとにカスタマイズ可能だから多様な幸いを保障できます。元々はマルクーゼが五十年前に示した、テクノロジーが高度化すれば人間は理性的な存在である必要を免除されるとする思考です。このビジョンを小説化したJ・G・バラードの原作を映画化したのが『クラッシュ』と『ハイ・ライズ』。映画を観ると現実的だと思えます。このビジョンをコミューナルなコスモポリタニズムと結びつく形に展開できれば、支配・被支配関係の非倫理性をある程度退けつつ地域社会の持続可能性を確保できます。
苅部
宮台さんは『まちづくりの哲学』(蓑原敦との共著、ミネルヴァ書房)の中で、「顔が見える我々の再設定」ということをおっしゃっていましたよね。そういう試みを通じて、経済的に下層へ落ち込んでいるような人たちを、地域のつながりの中に引き止め、政治的な判断力を養っていく。それは有効な選択だと思いますね。
宮台
素朴だけど「仲間になる」のは大事です。進化生物学や分子考古学が示す通り、『宇宙大作戦』のスポック博士的にはノイズでしかない感情をヒトが持ち続けて来たのは、自発性(損得勘定)を超えた内発性(内から湧く力)がなければ、言語が支える社会の存続に必要な動機付けを調達できないからです。知れば為す(孫子)つまり合理的ならそれを人は意志するという立場が「主知主義」で、不条理ゆえに我信ず(テルトゥリアヌス)つまり端的な不合理を人は意志するという立場が「主意主義」ですが、比較認知科学が示す通り「他人のために命を投げ出す」という貢献性や利他性を支える“不合理な”感情の言語以前的な遺伝基盤を考えれば「主意主義」に軍配が挙がります。そこでもテクノロジーが役立つ。テクノロジーが支える関係が感情的な絆をもたらす可能性。「インターネットでの性別・年齢・収入を捨象した不完全情報のコミュニケーションが、昔あり得なかった匿名的関係をもたらしたものの、所詮は損得勘定優位で絆には程遠い」というのは確かだけど、感情の働きを踏まえたテクノロジーが未発達な現段階の話てす。ギテンズが二十年前に述べた通り、家族は大切でも、昔ながらの血縁主義的家族や安定した二世代少子家族を維持するのは不可能だから、「疑似家族」でしかないものも“一定の機能”を備えたら家族として認めるべきで、さもないと社会が続かない。その“一定の機能”をテクノロジーが支援できます。そうした機能主義的思考、「機能の言葉」が必要です。「家族」の項に「恋愛関係」や「友人関係」や「共同体」を入れても同じ。かつてのミドルクラスが戻らない以上、それが支えた共同性やソーシャル・キャピタルも戻らないけど、テクノロジーを踏まえた「機能の言葉」が希望を与えます。ただ「それは真の家族ではない」と「真実の言葉」に粘着するイメージ保守が邪魔する。
「政治=選挙」なのか?

苅部
今年にもうひとつ感じたのは、「政治」のイメージが選挙だけに集中してしまう傾向です。十八歳選挙権や、高校教育の新科目「公共」に関する議論が始まっていますが、選挙を通じての政治参加ばかりが強調される。選挙はたしかに大事ですが、まちづくりに関わっていくとか、住民どうしで地域の問題を話し合うことも立派な政治参加です。地方議員・国会議員や市役所へ直接に働きかけることもあるでしょう。政治参加の回路としては、むしろそうした日常のとりくみの方が重要かもしれないのに、その点を強調する人がいない。これは深刻な病ではないでしょうか。ある提言の文書でこのことを書いたら、「陳情を正当化するのか」というコメントが年長の学者の方から来ました。おそらく田中角栄邸に陳情に行くようなイメージが残っているんでしょうね(笑)。今年に出た若者むけの政治入門の本では、おときた駿『ギャル男でもわかる政治の話』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)が、斎藤美奈子さんが『ちくま』の連載で指摘されたとおり、もっともよくできていると思いましたが、やはり視野が選挙での投票に限られている。そうすると日本で今後、もし「デマクラシー」の傾向が強まっていった場合、選挙だけに偏った政治観と、嘘をついてもいいから政権を取ってしまえという戦術とがかみあって、巨大な力をもつことになってしまうでしょう。それは決していい方向とは言えない。
宮台
おっしゃる通り。世田谷で保坂区長をサポートする際に「車座かネットか」という二項図式で語りかけます。ネットではコンテクストが見えないので暴論や極論が潔く見えます。キャス・サンスティーンが指摘していましたね。その結果、討議するとかえって「極化」が後押しされがち。「正しさ」を欠いた「享楽」の優位です。ところが車座だとコンテクストが見え、どんな佇まいやオーラで喋っているかが分かる。立派な人だなぁとか浅ましい人だなぁとか。それが分かると「正しさ」と「享楽」が一致する可能性が出て来る。こうした観察に基づく実践も、テクノロジーで正当化可能という意味でテクノロジカルです。何をすればどんな結果が生じるのか、条件プラグラムを分析し、「正しさ」と「享楽」が一致する条件をファシリテートする。抽象化して考えれば、TEDのようなネット空間でもいい。ポイントは文脈パラメーターの操縦だからです。

もう一つ、苅部さんがおっしゃったことに関連しますが、ドイツに発祥した「子ども大学」があります。地域の小学生を集めて大学教員の授業を聴いてもらう。僕はこれにも関わって小学校四年生に教えています。子どもには概念が通用しないから、概念を文章に開いて伝えるのに大学生に教える十倍のコストがかかるけど、うまく行くと恐ろしいほど感情的コミットメントが得られます。通じないだろうと思っていた話が大人よりも通じる。直近の授業では、食の安全性を考える上で添加物に敏感なのは大事だけど、世の中には忙しいお母さんもいて子どもにコンビニ弁当しか食べさせられなかったりする。どう考えたらいいのかと尋ねました。すると「何事もやり過ぎは駄目」という答えが大勢から返って来た。子どもの感覚はスゴイ。逆に言うと大人は言葉の自動機械になりがちです。フクイチ事故後に低容量被爆が問題になった際、保坂区長にこう話しました。「少しでも数値が出たら駄目で、産地表示のない食べ物を与える母親は犯罪者」みたいな物言いがネットに溢れるけど、産地を確かめて高価な食品を買えるのは恵まれた専業主婦だから、こうした物言いに淫する輩は「正しい」ことを言っているようでむしろ人を「正しさ」から遠ざけ憎ませてしまうと。僕の意見は行政に活かされましたが、大人の社会では困難なことが、子どもに投げると一秒後に通じる。大人が教えられます。
対話型の制度の導入

渡辺
苅部さんがおっしゃった、「政治=選挙」と同一視することについて、発展途上国に開発援助をする際に、欧米諸国などは民主制を整えることを相手国に求めます。その時に、往々にして試金石になるのは選挙制度の導入です。しかし選挙をすれば民主化するかと言えば、まったく違う。形だけの選挙を行って権威主義体制を維持している国は多くあります。お話をうかがっていてもう一つ頭に浮かんだのは、アメリカの党員集会です。すぐに投票するのではなく、小さな単位で学校や集会所に集まって、なぜ自分がこの候補を支えるかとか、様々な議論を経て最終的な決定を下すわけです。議論を重ねるうちに、支持者の気持ちも変わっていく。ああいう対話型の制度が日本にも定着すればと思いますが、難しいでしょうね。アメリカでも投票形式の予備選挙が主流になっています。今年出た本で言えば、猪木武徳さんが『自由の条件』(ミネルヴァ書房)の中で、トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』について触れています。市民が参加し同じ市民を裁く陪審員制度に関するトクヴィルの見解は有名です。つまり、市民としての公的感覚を育む「民主主義の学校」というわけです。そういう参加を促す制度に関しては、アメリカは結構巧みに整備されているように思います。選挙の演説集会なども、会場いっぱいに風船が飛んだり、ロックが流されたり、まさに祝祭そのもので、単純に楽しめるんですよね。その辺りは、日本はまだまだ工夫の余地があるなと、お二人の話を伺っていて感じました。
宮台
「楽しい」ことがやはり重要です。ヒラリー支持者の民主党集会について、参加者のコメントを読むと、有名アーチストが挙って応援に駆けつけてはいるが、熱が感じられずに白けていたと(笑)。「大統領にトランプはないでしょう」みたいな感じで、仕方なく来ている消極的支持者が多い風情。トランプ支持者の集会はお祭り状態で、暴力的ではあれ楽しかったと。コミットメント度が違うのですが、熱の違いが結果に繋がったという議論も部厚いです。人々が持つ熱の力は最後の最後で投票所に仲間を連れてくるか否かを左右するからです。白けた雰囲気の支持者は誰も連れてきません。
渡辺
新科目「公共」の話に戻ると、これは、もう少し日常の中で市民としての自覚と責任を育む、あるいはその感覚を若いうちから体感させようという話ですよね。どちらかと言うと、保守派の人たちが熱心な印象がありますが、具体的には、どんな内容が含まれているんですか。
苅部
文科省内ではいまだに「公共」という科目名称の英訳が決まっていないという噂があります。「公共」という言葉の意味について、推進している側もよくわかっていないんですね(笑)。中教審のワーキンググループ内で一月に配布された資料によれば、「社会に参画し、他者と共働する」という目的のなかに「家庭」まで入っている。この点は、日本のイエの美風の再建といった保守的な意見を考慮したのかもしれませんね。ただ中心となっているのは、個人が自立した主体として社会に関わってゆくための教育ということで、それほどおかしな話ではないと思います。
宮台
欧米の公は、内集団(所属集団)と外集団(非所属集団)を含んだ包括集団(市民社会)の原則だけど、日本の公は、滅私奉公の公で、所詮は内集団(所属集団)の原則に過ぎません。だから家庭生活が公になったりします(笑)。さて、なぜ社会で実体験を積むことが良いのか? 人は記憶の動物です。昔あったはずのプラットフォームを取り戻そうとするのは自然です。でもプラットフォームの前提が崩れれば取り戻しは現実化できない。家族も地域も崩れて来たけど、「機能が同じだから、これを家族として新たに認めよ」と迫ったところで疑似家族・疑似地域への同意は得られません。ならば、家族的だ、地域的だとかつての境界線を参照せず、別の境界線を持つ「仲間」を自在に作り出すことも大切です。ならはSEALDsがやろうとしたことには意味があったと思います。彼らが組織した国会前デモに参加した人には各人の動機があったけど、多くの人が言っていたのは、大学や会社では出会えない人と出会えるのが楽しかった。これは重要です。今まで仲間になれないと思っていた人と仲間になれるとわかる。そういう機会を作ってくれたのは誰だろうと考えて、社会的な想像力を開いていくことがあり得ます。その意味でSEALDsは一定の成果を残しました。安保法制を止められたかはさして重要ではない。どんな政治的なコミュニケーションをして、どう楽しさを持ち帰れるかを、示しました。
渡辺
トランプの集会に来ていた青年たちにインタビューしたテレビ番組をアメリカで観たのですが、「なぜここに来てるのですか?」と聞かれて、「女の子に会えるから」と答えている人がいましたよ(笑)。
宮台
大事です。それをリベラルが理解していない。関連しますが、今回LGBTの十五パーセントがトランプに入れている。ゲイに限ればかなりの割合がトランプに投票しました。「LGBTと言えば権利獲得」という先入観がリベラルにありますが、思い込みです。日本でもゲイバーに女連れで遊びにいくと「マ◯コ臭い」と嫌がられるでしょ(笑)。どこの国にもミソジニスト(女嫌い)のゲイが多数います。その現実を知らないから「LGBTと言えば権利獲得」と誤解する。権利獲得は大切でも、性愛の幸せは権利獲得では得られない。性愛こそ「正しさ」より「享楽」だからです。権利獲得で幸せになれると考える輩はゲイ界隈で嫌がられます。
「聖なる力」を封印

渡辺
トランプは党大会で、「LGBTの権利を守る」と言っていました。ただ、そこがポイントで、彼は票を取れるなら何でも言う。ちょっと風向きが変われば、平気で前言を撤回する。「変節」ではなく「進化」なのだと(笑)。これまでの政治家には、ある程度のイデオロギー的なこだわりがありました。そこを基軸にして立場を表明し、説明するのが常識だった。けれどもトランプにはその常識が通用しない。ブレ幅の大きさや予測不可能性という怖さがあると思います。本心はどこにあるのか。そもそも本心があるのか。
苅部
政権が発足してから何をするのかという問題ですよね。トランプは鳩山由紀夫首相みたいな大統領になるのではないか(笑)。
宮台
人が喜ぶことなら全部言う。
苅部
行動は田中角栄で、頭の中は鳩山由紀夫といった感じですね。
渡辺
確かにトランプは今回、没落しつつあるミドルクラスの不満を掬い上げた。そこは評価すべきだと思います。リベラルの驕りがあった点も否定できない。しかし超大国の指導者として、そんな支離滅裂な、究極の風見鶏みたいなスタイルをこのまま続けてゆくことができるのか。その先に何が待ち受けているのか、やはり危惧せざるを得ません。
宮台
だからこそリベラルが改心して「楽しいけど正しい」を選ぶ方向に持っていけばいい。渡辺さんのおっしゃるように「楽しいけど正しくない」を選んでも支離滅裂になって続かない。有権者も「同じ楽しいなら正しい方を選ぶ」ことを学習すべきです。そのためにも、動員するリベラル側が「楽しいけど正しい」を喧伝しなきゃいけません。
渡辺
最後のところで抑制、良識が働くということですね。一線を越える前に、ただ楽しいだけでは駄目なのだ、正しさが伴っていないといけないと、有権者たちが自ずと考える方向に導いていく……。
宮台
動員を考える時には「楽しさ」を押し出すべきですが、動員の最終目的や価値はリベラルな「正しさ」であることを動員側が忘れちゃいけない。でも「正しいことを言えば通じる」「間違っていると糾弾すれば向こうもビビる」という考え方は出鱈目です。そんなことじゃ人を動機付けられない。正義と享楽は違う。言語と動機付けは違う。
渡辺
「公共」の話に関係しますが、天皇退位問題は、まさに日本の「公共」に関するシンボリックなイシューとして、今年話題になりました。戦後日本の民主化や近代化を図ったGHQも天皇制は存続させました。
宮台
誤解を恐れず申します。今上天皇のお考えが僕には分かります。天皇に聖なる力を繋ぎ止めておきたいと思っておられるのです。天皇が国事行為をやるだけの存在なら摂政が代わりにやればいい。しかしそれでは占領軍が天皇を退位させずに置いておこうと思った目的に反するし、実際目的通り民主主義化できた経緯を無視しています。実際、天皇次第では一億総玉砕になり得た。憲法第一章に「象徴」の言葉が置かれること自体、象徴=聖なる力を意味します。慰問、慰霊、アジア諸国歴訪で思いを伝える営みは、政治的です。控え目に言っても政治的行為との間に判然とした区別はつけられない。英国王室の人々が政治的なことを喋っても問題にはならないのは俗人だからです。「チャールズがまた何か言ってるわ」じゃなく、天皇が何を言うかが大きな政治的衝撃力を持つのは、俗人ではないからです。だからこそペラペラ喋れば責任を問われます。天皇は国民の八割九割がそう思っていることを「宣言文」として伝える存在で、真っ二つに分かれたときにいずれかを選ぶ「遂行文」を発する存在だったら――終戦の聖断や226事件での振る舞いがそれでしたが――失敗した場合に責任を問われ、力を失います。これが、天皇が聖なる力を持つということの意味です。聖なる力がありながら今上天皇がを封印しているように見える佇まいが戦後象徴天皇制のポイントです。
象徴天皇制の定着

宮台
天皇は祈っていればいいという不敬の輩が日本会議周辺にいます。師匠だった小室直樹先生に言わせれば、日本人が自ら憲法を書けるほど成熟した存在なら天皇は単なる文化的伝統を継承する存在でよいが、実際そうでない以上、天皇が聖なる存在でなければならない。ローレンス・レッシグは憲法を作った国のファウンダーが何を考えていたのかを思い出すことが憲法意思だと言いましたが、小室先生も同じことを言う。戦後の体制をどんな意思で始めたのかを日本人は忘れやすく、自分の意思で始めたかどうかも怪しいから「陛下の御蔭で思い出せる」ことが大切だと。日本人は未熟だから独力では近代憲法の意味を理解して体制を保てないから、憲法意思を日本人がリマインドするための重しとして陛下の聖なるお力が必要だと。僕は全面的に賛成だから天皇主義者を名乗ります。摂政が代替できる国事行為だけやれと言う「自称保守」は天皇主義者じゃない。

というと、聖なる力を持つ天皇が暴走したらどうするのかと問う人が出てくる。簡単だ。暴走したら終わり。でも天皇がいなくても政治が暴走しているじゃないか。むしろ天皇がお力を封印しておられるから暴走が止まらない。先に触れた(3)対米追従を前提に座席争いするヘタレ官僚による引き回しが止まらないんです。ならば機会主義的に考えましょう。宮内庁の力もあって天皇が暴走せず、むしろ憲法意思を担保する存在としてここまでやって来られた。本来持つ聖なる力を封印した、しかし国事行為に留まらない象徴行為をされる存在としてね。陛下が時折キラッとその力をお見せになった瞬間、安倍晋三も日本会議も震え上がる。雑な言い方だけど、そうしたあり方でいい。だからこそ、摂政でいいという日本会議の考え方は天皇の御意思をわざと無視する不敬なのです。
渡辺
この問題に関しては、私はあまり細かくフォローしていないのですが、以前から「生涯在位」や「男子直系」などというのは、明治以降の伝統に過ぎないとか、あるいは人権的な見地から、皇族の職業選択の自由や、政治的な発言も含め、表現の自由も十分に認めるべきだといった意見があります。しかし、そうなると、「聖なる力」はどうなるのか。
宮台
天皇を御意思なき存在に留めることが「聖なる力」を奪いますが、政治的発言の失敗も「聖なる力」を奪います。木村草太氏が言う通り、明治はじめに井上毅と伊藤博文の戦いがありました。井上は天皇をドイツのカイゼルのような元首にしようとした。伊藤は天皇は人形でいいと考えた。結果的に「人形でいい派」が今日までメインストリームであり続けています。「田吾作による天皇利用」のためです。でも我々は近代社会を営んでいるはずです。ならば天皇も意思する存在であるのを無視しちゃいけない。天皇は意思も価値観もお持ちだけど、日本人のために極力表に出さないようにしておられる。そのお気持ちに応えなければいけない。コール&レスポンスが必要です。さもないと「ならば言いたいことを言わせてもらう」「天皇をやめるわ」という話になりかねない。実際「天皇をやめる」と宣言されたら、制度ではどうしようもありません。天皇「制」と呼ばれていますが、憲法第一章を熟読すれば分かる通り、制度ではなく、陛下がそのようにして下さっているという事実性です。近代憲法に聖なる存在の事実性が書き留められるのは奇妙ですが、さもないと日本人は立憲主義的な近代社会の体裁を保てないんです。
苅部
「聖なる力」は「君徳」の問題にも言いかえられますね。天皇らしくあるためには、血統によってその地位についているというだけでは不十分で、君主としての個人的な徳が必要となる。大化の改新から江戸時代までのあいだ、七割ぐらいの天皇が生前に譲位しています。その譲位宣命には「自分には徳が足りないから」という言葉が入るのが定型です。天皇がその職務を十分に遂行できる状態でないといけないという考え方で、譲位できるように皇室典範を改正する意見にも、そうした皇室の伝統という根拠があります。柄谷行人さんが今年に出た『憲法の無意識』(岩波新書)で、皇室制度の一種の擁護論を説いていたのがおもしろい。それは憲法秩序の安定装置として、天皇・皇后両陛下がいるという考えです。たとえば両陛下が戦没者の慰霊をやることによって、国民が憲法の平和主義の理念を再確認する。あるいは政治家が勝手に暴走しないための歯止めにもなる。そういう機能を果たしていることを再評価しようというのですね。
渡辺
ただ、その点は、今の天皇が比較的リベラルな人なので、そういう解釈が成り立つとも思うのですね。もしもかなり保守的な人だったら、柄谷さんも同じことを言えるかどうか。
宮台
そこがポイントです。全ては事実性の参照というコンテクスチュアリティを前提とします。文脈自由な原理原則や、ユニバーサルな制度として、天皇「制」なるものは存立できません。小室直樹先生の言い方を借りれば、近代のユニバーサルな制度を作り支える力がない以上、コンテクスチュアリティに満ちた天皇「制」を手放せないのです。
苅部
「君徳」の話は、皇位の継承制度の問題にも関係してくるんですよね。現在のように皇族の数が少ない状態だと、誰が皇位を継承するのか早く決めて、子供のうちから特別に教育していかないといけない。その理屈でいくと、男女にかかわらず第一子に継承させる制度に変えるのが一番いいんですね。今回の問題は、本当ならそこまで含めて議論しないといけない。
渡辺
御厨貴さんらがやっている有識者会議も、退位を認めないということではなく、一定の法的手当てを整えた上で、退位を認めていく方向のようですよね。
苅部
天皇陛下のお言葉があって、ただちに内閣が皇室典範改正案を作ってしまうと、天皇の意向を受けて法律を作ることになってしまうから、有識者会議での検討をあいだに置く必要があるんですね。御厨さんと芹川洋一さんの『政治が危ない』(日本経済新聞出版)でも、何もない状態で政府案を作ろうとしても、方針を一つにまとめられないだろうとおっしゃっていた。
宮台
ぶっちゃけた話をします。天皇の退位について本来は国民の側が考えておくべきことなのに、それをみんながうっかり忘れていて天皇のつぶやきでハッと気づいたという図式でしかありません。コール&レスポンスできない駄目な国民です。天皇に見放されないことに感謝すべきです。
苅部
大多数の人は、退位できない制度ということも知らなかったわけですから。天皇関連の本では、元侍従長の川島裕さんの『随行記』(文藝春秋)が面白かったですね。両陛下がどういう気持ちで全国を回っておられるかが伝わってくる、いい本だと思いました。
渡辺
日本の皇室の場合、海外からの来賓があった時、一切政治的な配慮をせずに、すべて平等にもてなします。フランス大統領が来ようと、パラオの大統領が来ようと、まったく差別化しない。ワインや料理を含め、様々なプロトコールを通して暗黙のメッセージを伝えるのが世界標準なのですが、日本の皇室の場合、差別化すると政治的な権力を行使していることになると考えるわけです。そこまで慎重です。
苅部
来賓を平等にもてなすことにも、広い意味では日本の対外関係を安定させるという政治的効果があるわけですね。憲法学者の議論では、憲法に書かれている国事行為だけに限定して、それ以外の公的活動はなくすべきだという意見もありますが、そこまで役割を縮小するのが本当にいいことかどうか。皇室による憲法秩序安定効果が発揮できなくなってしまう。
宮台
おっしゃる通りです。
苅部
今回、本音では天皇制をなくした方がいいと思っている人たちのコメントが、どうも歯切れが悪かったですね。国民統合の作用に注意しなければいけないといったことを付け加えるだけで、お茶を濁しています。かつて昭和天皇が崩御したとき、浅田彰さんが戦争責任問題にふれて「愛すべき人柄の博物学者に歴史の重荷を背負わすなどという悲劇が二度とないよう、天皇制は廃止すべきだ」(朝日新聞、一九八九年一月一〇日夕刊)とコメントされたことがありましたが、今回、そういうことを誰も言わなかった。同じように、高齢の方にこんな思いをさせる世襲君主制はやめるべきだという声が出てもよかったはずでしょう。いまの両陛下が護憲派の味方のような言動を繰り返しておられるから、皇室制度を批判しにくくなっているのだとすれば、日本国憲法における象徴としての皇室制度が、定着しつつあるともいえますね。
渡辺
今の天皇は、災害が起きれば、すぐに被災地を訪れ、膝をついて同じ目の高さで被災者に寄り添う。その姿に人びとは心を打たれる。それが「聖なる力」ということなのかもしれません。
宮台
そうした力を、意思に満ちた振る舞いで維持しておられるからこそ北一輝の言う「国民の天皇」なのです。
2016年12月23日 新聞掲載(第3170号)
このエントリーをはてなブックマークに追加