『昭和天皇実録』を読み解く|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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2017年1月6日

『昭和天皇実録』を読み解く

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二〇一六年九月、『昭和天皇実録 第八・第九』(宮内庁編修/東京書籍)の二冊が刊行された。これにより昭和史最大の転換点ともいえる太平洋戦争までの昭和天皇の記録が国民に公開されたことになる。また、八月八日には今上天皇が直接国民に「お気持ち」を訴える「お言葉」を発表。有識者会議を経て、現天皇に限って退位を認める方向性となった。明治以来の天皇・天皇制に対する関心が高まるいま、『実録』を読むことで過去から謙虚に学び、未来への手がかりを見つけることはできないだろうか。

『昭和天皇実録』の読み解きについて、『昭和天皇』『「昭和天皇実録」を読む』(岩波新書)など天皇に関する多くの著書のある原武史氏と、『皇族と天皇』(ちくま新書)の著者である浅見雅男氏に対談をお願いした。 (編集部)

『昭和天皇実録』に 秘められた真実

今日は西暦でなく元号で言いますが、『昭和天皇実録』(以下『実録』)を最初に読んだとき一番驚いたのは、昭和二〇年の七月三〇日に大分県の宇佐神宮、八月二日に福岡県の香椎宮に勅使が派遣されたところでした。御祭文(ごさいもん)の宣命書(せんみょうがき)を読み解いたときの興奮は忘れられません。一体なぜこんな時期に伊勢神宮でなくわざわざ九州に勅使を送り、「敵国の撃破と神州の禍患(かかん)の祀除(ばつじょ)を祈念」(『実録 第九』七四〇頁)させたのか、非常に大きな謎として残る。宇佐神宮と香椎宮は神功皇后の三韓征伐に関係のある神社ですから、初めて見たときには、神功皇后に思い入れをもつ皇太后のことが念頭に浮かびました。もしそうだとしたら、天皇は戦争末期まで皇太后の意向に逆らえなかったことになる。実はこの話は、『実録』が公開されたとき取材に来た新聞記者全員に話したのに、日経を除いてきちんと取り上げられなかったんです。今年の八月八日の「お言葉」をどう解釈するかという問題にしても、理解するための前提として『実録』があるのではないかと思いますね。天皇自身がこれを読んでいるわけですから。今までほとんど公開されていなかった宮中祭祀や伊勢神宮参拝に際しての御告文(おつげぶみ)や、先ほど触れた御祭文といわれる祝詞が、宣命書の形でいくつも公開されたのはすごく大きな意味があると思います。
浅見
まったくそうですね。
近現代天皇制を知るための手掛かりとしても重要なものだと思います。
昭和天皇実録第一()東京書籍
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東京書籍
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浅見
天皇は宮内庁が公開する前に目を通されたようですが、政府、宮内庁首脳、さらには生前退位問題の処理にかかわっている有識者たち、そして皇族たちにも熟読してもらいたいですね。あの問題は昭和天皇、昭和時代の皇室についての十分な理解無くしては解決できませんから。
『「昭和天皇実録」を読む』(岩波新書)でも最後に一覧表に示しましたが、例えば戦中期に、天皇がどういう映画を観ていたかということまで『実録』にはつぶさに書いてある。さらに、その映画を誰と観ていたかもわかります。天皇皇后だけの場合もあるし、秩父宮は御殿場で結核の療養をしていたため出てきませんが、秩父宮妃、高松宮夫妻、三笠宮夫妻も一緒に観ている場合もあるし、内親王、親王が一緒に観ている場合もあって、『実録』からは、そういうプライベートな生活の一端というものが読み取れます。
浅見
映画といえば三笠宮が中国から持ち帰った、中国側が撮った日本軍の蛮行についての十六ミリフィルムがあって、『実録』にそれを天皇と皇后が観たということが明記されている(『実録 第九』二一四頁)。三笠宮の『古代オリエント史と私』という半自叙伝にもそれを天皇に観せたということは書かれていますが、『実録』によれば皇后も一緒に観ているわけで、これには驚きました。また、昭和天皇が摂政になったばかりの皇太子時代、地方を視察後に松山の久松定謨(さだこと)の別邸でビリヤードに夢中になって新嘗祭をさぼってしまう、それを貞明皇后がカンカンに怒るというエピソードなども出てきますが、これを書いた宮内庁の人たちがどこまで考えて書いたのか興味がありますね。
そうですよね。御告文や御祭文にしても、よくぞここまで引用したなと思う時期があるかと思えば、逆に全然引用されていない時期もあったりして、一貫した編集方針があるように見えない。
浅見
『実録』を作成した宮内庁書陵部の専門家の間でもいろいろ意見の相違があったようです。
二〇一四年秋の公開直後には、「歴史教科書に書かれた通説を覆すような新事実はなかった」と述べた学者もいましたが、果たしてそう言い切れるでしょうか。確かに昭和天皇を顕彰するための文書ですから一定のバイアスはあるにせよ、これは何度も繰り返し精読すべき基本文書だし、読むたびに新しい発見もあります。分量だって膨大なものですから。
浅見
『明治天皇紀』もそうですが、『実録』には引用文献がすべて書いてある。だから『実録』を読み引用文献も読んでということを繰り返していけば、新しいことがないどころか、宝の山といったら褒め過ぎになりますが、良い手がかりになりますよね。
昭和天皇は皇太子時代から膨大な行幸、行啓を続けていたわけです。それらの行幸や行啓についても、どこを訪れたかだけでなくて、場合によってはSLや電気機関車の機種まで書いてある。

池田厚子さん(昭和天皇の第四皇女)が入院していた時期に、昭和天皇は何回か岡山へお見舞いに行きますが、公式な行幸ではないので、お召し列車で行くわけにはいかない。そうすると一般の電車に乗る場合もあって、伊丹まで飛行機で飛んで大阪へ移動して岡山まで特急電車に乗るとか、そういうスケジュールまで全部書いてありますから、当時の時刻表と照合すればダイヤがわかる。そういうことは『実録』が出なければなかなかわからなかったことです。
浅見
『実録』が出てすぐは、かなりの人が昭和天皇の子ども時代の記事についていろいろと言っていましたが、それよりも、もっと読み込んでいかなければいけないところがある。

たとえば摂政になる前後のあたりの記事などは、まだまだちゃんと読まれていないと思いました。それぞれの人が自分の得意な部分を熟読していって、それらを統合するような形に研究成果がまとまればいいと思いますが、なにしろ分量が膨大ですしね。
「お言葉」の衝撃

二〇一六年八月に天皇自身が生前退位の意向をにじませた「お言葉」を発表してから、天皇・天皇制に関する関心が高まったと思います。あの「お言葉」が出たあと、私自身は、玉音放送、終戦の詔書と比較することの必要性をコメントしました。戦後七〇年の二〇一五年七月、玉音放送の原盤が出てきて、天皇や皇族がそれを聞いた。その前年の二〇一四年秋に公開された『実録』も天皇は読んでいます。それ以前から天皇は退位を考えていたようですが、戦後七〇年に当たる二〇一五年に玉音放送を原盤で改めて聞くということを通して、現天皇の中に改めて昭和天皇という父親の存在感が浮かび上がってきたのではないか。

十二月一日の共同通信のニュースで天皇と学友のやりとりが公開されましたが、現天皇は昭和天皇が摂政になった当時、「大正天皇をお守りしたい人と摂政の昭和天皇をもり立てようとする二派ができ、意見の対立のようなものがあったと聞いている」と述べています。現天皇にとって、祖父の大正天皇と父の昭和天皇がどういうふうに捉えられているのか、気になっているんです。
浅見
その共同配信のことですが、率直に言って、宮内庁はここまでやるのかという気がしました。「お言葉」自体について言えば、摂政がなぜ良くないのかということが、私はあそこからはよく理解できませんでした。ですから、そうした疑問に対して例えば宮内庁長官が記者会見を開いて答えるとか、そういう形にしないとまさしく一方通行の玉音放送になってしまう。学友と陛下の会話を報道させるといったやり方は不健全だと思います。私も天皇、皇后が心身ともにお疲れということはよく分かりますが、世論調査の数字などに乗っかって、「天皇陛下はお気の毒です」で済んでしまうのでは困るなと、そういうことを非常に感じますね。
昭和天皇が摂政に就任したときのことを、現天皇がここまで気にしていたのかと。この『実録』を読んでも日々の動静を淡々と記述してあるだけで、そのときに昭和天皇が何を思ったのか、どう苦悩していたのか、そんな話はまったく書いていないわけですよね。
浅見
原さんがお詳しいですが、摂政を置くことになったときに、貞明皇后が摂政の補佐みたいなのを置かれては困ると言った。あのとき皇后の念頭には、皇太子妃、のちの香淳皇后の父で皇后が信頼していなかった久邇宮邦彦王が補佐になり、なにかと摂政に口を出すようになると困るということがあったわけですが、そんな確執については『実録』だけでなく、どこを見ても出ていないわけです。今度も「お言葉」に対する批判というものがもっと出てきてしかるべきだと思うのですが。
そこは確かに不思議なところで、もう少し左派系の学者が何か言うかと思ったら、逆に右派の方が厳しいことを言っている。従来の図式が逆になっているというか、本来は改憲派のはずが逆に憲法を根拠に「お言葉」を批判するような発言をして、護憲派の人の方が天皇の気持ちに寄り添わなければいけないというようなことを言っているのは、面白いなと思いました。
浅見
言わなきゃいけないことで、言われていないことが多過ぎるわけです。もし天皇が生前退位すれば新しい天皇が即位する。そして今は事実として天皇と皇后がセットで象徴天皇としてイメージされているわけですから、あたらしく国民の象徴となる皇太子ご夫妻のことも極めて重要なのは当然で、そこまで議論を広げていかないと極めて拙速な恰好で天皇、皇室の根幹的な部分が変わってしまいます。
平成流の皇室というのは、行幸啓にせよ宮中祭祀にせよ、一貫して天皇と皇后が一緒に行なってきたことに特徴がある。明治から昭和までは、天皇が単独に行う場合もあれば天皇と皇后が一緒に行う場合もあったのが、平成になると、基本的にいつも一緒というスタイルが完全に定着していくという点においては大きな違いがあると解釈しています。

この『実録』で評価すべきだと思うのは、天皇が何年何月何日何時に誰と会っていたかが全部書かれてあって、基本的な事実についての記述がしっかりしているから、それを他の文書と照合することでよりいっそう具体的な事実が明らかになる。そういう意味では基本的な資料として役立つ。それから、昭和天皇だけではなく、皇后や子どもたち、直宮に当たる皇族たちといったファミリーの動きも比較的よくわかるというところは評価すべきだと思います。
天皇・皇族・院政

浅見
私の関心に引きつけての話ですが、この『実録』には皇族たちについてもかなり際どいことが書いてある。例えば、香淳皇后の実家である久邇宮家、さきほども名前をあげた香淳皇后の父の邦彦(くによし)王、兄の朝融(あさあきら)王、それぞれの行状がさりげなく載っています。例の宮中某重大事件の時に、山縣有朋らを非難する怪文書のネタ元が久邇宮家だったことも書いてある。また、宮内大臣、内大臣だった牧野伸顕の日記には、貞明皇后が邦彦王を激しく非難している記事がたくさん出てきますが、『実録』の中にも摂政が義父にあたる邦彦王を戒飭(かいちょく)した、戒めたという事実が出てくる。その理由は朝融王が天皇の勅許までもらった婚約を勝手に破毀したからだ、ということまで書いてある。また、これは戦時中、敗戦直後のことですが、昭和天皇と弟の高松宮が何度か論争したことも事実として書いてある。論争の中身は高松宮の日記を読まないとわからないにしても、兄弟がかなり際どい関係にあったということが『実録』から読み取れる。今まで他の史料から推測していたことがあらためて裏付けられたというか、そのあたりも『実録』の面白いところです。話は変わりますが、生前退位の話が出てきたときに、新聞などで昔は生前退位は当たり前だった、みたいなことを言う人がたくさんいた。しかし生前退位にもいろいろあって、赤ん坊が天皇になって少年時代に譲位している場合もある。それだって生前退位に違いないわけで、だから今の陛下も生前退位でいいじゃないか、というのはそれこそ非歴史的な考えだと思います。
天皇が退位すればかつての院政と同様の二重権力状態になると言っている人もいますが、例えば白河や後白河の院政にしても、その時代は天皇自身が持っていた権力を、自分が退位することによってそのまま維持したわけです。戦後の象徴天皇制では、言うまでもなく国民主権になっている。生前退位には確かに母でなく父が復権する面がありますが、時代の変化にまったく触れないで表象だけ見て、似たような状態になるというだけでは論拠として弱い。

浅見さんが『文藝春秋Special(2016年季刊秋号)』にお書きになった「幻の「裕仁法皇」退位問題の近現代史」を読みましたけれども、近衛文麿が中心になって京都の仁和寺に出家させるという案があったと。今、院政の話をしましたが、天皇が譲位と引き換えに出家する前例は奈良の聖武天皇のときからあるわけで、それが平安時代になると出家した上皇を法皇と呼ぶようになる。実はこれは天皇に限った話ではなく、鎌倉の北条時頼などの執権や室町の足利義満などの将軍もそうですが、譲位をすると出家する実例は意外に多い。それがあのときに復活してくるという解釈もできるような気がしたんです。仁和寺は平安時代に宇多天皇が創建し、法皇となった寺ですから皇室との縁も深い。
浅見
実は私は本当にそんなことがあったのかとかなり疑っていたのですが、高松宮の日記や伝記にはそれを裏付ける事実がいくつも出てくる。『実録』には出ていませんが。
僕も注意して読みましたが出てきませんね。そこも面白いところです。
二・二六事件と「けだし前例なきこと」

浅見
二・二六事件についても大事なことが出てきます。昭和十一年二月二六日の朝、軍令部総長になっていた伏見宮博恭(ひろやす)王に元海軍軍令部長の加藤寛治から「これからすぐ参内してください」と電話がかかってくる。そのあとの細かい経緯はいろんな史料によって少しずつ違うわけだけれども、博恭王が実際に二六日の午前中に参内し、天皇に「戒厳令を布くな」「後任の総理大臣を早く決めろ」と言ったということは『実録』に出てくる。ただ注目しなければならないのは、当時、天皇の側近にいた木戸幸一の日記によると、それに対して昭和天皇は激しく不快の念を表すわけですが、そのことは『実録』には出てこない。ほかにも参謀総長で小田原にいた閑院宮が、事件が起きたことがわかっているのにいつまで経っても東京に戻ってこない。それに弘前から急いで上京した秩父宮が怒って戻ってくるように電話をかけるのですが、そういうことは『実録』には出てこない。さっき『実録』には皇族について際どいことが書いてあると言いましたが、書いてないことももちろんあるわけで、そのあたりも面白い。
二・二六事件に関していうと、その直後に広田内閣が出来たときに皇太后が前例のない行動に出る。広田内閣の閣僚全員を呼びつけて、ひとりひとり会って激励の言葉をかける。これは宮内公文書館に所蔵されている「貞明皇后実録」の中にもはっきり書いてあって、「蓋シ異例ノコトナリ」とある。「貞明皇后実録」というのは『実録』よりももっと淡々とした記述ばかりですから、この記述自体が異例です。いかに特異な出来事だったかがわかる。これと二・二六は関係がないだろうか。あのとき秩父宮が上京してきて大宮御所で皇太后に会っているし、三月に入ってからも会っている。こうした秩父宮の動きと皇太后の前例のない行動というのが何か関係がありはしないかと思ったわけです。

天皇とは直接関係がないため、『実録』にこのあたりの記述はありませんが、元老の西園寺公望は皇太后と天皇の関係を非常に危惧するわけです。さらに翌年に日中戦争が勃発すると、多くの軍人が宮殿で天皇に会ってから大宮御所にも行って、必ず煙草箱とかカフスボタンとかを下賜されている。それを結局、四五年の敗戦直前まで断続的に続けるということは一体なんなのだろうかと。『実録』と「貞明皇后実録」には天皇と皇太后が会った軍人の名前と日にちが明記されていますから照合できるわけです。おびただしい数にのぼりますが、昭和十六年十二月からの一年間だけは少ない。皇太后が沼津に疎開していたからです。これはすごく奇妙ですよね。連戦連勝で盛り上がっているときに、何故皇太后だけを疎開させたのか。それはやはり、皇太后を軍人に会わせないようにしたのではないか。
浅見
昭和天皇と貞明皇后母子の関係は興味深いですね。そこに皇后と久邇宮家の関係が絡んでくる。即位前の昭和天皇が、母が久邇宮家に厳しい目を向けていることに困惑していたという話を聞いたことがありますが、天皇家にも世間一般と変わらない肉親間の人間的なトラブルめいたものがあった。
昭和天皇と憲法

皇族と天皇(浅見 雅男)筑摩書房
皇族と天皇
浅見 雅男
筑摩書房
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昭和二一年二月、大日本帝国憲法の改正にあたって国務大臣の松本烝治がまとめた松本試案について、天皇は大日本帝国憲法と全く変わらない第一条と第四条の内容が重複しているから一緒にしたらいいじゃないかと言っている。これは天皇が旧憲法を根本的に変える必要を認めていなかったことを意味しています。岩波書店から出ている豊下楢彦さんの『昭和天皇の戦後日本』には「松本案はGHQばかりでなく、昭和天皇からも拒絶されていたのである」とあるのですが、『実録』の該当箇所を読む限り、とてもそうは思えない。

いわゆる天皇の人間宣言とされる昭和二一年一月一日の詔書で、天皇は五箇条の御誓文に触れています。『実録』によると天皇は昭和五二年八月にこの詔書について触れ、民主主義は輸入のものではなく明治天皇が採用し、五箇条の御誓文に記したと述べている。これは極めて特殊な民主主義解釈です。二回目のマッカーサー会談で天皇は日本国憲法に対する謝意を述べているのですが、それは天皇条項が残ったからでしょう。旧憲法を変える必要はないと考えていた天皇がこんなことを言っているのは矛盾しているように見える。

しかし天皇は、憲法の条文が変わったぐらいで「国体」が変わるはずはないと踏んでいたのではないか。そう考えたのは、皇太子時代から植民地を含む全国を回り、どこでも「君民一体」の「国体」が視覚化される光景を体感してきたからではないか。

日本国憲法に強い違和感を表明した高松宮は頭で考えていたのに対して、天皇は身体感覚で判断したように思います。その判断が正しかったことが、戦後巡幸で見事に証明された。
浅見
それはそうでしょうね。昭和天皇という人は本当にタフな君主だったと思います。

極端な言い方なんだけど、マッカーサーを転がすのなんて簡単だったんじゃないかという気さえしますね。敗戦時の日本はいい天皇をもったと思います。
皇室とキリスト教 聖断、

『実録』を読む際には、一体いつ天皇は戦争を止める決断をしたのかも問題になりました。少なくとも決断が遅れたのは間違いないところで、ではなぜ遅れたのかという問題があるわけです。

先程話した高松宮との確執については吉田裕さんが『昭和天皇の終戦史』(岩波新書)という本を二〇年以上前に出されていますが、皇太后との確執を含めて、天皇をめぐる家族関係が判断を鈍らせている面があることをちゃんと言う人はいなかった。なぜ天皇があれほど「一撃講和」に固執したのかも、こうした面から解かれる必要がある。『昭和天皇』(岩波新書)に書きましたが、戦争末期の天皇と皇太后の関係については半藤一利さんがかなり鋭い指摘をしています。

昭和二〇年六月十四日に天皇皇后が大宮御所に行って皇太后に会ったとき、天皇はショックのあまり寝込んだという記述が侍従の小倉庫次の日記にあって、天皇は緊張のあまり行く前に吐いた。普通の精神状態ではなくて、帰ってきたら寝込んだと。ここに半藤さんは注目し、終結を決断したのはこの時点だったのではないかと推測している。

天皇や皇族については半藤さん、浅見さんのような人たちの方が学者よりもちゃんと研究しているということが結構あるんです。昭和天皇研究である意味、面白いのは学者だけの狭い世界ではなく、開かれていて裾野が広いことです。

昭和二〇年から昭和二七年までの占領期というのはすごく大きな読みどころだと思うのですが、そこで気になるのがキリスト教の問題です。
浅見
気になりますね。これは原さんに伺いたいのですが、へそ曲がりに邪推しているんだけど、キリスト教への接近っていうのも要するに言い方は難しいけれど、ひとつの手段というか、その方がアメリカの警戒心を和らげることができるということだったのか、キリスト教に本気で改宗しようとしたのでしょうか?
まず前段階としてあるのは、香淳皇后が戦中期に定期的にキリスト教徒の野口幽香(ゆか)から聖書の講義を受けていて、天皇も黙認していたこと。東京女子大学に所蔵されている野口の関係資料からは、かなり本格的な講義を受けていたことがわかるんですが、皇后はキリスト教に相当惹かれるものがあったのではないかという気がします。占領期になると天皇も皇后と一緒に植村環から聖書の講義を受けています。ほかにドイツ人の聖園(みその)テレジアやフランス人神父のフロジャックなどもしばしば宮中に参内したり、戦後巡幸の際に天皇に会ったりしている。戦後の天皇は、神道が宗教としての資格を持ち得なかったことを反省していますし、東京裁判で自らが免責され、東条英機以下が犠牲になることに対する贖罪の意識もあったのではないかと思います。退位を封じられた天皇にとって、改宗はもう一つの責任の取り方だったという見方もできます。
浅見
天皇家と宗教の問題は興味深いですね。天皇家は神道というのは明治になってからで、それまではずっと仏教だったわけです。例えば山階宮晃(やましなのみやあきら)親王が亡くなったときに、幕末まで親王は山科の勧修寺(かじゅうじ)の門跡だったので、山階宮家ではそこで葬式をやろうとしたのですが、明治天皇はまず神道式で葬儀をやらせ、後で内々仏式の法要をやった。皇室と宗教という問題も面白いと思います。
女性宮家・女系天皇 皇太子不在の時代

「昭和天皇実録」を読む(原 武史)岩波書店
「昭和天皇実録」を読む
原 武史
岩波書店
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浅見
生前退位の問題は必然的に皇位継承者の問題になりますが、そうすると女性宮家、女系天皇が次の問題として出てくるわけです。だから特措法を作っても、またそういう問題が起きてくる。現代では日本も含めてほぼ世界中で共通している認識からすると、女性天皇はいけない、天皇は男じゃなきゃいけないというのは、女性差別ですよね。もっとも天皇という存在は日本独自の歴史、文化に基づくものだから、差別だって仕方ないという意見もある。私はそれでいいとすると、揚げ足をとるわけじゃありませんが、やはり女性差別ではあるが、戦前までは皇室に存在した事実上の一夫多妻制をなぜ認めないのかということになります。日本の天皇が男系で繋がったのは、結局、皇室が一夫多妻だったからで、そこをどう考えるのか。さらに男系保持のために旧宮家を復活せよという人もいますが、近代皇室における宮家、皇族のあり方を事実に即して見ていけば、それもほとんど不可能だということが分かります。
女性天皇は駄目だと言っている人は、まったく天皇制の歴史を知らないわけです。当然女帝はいたわけだし、八世紀なんて立て続けに出ている。持統天皇(第41代)、元明天皇(第43代)、元正天皇(第44代)、孝謙・称徳天皇(第46・48代)がそうです。元明から元正は、母から娘に譲位している。そういう歴史があったということが完全に忘却されている。敗戦直後に皇室典範を改正する際にも旧皇室典範の規定が大幅に踏襲され、女性天皇が否定されたばかりか、摂政の順位も女性皇族は男性皇族よりも下位に位置づけられた。これはまったくの推測ですが、皇太后の問題が大きかったのではないか。当時、女性がそういう権力を持つ、地位に就くということに対する大きな警戒感があったのではないかと。
浅見
明治二十一年に公布された旧皇室典範は、岩倉具視や伊藤博文、井上毅らが長い時間をかけて考え、枢密院などでの周到な審議を経て作られました。その結果として生前退位も女性天皇も否定されたわけですが、そのことの是非はともかく、天皇、皇室について明治の権力者たちは実に真剣に考えていた。しかし今では特措法という言葉が独り歩きしていることから分かるように、それとはまったく違う事態になっているように思います。
少し思ったのは、安倍政権に対して批判的な今の天皇皇后が退位すると、現政権にとってある意味都合がいい状況になるのではないか、逆にいうとそれを現天皇は危惧しているのではないか、摂政は嫌だというのはそこらへんもあるのではないかと。天皇が退位して太上天皇になるのかわかりませんが、引き続きそういう立場にいることで、逆に政権に対しても睨みがきくというか。
浅見
そうすると、明らかに二重権力ということになるわけで、今までも散々歴史的な教訓があるわけですから。
代替わりして皇太子、皇太子妃が天皇、皇后になると、皇太子がいないという状態になって、秋篠宮が皇太弟と呼ばれるかどうかわかりませんがそういう地位に就く。そうなると、今以上に秋篠宮家に皇位が継承されることがはっきりしてきます。今の状況は天皇家が上にいて皇太子がいて秋篠宮がその下にいるという関係なのが、今の東宮家と秋篠宮家が並立する状況になってくる。兄弟がある意味同等になって、明らかに今よりは不安定になる上、退位した天皇皇后が横にいるという状況になる。皇室典範が改正されない限り、跡継ぎのいない天皇家に同情する人たちと、皇位が継承されていく秋篠宮家を支持する人たちとに割れる可能性もあって、そういう意味では前例のない事態になるということだけは確かです。

【既刊】
『昭和天皇実録第一』(明治34年~大正2年)
『昭和天皇実録第二』(大正3年~9年)
『昭和天皇実録第三』(大正10年~12年)
『昭和天皇実録第四』(大正13年~昭和2年)
『昭和天皇実録第五』(昭和3年~6年)
『昭和天皇実録第六』(昭和7年~10年)
『昭和天皇実録第七』(昭和11年~14年)
『昭和天皇実録第八』(昭和15年~17年)
『昭和天皇実録第九』(昭和18年~20年)
【以降の刊行予定】

<平成二九年三月刊>
『昭和天皇実録第十』(昭和21年~24年)
『昭和天皇実録第十一』(昭和25年~29年)
『昭和天皇実録第十二』(昭和30年~34年)

<平成二九年九月刊>
『昭和天皇実録第十三』(昭和35年~39年)
『昭和天皇実録第十四』(昭和40年~44年)
『昭和天皇実録第十五』(昭和45年~48年)

<平成三〇年三月刊>
『昭和天皇実録第十六』(昭和49年~53年)
『昭和天皇実録第十七』(昭和54年~58年)
『昭和天皇実録第十八』(昭和59年~64年)

<平成三一年三月刊>『索引』
2017年1月6日 新聞掲載(第3171号)
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