視覚と、心理的、光学的投影をめぐる映画 ホセ・ルイス・ゲリン「ミューズ・アカデミー」|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」

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映画時評
2016年12月2日

視覚と、心理的、光学的投影をめぐる映画
ホセ・ルイス・ゲリン「ミューズ・アカデミー」

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2017年1月7日~1月29日まで東京都写真美術館ホールにて公開 (C)P.C. GUERIN & ORFEO FILMS


ナポリ近郊にあるシビッラの洞窟が映画に登場したのには動揺した。まさかホセ・ルイス・ゲリンが『ミューズ・アカデミー』でロベルト・ロッセリーニをやるとは全く予想していなかったからだ。ゲリンも映画の一組の男女はナポリを訪れねばならないと信じる監督だったのだ。確かに、彼はジョン・フォードの『静かなる男』に捧げた長篇を撮り、別の映画のラストで小津安二郎の墓を撮影したのだから、ここでロッセリーニの『イタリア旅行』を召喚することぐらい予想できたのかもしれない。だがいずれにせよ、洞窟の台形の通路を示すショットが心を激しく揺さぶることに変わりはない。

勿論、二本の映画の内容は大きく異なる。『イタリア旅行』で、イングリッド・バーグマン扮する中年女性は夫とナポリで別行動を取り、ガイドの老人男性に案内されて洞窟を見学する。『ミューズ・アカデミー』では、妻のいる大学教授が女子学生たちの一人とともに洞窟を訪れる。前者では抑圧されたエロスが問題にされ、後者では大学教授がエロスを高らかに肯定する。類似は見せかけのものでしかない。重要なのは、二つの全く異なるものが、ドゥルーズの言う「暗き先触れ」によって関係づけられ結びつけられることにある。

このような召喚が開示しているのは、二〇世紀中頃から存続する、ある貴重な美的価値観の存在である。それはまさに『イタリア旅行』、『静かなる男』や小津の諸作品を傑作とみなすような価値観だ。単に映画が好きというのとはまるで違うものである。『ミューズ・アカデミー』は、こうした価値観が二〇一〇年代の半ばにおいてどのような作品に結実するかを示している。

『ミューズ・アカデミー』では、シビッラの洞窟の暗がりを、男女が蝋燭を手に持って奥へと進んで行く。蝋燭の光が二人の顔を照らして揺れる素晴らしいショットがある。これは、水面に煌めく陽光が別の女の顔に反射するバルセロナの公園のショットと通じ合う。

だがそれより注目すべきは、洞窟の場面の少し前からガラス越しの顔の主題が姿を消すことだ。大学の教室の場面を除いて、映画のカメラは最初からガラス越しに、すなわち教授の家やカフェや自動車の窓越しに人物の顔を撮り続けてきた。教授以外は女たちの顔だ。これはミューズの存在の曖昧さを想起させる。ミューズは生身の女ではなく、男の心理的な投影によって成立する存在である。ガラスを通した女たちの像はミューズのこうした性質に相応しいものだ。映画のある段階で顔がガラス越しに撮られなくなり、それは教授が女子学生たちとの関係を深める瞬間に対応している。主人公はミューズとの戯れをやめて生身の女たちとの関係を選んだのか。

けれども、一旦姿を消したガラス越しの顔の主題が映画の最後に戻って来る。家の窓越しの教授と妻。カフェの窓越しの妻とナポリ旅行の女子学生。そして雨粒の落ちる自動車の窓越しの教授と別の女子学生。ここで肯定されるのは、ミューズという心理的投影とガラスへの光学的投影だ。窓ガラスはカメラのレンズであり、人間の瞳でもある。生身の女と思っても、知覚しているのは常に表象なのだ。『イタリア旅行』は視覚と心理的投影をめぐる映画だったが、『ミューズ・アカデミー』は視覚と心理的及び光学的投影をめぐる映画である。

今月は他に、『この世界の片隅に』『バンコクナイツ』『灼熱』などが面白かった。また未公開だが、堀禎一の『夏の娘たち~ひめごと』も良かった。(いとう・ようじ氏=中央大学教授・フランス文学専攻)
2016年12月2日 新聞掲載(第3167号)
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