「ポスト構造主義」以降の現代思想 カンタン・メイヤスー『有限性の後で』が切り開いた思弁的実在論をめぐって|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 特集
2016年7月8日

「ポスト構造主義」以降の現代思想
カンタン・メイヤスー『有限性の後で』が切り開いた思弁的実在論をめぐって

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今年一月、フランスの哲学者カンタン・メイヤスーの『有限性の後で』(人文書院)が翻訳出版された。同書は、原書が二〇〇六年に刊行されて以来、英語圏の哲学者を中心にして、大きな反響を呼んで来た。新潟大学准教授・宮﨑裕助氏は、『有限性の後で』に対して、次のように評した。「『二一世紀の現代思想』の幕開けを告げる一撃なのであり、次世代哲学者たちにとってのプラットフォームのような役割を担う」(本紙三月十一日号掲載)。刊行から間もなく、人文・哲学書としては異例のスピードで重版も決まった。「フーコー、ドゥルーズ、デリダ」以後の世代の哲学者が著した一冊の書物を、どのように受け止め、応用していけばいいのか。翻訳者である千葉雅也・大橋完太郎・星野太の三氏に鼎談をしてもらった。 (編集部)


思弁的実在論(SR)

星野
 『有限性の後で』をひとつの端緒とする「思弁的実在論Speculative Realism」(以下SRと略)の動向に関しては、千葉さんのお仕事を中心に、二〇一二年頃から日本でも紹介や導入がなされてきました。今回、ようやくメイヤスーの本の翻訳が出たわけですが、英語圏では既にSRの流行現象が一段落した状況にあります。そうした流行としてのSRから切り離して、この本をどう読んでいくか。それが日本における受容のひとつのポイントになるかと思います。刊行から半年経ち、いくつもの書評で取り上げられましたし、『ゲンロン』2号では、東浩紀さんと千葉さんの対談が収録されていて、ここでもメイヤスーの議論が一通り解説されている。ですから今日は、本自体の紹介に終始するというよりは、改めてどういうところに哲学的介入のポイントを探っていくかという話をしたいと思います。
千葉
 最初に少しだけ、SRの紹介者のひとりとして断っておくと、SRというものが「新しくて良いもの」だから、日本にも導入したいという話ではない。そうではなく、フーコー、ドゥルーズ、デリダといったフランスのポスト構造主義の後で、大陸系の現代思想をフォローし続ける活動の一環としてSRを紹介しようと思ったわけですね。日本では、ある時期からそうした紹介活動が停滞していたので、まずは情報を豊富にしていきたかった。メイヤスーに関しては、先に論文が翻訳されましたが、主著である『有限性の後で』の翻訳がとにかく課題だった。これから本格的にいろんな解釈が出て来ることを期待しています。特に若手の院生には、分析哲学と大陸哲学を横断する広い目で状況を見ている人もいるから、どんな反応が出て来るかひじょうに楽しみです。

もうひとつ。星野さんは「SRの流行からは切り離して」という話をされました。僕には、「ポスト構造主義以後」の現代思想、いわば「ポスト・ポスト構造主義」をどう捉えるか、という問題意識があります。「ポスト・ポスト」なんて言うとそれだけで嫌がる人もいるかもしれませんが、デリダも亡くなり、一時期までの現代思想に区切りをつけるタイミングなのは確かだと思うんですよ。振り返ってみて、ポスト構造主義が提起した様々な問題とは何だったのか。差異や他者の問題にせよ、倫理と存在の関係にせよ、改めて整理しなければならない。その時にメイヤスーらSRの議論は、ひとつの指針になるんじゃないか。かつ、分析哲学的な視角も必要です。そういう状況認識を持っています。
星野
 今の話に付け加えたいのは、この本のスタイルのことです。東浩紀さんが前述の『ゲンロン』の対談の中で、「論証的なスタイルで書かれて」おり「とても明晰」な本だと述べられています。ポスト構造主義にしばしば見られる、問いを投げ出すような語り方ではなく、本書はひとつの「証明」に捧げられている。しかし一方で、細部を見ていくと結構飛躍があるし、構成に関しても、システマティックな章立てにはなっていません。「第何章何節」といった書き方ではなく、「*(アスタリスク)」を挟んで突然議論が飛んでいたり、イタリックによる過剰なまでの強調がなされていることも見過ごせません。そうした文体論のレベルで考えてみても、メイヤスーの本はすごく面白い。千葉さんも言及された通り、分析哲学と大陸哲学のミクスチュアの形を示しているように思います。
千葉
 ええ、新しいタイプの明晰さを持ちつつ、依然としてフランス現代思想っぽいところもあるんですね。造語によって新概念をバシッと打ち出すとか。現代的なフラットさにバージョンアップされてはいるけれど。こういう書き方は、新しいモデルになるかもしれませんね。
星野
 文体としては、確かにポスト構造主義のアップデートというか、ポスト・ポスト構造主義的なものになっていますね。
大橋
 フランス現代思想っぽい文体を持ちながらも、問題観点としてはクリアでフラットな英米的哲学のあり様をしている。おふたりのおっしゃる通りですね。だからこそSRがひとつの流行になった。であるにも関わらず、単に流行にとどまらない哲学的強度をもった本でもある。メイヤスーの問題は非常にオーソドックスな哲学史的な考察のもとで展開されているので、SRの流れを本格化する意味では、強度のある問題と伝統的な問題への意識をあわせ持っていることは、非常に大事だと思います。
千葉
 デカルト論であり、カント論ですからね。
大橋
 哲学史のコアな研究者も対応すべき中身を持っていますから、哲学史側からのリアクションがもっとあってもいいし、多方面からの対応が期待される本だと思っています。
千葉
 哲学史を遡って、デカルトやカントを再読する。その手つきがすごくうまいんですよね。僕としては、彼のプロジェクトは実は、現代の文脈から発想されてるんじゃないかと思うんです。たとえばポストモダンの相対主義をどう乗り越えるのか、そのためにある種の実在論をいかに立てていくか。仮想敵としては、構築主義+相対主義みたいなものがあったり、それと結びついたデリダ的なものがあったり……そう、結局は「不可能なもの」をめぐるような議論と対決している。そこで、デカルトやカントに遡って議論を立てようということになる。現代的な問題に対するアップデートを試みる時、いきなり現代の話をするのではなく、あくまでもカント論やデカルト論を通じてやっていく。だから本格的な哲学書という仕立てになる。そういう戦略をうまくやっている気がします。現代から発して現代的な問題を考えているんだけれど、それを古典的な体裁で仕上げる能力を持っている人なんじゃないか、と。そのことを学ぶべきだろうなと勝手に思っています。

デリダへの逆張り

大橋
 複数の不可能性といった概念についても、文体的には、デリダのように語ることを潔しとしていない。概念の提示の仕方にもコントラストがつけられています。また、明確な仮想敵は、カルスタ化した哲学であるというようなことも言っている。
千葉
 ものの見方はいろいろであるという相対主義に対抗して、存在自体がいわばポストモダン化し、コロコロ変わり得るという、そういう結論に至っているわけでしょ。これはポストモダンの一種の徹底だとも言える。存在論的にそれをやっている。これはひとつの手だと思いました。
星野
 なるほど。僕はメイヤスーが現代的な問題から出発しているとはあまり考えていなかったので、今の千葉さんのお話を聞いてハッとしました。
千葉
 メイヤスーはデリダへの逆張りで仕事を設計している人だと、僕は考えているんです。そのために、わざとデカルトやカントからやっているふりをしているんじゃないか。だとすると、勉強になりますね。今後の僕の仕事も、そのように設計しようかなと思ったぐらいです(笑)。
星野
 やはり近代哲学がひとつの核になっていますよね。出だしの一次性質と二次性質の議論が僕は好きで、メイヤスーは次のように始める。「一次性質と二次性質についての理論は、もはや取り返しがつかないほど効力を失ってしまった過去の哲学に属しているように思われる」。これから何が始まるんだろうと期待してしまう。
千葉
 うまいなと思いますね。そう書くと本格っぽく見える。
星野
 そこからロックも含めて、デカルト、ライプニッツ、カント、ヒュームと、いわば近代哲学を辿っていく。そして、まったく違った形でそれを再構築する。でも出発点は現代的な問題である、と。
千葉
 まず現代的な問題を考えた後で、近代哲学の大物の名前をポンポンと箇条書きにして、それに対してどういう立場を取れるかを、パッパッと並べて書いていく。そういう書き方をしたんじゃないかという想定すらできる気がしますね。
大橋
 昨日駒場であったシンポジウム(註=7面左下参照)に参加して思ったことがあって、『有限性の後で』は、『全体性と無限』(レヴィナス)に対する逆張りみたいな本としても読めるのではないでしょうか。
千葉
 それもありますよね。
大橋
 レヴィナス自体も、デカルトの無限や神について述べていて、それはメイヤスーの手つきにも通じるところがある。ただ、結論を見ると、明らかにレヴィナスへの対抗は見える。
千葉
 レヴィナス、デリダとの差別化は大事だと思いますね。つまり永遠に到達できないような、不可能な遠いものとして、究極の他者性を想定するのが、ユダヤ的な方向性だった。そういうものをなしにしちゃおうというのが、メイヤスーの基本的なやり方だから。
大橋
 レヴィナス、デリダに対しては、図式的には、カント的な影響下にあるという読みがしばしばされます。彼らは「メシア性」や「無限の彼方に到来する神」といった、いわばカント的「理念」のような概念を提示してくるのですが、メイヤスーはそれとは全然違う。その点に関して、千葉さんに聞いてみたかったことがあります。デリダ亜流のメシア論がメイヤスーの仮想敵なのは間違いないとして、ドゥルーズとの絡みではどう読めるのでしょうか。
千葉
 昨日のシンポで話したこととも関係しますが、まず整理すると、メイヤスーの場合、不可能なものへの漸近ではない。なぜならば、現在では不可能なことが本当にいつか起こり得るから。世界丸ごとの変化という極端な形で、不可能なものが実際に実現し得る。これがメイヤスーの立場です。それを待とうが待つまいが、突然やって来る。そういう意味ではメシアは本当に来るという話です。ドゥルーズの場合、この世界が別様になる可能性は、絶えず複層的に潜在している。そのことを問題にする。僕の読みでは、メイヤスーの場合、世界の変化可能性は今ここに潜在しているのではない。今ここの状態は、ただ今のここの状態であるだけであり、余地としてのいかなるポテンシャルも持っていない。ある時突然変わる、その変わる時だけポテンシャルが発生するというような、そんなイメージでメイヤスーは考えているんじゃないか。ドゥルーズに比べると、潜在性がない世界だということです。そうすると、メイヤスーはバディウを引き継いでいるという文脈と関係して来るわけでしょうね。 

ドゥルーズとメイヤスー

千葉
 もっとバディウのことを勉強しないと正確には言えませんが、バディウがドゥルーズのバーチャリティを批判しているところと関係があるでしょう。
大橋
 たとえばグレアム・ハーマンは、メイヤスー解釈の中で、バーチャリティを結構重視していますよね。
千葉
 そこは言葉の使い方の問題だと思うんですよ。確かにメイヤスーはバーチャルという言葉を使う。偶然的な変化が起こり得るという意味でのバーチャルなんだけれど、問題はそれがどこにあるかということです。ドゥルーズが言うような意味ではない。バーチャルのあり方が違う。メイヤスーのバーチャルのイメージは、世界が変化したり発生したりする点的な瞬間に凝縮されているんじゃないか。潜在性の場とか平面というのでは語ることができないものじゃないかと思いますね。
大橋
 そういう意味では、メイヤスーのバーチャル概念は時間論につながるわけですね。それはトポロジカルというよりはリニアなバーチャル性だと。
千葉
 そうですね。直線的に進んでいく本来的な変化の時間の中で、切断においてのみバーチャリティが炸裂するというイメージですかね。
星野
 これも昨日話題にしたことですけれども、マーティン・ヘグルンドが批判しているように、メイヤスーは自然法則すらも破壊してしまう「ハイパーカオス」を、大文字の〈時間〉のことだとみなしてるようなふしがある。けれども、それを〈時間〉の問題に還元できるかどうかは、やや微妙なところだと思います。
千葉
 メイヤスーにとっては、リニアでシリアルな秩序が問題になっていることは確かだと思います。ただ、それを性急に時間と呼んでいいのか。あるいはメイヤスーが時間と呼んだことが正しいのかどうか。特に大文字の時間というか、直列の順序構造に関して、時間という名付けが正しいのか、問いの余地があると思います。
大橋
 枠組みとして、まず主観に属する形式というカント的な時間を排するわけですよね。そうなると、たとえばベルクソンが考える時間・持続の概念に比較的近くなる気もするのですが、それでもメイヤスーからすれば意識という存在も有効な射程は疑わしい。あらゆる枠付けを取っ払った、時間の枠も外れたような時間を、時間と呼べるのかどうかという問題がありますね。
星野
 大文字の〈時間〉に関しては、メイヤスー自身はさほど厳密な議論を展開しているわけではありませんね。「ハイパーカオス」の説明をする時に出してはみたけれど、大文字の〈時間〉をどのように規定していくかは未消化なところがある。
千葉
 そうですね。ただいずれにしても、法則系全体が出現したり消えたりするような順序という問題が出て来ていることは確かだと思います。それが時間概念の根本規定とどう関係するのか。その辺りは気になるところですね。
大橋
 メイヤスーの「原化石」や「祖先以前性」といった概念から見ると、人間の科学的アプローチ自体が、そうした時間概念を一回切り崩すところがあるわけですよね。そこで時間論の枠を壊していくのが、メイヤスーの特徴でもある。
千葉
 そこで私たちの存在自体がまったく消えてしまう、そのような以前と以後という順序。主観性を凌駕している以前と以後をどう考えるか。それこそが祖先以前性の問題です。
大橋
 そうすると意識じゃなくて、順序の問題になる、と。
千葉
 それは極めて非人間的で、非人称的な秩序ですよね。だから、そんなにヘグルンドの問題関心とも違っていない気がします。ヘグルンドも、そういう非情なものとしての順序、非情なものとして進行していく時間、その絶対性を言いたいわけだから。
星野
 ヘグルンドはデリダなどを援用しながら、時間はその前の瞬間を否定することによってしか続かないということを言っているので、やはり非人間的・非人称的な時間の残酷さみたいなことを言おうとしているわけですよね。その意味では、確かに似たような話をしていると思います。
千葉
 近づけて読むことはできますよね。

SRの応用可能性

星野
 もう少し文体の話に拘りたいんですが、議論の仕方を見ていると、この本は概念レベルの発明が多いと思うんですね。今言われた「原化石」であったり「相関主義」であったり、強いキーワードが一方にある。他方で、キャッチーで軽薄な言葉も時折出てきます。「相関主義的ダンス・ステップ」とか、「アクセスする」というマジックワードがあったり、ところどころ語彙の使い方が面白い。そういう遊びを含めて、かなり巧みに書かれたものだと思います。
千葉
 その辺は、むしろ英米系の分析哲学の人たちのノリに似ている。
星野
 相関主義においては、「つねにすでに」という言葉がひとつの「化学式」をなしている、というようなシニカルなひねりを入れて来たり、そこは読んでいて面白かったところですね。
千葉
 シニカルでアイロニカルな身振りをしているところが所々にあって、そういうのを見ていると、つくづく現代的な人だなと思いますね。この本が、たとえ古典哲学をしっかり読み直しているように見えるとしても、それは設計されたものなんじゃないかと思えるのは、全体的にシニカルな印象を受けるからです。最近僕は、フランス現代思想をいくつかの原則で説明できるという話をしているんですが、メイヤスーはそのケースにうまく当てはまる。たとえば新しい他者性の概念をどう出すか。ある仕方で誇張を行なって、極端な結論をわざと出す。それを新規性にする。とか、そうしたパターンを巧みに使って、デリダら先行世代との差別化を図っている。そして、その差別化によってヒュームなりカントなりの読み方を変えて、哲学史的読解においても新規性を出す。非常にバランスのいい作業をやっているのであって、すべてを自覚的にやっているんじゃないかという気がする。
星野
 まだ本も論文もそれほど多くは出ていない状況ですが、「メイヤスー的プログラム」みたいなものは確かにありますね。論文で言えば「減算と縮約」、あれも一種の逆張りの感じがあって、ドゥルーズの逆張りでベルクソンを読むみたいな話です。千葉さんがおっしゃったように、逆張りと誇張化が、メイヤスーの戦略として見えてくる。
千葉
 そういう戦略が透けて見えるから、メイヤスーは嫌いだという話を、仏文関係者から聞くことがあります。ポジショントークをしている感じがあると。だけど、さらに一周回って、だからいいという意見もある。僕は「だからいい」という方に賭けたい。こういうシニカルな人は好きです。
星野
 秀才のやれる仕事という感じもあって、そこはちょっと希望がありますよね。
千葉
 非常にクレバーであって、考えようによってはできるんだという希望を与えてくれる。
星野
 やはりレヴィナスやデリダになるのは、大変そうだから(笑)。
千葉
 身体的にいろんなものを引きずっていないと、彼らのようにはできない。
大橋
 六〇年代以降に生きる、歴史を引きずらない軽い身体だけれど、知性でもって、ここまで到達できる。そう感じさせてくれる本ではある。
星野
 実際にはメイヤスーにも(序文でバディウが言うような)「実存的な傷」があるのかもしれないけれど、そこはあまり前面には押し出されてはいませんね。
大橋
 文体・スタイルに関して付け加えると、この本は学術論文と哲学書のあいだの、ぎりぎりのところをついていますよね。内容的に学術性は高い。けれども体裁として学術論文かと言えば微妙なものがある。普通の哲学的な読み物として読んでも、かなり強度が強い。その辺りの全体のデザインの仕方も、相当計算されている気がします。哲学に少し関心がある人なら、頑張って読めばわかる。学者ならば、より一層深めることのできるポイントも埋め込まれている。こうした点は、ポストモダンのフランスの著述家たちのよき伝統を受け継いでいると思います。
千葉
 フランス語の原書からしても、一般の人に読ませようとしていますね。
大橋
 話が飛びますが、今日是非うかがいたいと思ったのは、メイヤスーの応用可能性についてなんです。たとえば僕が今教えている芸術学という領域において、彼の考えをどう応用できるのか。メイヤスーの議論が、現代の芸術家たちにインスピレーションを与えているという話はわかるんです。実際そういう作品があったというレビューも聞きました。でも芸術学とか、星野さんだったら美学といった領域に、どう転用できるのか。たとえば同じくSR周辺の人では、グレアム・ハーマンは、美学・芸術学的に応用がしやすいわけですよね。
千葉
 オブジェクト(モノ)の話をしていますからね。
大橋
 ハーマンはデザイン論としても割合応用がしやすい。メイヤスーに関してはどうでしょうか。
星野
 僕はまず、基本的なスタンスとして、芸術に関してこの種の哲学的な議論が応用されるのはあまり好きではないんです。
千葉
 それは僕もそうですね。
星野
 だから、メイヤスーの著作から「原化石」のようなキーワードを取り出して応用しようというアーティストがいたとしたら、噴飯ものであるというスタンスを取りたい。それを前提に、どう応用できるのかという話をします。確かに今やハーマンの方が、建築系・美術系からの人気は圧倒的に高いと思います。ハーマンはどちらかというと軽薄な人だから、誰でもわかるシンプルな図式を出す。その反面、メイヤスーは哲学的にかなり周到な人であって、これを他の領域に本気で応用しようと思ったら結構難しいんじゃないか。
大橋
 そうすると、この本は、カントで言うところの「第一批判」みたいなものとして置いておくべきだっていうことなのかな。つまり「第三批判」のような展開を、今後期待して待つと。
星野
 カントが超越論的観念論という形で提出した世界観のように、『有限性の後で』の世界観をまずはひとつのOSとして丸ごと引き受けるとする。そこからインスパイアされる形であれば、いろいろとやりようはあると思うんですね。逆に危険なのが、「祖先以前性」や「原化石」といったキーワードを安易に使ってしまうことです。そういう応用がなされていくのであれば、きちんと批判すべきだと思いますね。
千葉
 数学的存在が第一次的だという議論から、数理的なものの非人間性を強調するタイプの作品に向かってみたり、「デジタル化された世界」というビジョンを打ち出したりとか。安易だと思いますね。ただ、そうした試みがすべて悪いと言ってしまうのも問題ではある。そもそも現代アートでは、数理的なものに対する我々の疎外みたいなことが常にテーマとされますし。
大橋
 インスピレーションの源にはなるけれども、短絡的な作品化は許さない強度があるということですね。

「第一批判」として

星野
 昨日のシンポジウムで、物理学者の野村泰紀さんがマルチバース論の話をしていましたが、メイヤスーは最先端の物理学的世界観とそう遠くない議論をしている。そこを噛ませて考える必要があると思うんですね。単に思弁的に勝手に議論を組み立てているのではなく、最先端の物理学とも共鳴するところがあって、そういうものも含めて引き受けつつ、現代のアートに繋げていく。そんなアティチュードであれば、それなりに面白い展開が期待できるかもしれない。
千葉
 思い出したんですが、以前、浅田彰さんだったかな、誰かと話していた時に、メイヤスーの議論は、まさに現代物理の宇宙論で提示しているビジョンと重なるだろうという話になりました。ただ、そうなると結局は科学に回収されてしまって、哲学の固有性は何なのかという問題になる、と。先端的な自然科学がもしそのまま哲学的だということになるならば、哲学的思弁の独自の領域って、一体どこにあるのか。
星野
 少し話が飛ぶかもしれませんが、たとえばウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』は哲学と自然科学の違いをはっきり言っているんですね。哲学は自然科学ではなく、自然科学の議論可能な領域を限界づけるものであると。しかし同時に思うのは、ウィトゲンシュタインの時代であればその言葉にまだリアリティがあったけれど、これだけ専門化した現代の物理学に対して、同じことが言えるのかどうか、ということを昨日のシンポでは考えていました。
大橋
 「ウィトゲンシュタイン―ハイデガー」のラインも、メイヤスーは仮想敵としていますね。「語りえぬものについては沈黙しなければいけない」というウィトゲンシュタインの言葉に対しても、そんなのは嘘であるみたいなことを言っていた気がします。
千葉
 それは否定神学的なものになりますからね。
大橋
 そうなると、最も強力な学問領域が数学や物理学であると仮定して、逆に、それほど強力ではない人文学とか芸術学という学問領域に何ができるのか。その問題にも繋がって来ると思うんですね。星野さんが文体論の話に拘るのも、そこに関係するんじゃないか。つまりメイヤスー自身はエクリチュールで勝負しているわけでしょう。変な数式を使ったりしないで、哲学者が文章を書くということに信を置いている。
星野
 そうですね。
千葉
 そのことを考えるためには、彼のマラルメ論にも立ち入る必要があるのかもしれない。あの本の評価は僕もまだ定まっていないので、安易なことは言えないんですが。『有限性の後で』がカントで言う「第一批判」ならば、倫理的な問題と美学的な問題という「第二」「第三」が想定できる。
星野
 そういう意味では、マラルメ論は第三批判的な性格があるんじゃないですか。
千葉
 それの序論みたいなものなんじゃないかと思う。
大橋
 カントの場合、隠れた第四批判として宗教論があったという逸話がありますが、メイヤスーも最終的には、四つのテーマを想定しているんですかね。
千葉
 メイヤスーは全部アウトラインができているのかもしれない。
星野
 仮にマラルメ論が第三批判だとして、メイヤスーの博士論文「神の不在」は、ある種の倫理の問題を扱っていて、第二批判ですよね。なおかつ大橋さんが言ったように第四批判に相当する宗教問題も入ってくるから、カント的なトリアーデが既に出揃っているとも考えられる。
大橋
 今はそれを磨き上げている最中の可能性がある、と。
千葉
 カントにおける第三批判は、蝶番的なものとして機能するという読みがありますよね。そうするとメイヤスーにおいては、最も期待されている「神の不在」よりも、美学プロジェクトが今後どう展開されるかが、真の問題になるということなのかな。
大橋
 第三批判が第一批判を食い破るというのがカントの図式だとしたら、その辺りについては、メイヤスーはどうなっているのか。とても興味が引かれますね。
千葉
 文化論の観点からメイヤスーを読む時には、美学的なアプローチがありうる。メイヤスーに限らずSRの運動全体が持っている、崇高論的な雰囲気とか、ホラーの問題関心から読んでいく。彼ら自身がそういう読みを誘発している。しかし、もっと本質的に『有限性の後で』と連動する美学プロジェクトについて考える必要があると思うんです。
大橋
 今のところは、単なるSF的な想像力と相性がいいといった話に陥りやすい。しかし、もうちょっと本格的な議論が出て来てもいいと思っています。
星野
 カントとメイヤスーを比較してみると、カントの場合、感性論を第三批判で展開することによって、純粋理性(第一批判)と実践理性(第二批判)の架橋を試みますよね。そういう議論が、そもそもメイヤスーの問題設定から出てくるのか。純粋理性と実践理性を総合するのが判断力であり、第三批判だという図式にはいかない気がしているんです。少なくとも『有限性の後で』を読んでいる限りでは、感性論的なモメントが希薄ですよね。すごくロジカルに議論を作り、自然法則や数学の方向から攻めてくる。さきほどマラルメ論に第三批判的な性格があると言いましたが、メイヤスーが広い意味での芸術を論じるとしても、そもそも彼の議論の枠組みではマラルメのような作品しか扱えなくなってしまうんじゃないか。
千葉
 メイヤスーの場合、感性がないことをめぐる感性論になっているわけですよね。いわば「無感性論/非感性論」であって、もしそれを中心に判断力批判を組み立てたらどうなるか。ここは面白い問題だろうと思うんです。
大橋
 千葉さんが予測めいたことをすでに言っていたと思うんです。あらゆるものが完全に引きこもってしまうような形になると。
千葉
 そうですね。それは僕自身が持っている問題系でもあるけれど。
星野
 たとえばグレアム・ハーマンなどは明確に「ホラー」という言葉を使っていますが、メイヤスー自身はそういう語彙は使いませんよね。でも『有限性の後で』が醸し出している雰囲気は、明らかに一種のホラーです。次の瞬間に、世界の法則がまったくの別物に変化しているかもしれないという、すごく冷ややかな崇高さがある。それは僕らが感性的に何かを見て感じるような普通の意味での崇高ではない。それはもっとヒヤッとした崇高なんじゃないか。

「崇高」について

千葉
 今の話、もう少し展開していただけませんか。「ヒヤッとした崇高」というのは、どういうものなんでしょうか。これまでの崇高論の伝統の中に位置づけられるものですか。
星野
 カント自身が「崇高の分析論」の中で「数学的崇高」の例を出していますよね。カントはその例としてピラミッドを挙げている。我々が感性的に把握しうる、ピラミッドのような具体的な対象を通じて喚起されるものが、数学的な崇高である。確認までにそのメカニズムを話しておくと、我々がものを見る時には、把捉と総括というふたつの働きを通して見ていくわけです。ピラミッドの場合も、まずはその部分部分を見ていくわけですが、どこかで個別的な要素の把捉が限界に達して、全体を総括できなくなる。このようなものが数学的崇高だとカントは言う。ただし、そのような数学的崇高の契機となるのはやはり感性であって、それはあくまでも視覚を通じて看取されるものであるわけです。しかしメイヤスーの立論が醸し出している恐怖(ホラー)は、カントのように感覚を通じて入って来る崇高ではない。それは論理的なものが喚起する、自然法則の突然の崩壊のようなものであり、思弁的な形で到来する崇高を考えているのではないか。
千葉
 数学的崇高の場合、人間の把握のフレームの有限性と関連していると整理していいのかな。そうすると、ある有限性のフレームからはみ出してしまうような物量で、感性的所与が入ってきた時に崇高が生じる。まさに有限性と、有限性と相関的にある不可能なもの、というペアによって生じる崇高であって、それはメイヤスーが乗り越えようとした構造ですね。
大橋
 昨日のシンポでの議論と関連させて言うと、四十数億年後に、銀河系がアンドロメダに飲み込まれるという話がありましたよね。ロジックとして、四十数億年後に世界が確実に滅びることを怖いと思うかどうか。それが数学的崇高と関わる話なのかなと思ったんですね。
千葉
 その話のポイントは、我々は、そんな膨大な時間が経つ前に死んじゃうということですよね。一切関係がないことであって、しかし関係ないことなんだけれど、すごいことではある。
星野
 その話は、大橋さんが言っていた、強い学問と大して強くない学問という話に繋げられるんじゃないか。つまり物理学が言う、四十数億年後に銀河系が飲み込まれる話って、僕らには関係ないからそれほど怖くないわけですよね。「へえ、そうなんですか」で終わってしまう。でもメイヤスーはそういう話を扱いつつ、それをホラー的に語る。人間とは無関係な世界が存在していることを、ナラティブな方法で提示する。その意味では、弱い学問としての哲学がもたらしている効果はあると思いますね。
大橋
 関係ないものを関係づける力を、ナラティブは持っているということですね。
星野
 数十億年後の宇宙の話は、僕らと関係がない。それはカント的な、我々に関係があるものとしての崇高さとは違う、無関係な崇高である。しかしさらにそれを真剣に、我々に関係があるかのようなものとして語っていく。
千葉
 そこに生じる面白さがあるんですよね。
星野
 ある意味で、ホラーの発生を哲学的に演出しているかのような手触りがありますね。
大橋
 数十億年後に来ることを、そうではないかのように語る。ナラティブの力によって、関係性の遠さは保ったままで、手元に引き寄せて来るような感じがある。
千葉
 整理をすると、まず無関係性という問題がある。無関係なものに対して、ナラティブによる関係づけがあり、それによってカント的な意味での崇高さが生じる。
星野
 この話は面白いですね。一方で、メイヤスーがやっていることは相関主義の批判ですから、関係性に対して無関係性を打ち出しているところにその新規性がある。けれども他方で、その関係のなさを我々に関係づけていく。メイヤスーのナラティブの戦略性を考えるうえでは、案外ここが本質的なポイントのような気がしてきました。

素朴な問題設定

千葉
 話を戻すと、そうしたメイヤスーの議論をアートに応用するのは、悪い帰結を生む気はしますね。でも実際には、安易に応用されそうだと、批評的先読みはできる。
大橋
 あらかじめ牽制球を投げておく(笑)。
千葉
 メイヤスーとグレアム・ハーマンとの関係について、もう少し踏み込んで話しておきましょうか。
大橋
 かなり昔に読んだので正確なことは言えないんですが、ハーマンもメイヤスーも「シニカルだけれどポジティブ」だと言われる。でも両者のポジティブの位相はかなり違うと思うんです。世界の表面性に開き直るのか、無限の底に対して開き直るのか、という違いとでも言いましょうか。
星野
 ハーマンの哲学は、メイヤスー以上に現代的な感性に触れているところがありますよね。単にオブジェクト(モノ)が無関係なまま触れ合っているだけであり、我々自身もオブジェクトに過ぎないというシニカルな世界観を提示している。そこが受けているのは、わかる気がします。
千葉
 主体性がなくなるということが、メイヤスーにおいてもハーマンにおいてもポイントですよね。
星野
 確固たる主体性がないという話は、ポスト構造主義にとっても馴染みのあるテーゼでした。主体性はつねにすでに他者によって構築されているというアルチュセール的な話が、ポスト構造主義のひとつのシェーマだった。ただ、メイヤスーもハーマンも、そういう人間関係論的な主体性の構築とは全然違う形で、主体性の抹消をやろうとしている。
千葉
 メイヤスーの場合では、他者との関係で主体が構成されるのではなく、主体が完全にゼロであり、他者しかいないわけですよね。ハーマンのオブジェクト指向存在論でも、全部が他者であり、どこにも自己がいない。逆に言えば、全部自己なのかもしれないけれど、自他の関係における構築というモメントがない。
星野
 ハーマンを中心とするSRに関しては、ブルーノ・ラトゥールのアクター・ネットワーク・セオリーとの親和性がよく言われますよね。この理論では、いちおう主体性らしきものはあって、それがエージェントとして行為するというモメントが積極的に引き受けられている。
千葉
 多方向的に行為するわけですよね。
星野
 そういう理論ともハーマンは決定的に違う。主体のエージェントとしての特権性を認めないという立ち位置ですから。
千葉
 アクター・ネットワーク・セオリーでは、世の中を考える変数を増やして、すべてをフラットに考えましょうということですよね。すごい常識的な世界観であって、要は世の中をよく見ましょうと言っているだけのことです。単に人間だけを考えるのではなくて、周りに何が置かれているかとか、すべて考えていく。だから徹底的な写生になるわけです。しかし、SRで面白いのは、誇張法によって、徹底的に活動性がない世界を描き出そうとしているところですよ。だから、世の中がどうなっているかをよく分析して、よりよい人間関係を作ることに役立てようとか考えるのであれば、アクター・ネットワーク・セオリーでいいわけです。ハーマンのオブジェクト指向存在論には、もっと違うところに面白みがある。すべてがすべてに対して疎外されている状態について言っているわけです。そこに何か社会的な意味があるのかと問われれば、第一には「ない」という答えでいい。
星野
 そういう意味では、ハーマンも誤解されていますよね。つまり彼の議論を建築やアートに応用しようというのは、ポジティブな側面を読むから、そうなってしまう。でもハーマン自身が言っているのは、引きこもり的なオブジェクトが単に並置されているだけだという話であって、アート系におけるSRの受容は、かなり誤解された上でなされているような気もします。
大橋
 引きこもっている奴を引っ張り出して、社会活動させるみたいなイメージになりますね。
千葉
 ハーマン的なプログラムをそのまま建築とかに実装しようとすれば、かなり大変なものができるんじゃないだろうか。まだそれはやられていないし、その余地はあると思うけれど、まともな建築になるのかは微妙ですね。単純に住み得るものになるとは思えませんから。
星野
 ハーマンのオブジェクト指向存在論は、単純だからこそ誤解されやすくて、別の分野にも利用されてしまっているところがあると思いますね。
大橋
 ただ、単純なことだけれど、それを公に言うことは大事だと思うんです。
千葉
 一個一個のオブジェクトすべてが、徹底的に引きこもる。ハイデガー的に翻訳すれば「退隠」するというのがその主張ですが、そこまで単純にはっきり言った人っていなかったのかな。あまりにも素朴すぎて、誰も言わなかったのか。単純なことを言っちゃったことによって、大ごとになったという意味では、メイヤスーもそうですよね。この世界が存在する根本的な理由は何もないとか、小中学生だって思いつきそうな話でしょ。そういうことを考えた哲学者もちょこちょこいるだろうにせよ、こんなに整理された形では書かれていなかった。
星野
 今の話で言えば、「退隠」をキーワードとして出した人はいたけれど、やはりそこでは主体性が完全には消えていなかったと思うんですね。引きこもるというのは、結局のところ主体的な行為です。だけどハーマンの場合、オブジェクトはつねにすでに引きこもっている。それは主体性なしの引きこもりです。退隠(引きこもり)もやはりポスト構造主義のキーワードのひとつですが、そこでは決定的に主体性が残っている。ハーマンの議論が過去のものと決定的に違うのはそこだと思います。
大橋
 理論物理学者の野村さんは、こんなことを言っていました。小学生が持つ疑問をどこまで徹底化できるか、そこに学問の賭けどころがあると。そういう意味では、メイヤスーの本は、本格的な学問の要素を十分含んでいるんですよね。つまり「世界って終わるの?」みたいな問いに、哲学史の知識を動員して答えているようなところがある。
星野
 昨日、野村さんも「素朴」というキーワードを使っていましたが、その話にも繋がりますよね。素朴実在論というのは、カント以来たえず攻撃されてきたわけです。でも考えてみると、「……は素朴である」というのは、本当に批判になっているのか。そういう問題が一方にある。野村さんは、科学者は素朴にやっていくしかないんだと、この言葉をポジティブに捉えていらっしゃいました。これはメイヤスーがやっていることにも繋がるんじゃないか。素朴実在論とは違うけれど、メイヤスーは素朴に人類以前の世界を考えてみたわけですから。
千葉
 哲学史上、素朴さを極端化することによって、洗練した理論が取り出されるというのは、ひとつのテクニックとして脈々とありますよね。実は何の深い構造もなく、そこにものがあって、それで行為するみたいなことを考えるのが、一番ラディカルである、などなど。ハーマンの考えているオブジェクト指向存在論にしても、ペットボトルとかタバコとか、まずは日常的なものの話であって、そういう素朴なことをどうラディカライズして考えていくかという話です。
大橋
 その意味では、ちゃぶ台を引っくり返したような本だなと、読むたびに思います。常識をひっくり返すには、強い素朴な疑問が必要なんでしょうね。
千葉
 またそこが分析哲学と繋がる部分であって、非常に素朴なことを正当化するために、すごく複雑で面白い議論が展開されるっていうのは、分析哲学にもよくあることですよね。メイヤスーはそれと似ているところがある。
星野
 メイヤスーの素朴な問題設定が、分析哲学の系譜にあるというのは確かにそうですね。
大橋
 メイヤスーに関して、「人類史という「詭弁」」という論文を、今年の『現代思想』五月号に書きました。そこでは、『有限性の後で』は、起源について迂闊に語ることを禁じた書物であると書きました。起源について語る時、そこに科学が安易に結び付くと、優生学や科学的人種主義が生み出されるという歴史がありました。短絡的に起源を語ることは、非常にやっかいなものを生み出しかねない。フーコーやレヴィ=ストロースは、そうしたあり方に敏感に反応し、反対していた。そうした流れの中でメイヤスーを読み返すと、祖先以前性や原化石の議論も、迂闊に起源を語ることの危うさを、ソーシャルなレベルで訴えている気がするんです。
千葉
 特定の起源を必然化することが持つ危険ということですよね。イデオロギー批判です。つまりメイヤスーの場合、人類の起源は単なる偶然なので、以後の社会のあり方を必然的なものとして正当化することはできない。この点は、反ナチ的な文脈があるのかもしれませんね。
大橋
 そうだと思います。反根源主義みたいなものが、メイヤスーにはあるんじゃないか。

SRの「四天王」

星野
 その点をポスト構造主義と比べてみると、ポスト構造主義では、起源は事後的に仮構されるものだから、そこに決定的な意味はないと考えるわけですよね。そういう形で起源の特権性を批判する。それに対してメイヤスーは、起源はあるけれど、それは無意味であると考える。だからポスト構造主義とは別の戦略で、起源問題を批判しているところがありますね。
大橋
 メイヤスーは、相関主義を批判する時に、その特徴として、過去は常に現在から振り返るものであり、後方投射というよくない癖を持っていると言っています。後方投射という言葉はカントも使っていますが、こうした視点の持ち方が起源を完全に中性化するような指向性をもちにくいということは、言っておきたいと思います。
千葉
 最後に、SRのオリジナルメンバーの残りのふたりについても、少しだけ触れておきましょうか。レイ・ブラシエとイアン・ハミルトン・グラント。
星野
 グラントは『シェリング以後の自然哲学』でジョン・トーランドの話などもしているから、ぜひこれは大橋さんに今後論じていただきたいところです。
千葉
 メイヤスーに最も近いのはブラシエですね。
星野
 ブラシエは、ニヒリズムの徹底化を図っていますよね。ニーチェに倣って、さらにニヒリズムを徹底化させる。最近のインタビューのタイトルも「私はニヒリストである、なぜなら私はまだ真理を信じているからだ」というものでした。つまり真理を信じている人間が、ニヒリストの最たるものであるという逆説です。これも逆張りか誇張の一種だと思いますが、そういうところは面白いポイントだと思いますね。
大橋
 今の時代に、真理への信頼を語ることがニヒルになるということを自覚している。
星野
 ニヒリズムの問題系は、哲学史の中ではしばらく脇に置かれていましたよね。ブラシエの本を読んで、自分もあらためてニヒリズムについて考えてみたいと思わされました。
千葉
 僕の『動きすぎてはいけない』も、ある種のニヒリズムの徹底の問題について論じた本だと、江川隆男さんに言われたことがあります。
星野
 SR全体に、ニヒリズムというキーワードを当てはめてもいいかもしれないですね。
千葉
 それはそうだと思う。SRはニヒリスティックです。ジェーン・ベネットなどのニューマテリアリズムはニヒリズムじゃない。そこがはっきり違う。ニューマテリアリズムはフェミニズムやクイアと結び付いていて、インクルーシブな社会論の方向性を持っている。
大橋
 メイヤスーやハーマンもそうだけれど、SRにはニヒリズムとかシニシズムというイメージがいつも付いて回りますね。
千葉
 そのことは男性ジェンダーの問題と結び付いてしまうんじゃないかなと僕は思うんですよ。SR周辺の人材のボーイズクラブ的な雰囲気についても言われているようだし。
大橋
 ホラー好きの中学生男子サークルみたいな目で見られているわけですね(笑)。
千葉
 そうそう。結局関係性よりも、疎外とか無関係というものに向かうのは、すごい男っぽい価値観なんじゃないか、と。
星野
 それは本人たちの問題に加えて、受容する側の視線の問題もあると思うんですよ。過去の例で言えば、シェリング、ヘルダーリン、ヘーゲルが同じテュービンゲンで哲学を学んでいたというエピソードにも通じる。そういうBL的な視線は、むしろ受容する側の問題であるような気もしますね。さきほどの話で言えば、SRのオリジネーター四人を特権化して「四天王」みたいに括る意味は実質的にはほとんどないわけですが、そうすることによって、思想的な「萌え」が発生するという。
千葉
 わかる。四天王とか最高だよね(笑)。
大橋
 確かに哲学者や文学者を受容する時に、一括りにして押し出していく傾向は常にありましたよね。バタイユ、ブランショ、ベケットとか。
星野
 かつてフランス現代思想が流行りはじめた時だって、明示的には言われていなかったけれど、「フーコー・ドゥルーズ・デリダ」と、蓮實重彥の本のタイトルにもなった「三人組」がいた。
千葉
 あのパッケージは強烈だった。ところで、そこでの三とか四という数字も、有限性の問題に関わって来ますね。一定の限界内に収めることには、何かを生み出す力がある。
星野
 一昨年『ユリイカ』で「イケメン・スタディーズ」の特集が組まれた時に、千葉さんが話されていたことを思い出しました。イケメンに対する欲望が発生するのは、有限性によって可能になると。
千葉
 たとえば同性愛でも、男だけという条件が与えられることで、欲望がぎゅっと圧縮される。逆に、あらゆるものに向けて欲望が向けられるとしたら、その強度は高まらないと思うんです。有限性があるから、それとの緊張関係で欲望も高まるんだと思いますね。

【註】カンタン・メイヤスー『有限性の後で』出版記念イベント「究極的な理由がないこの世界を言祝ぐ」東京大学駒場キャンパス学際交流ホール、二〇一六年六月一八日(土)。本シンポジウムでは、中島隆博氏(東京大学東洋文化研究所教授)の司会のもと、『有限性の後で』の訳者三名(千葉・大橋・星野)と野村泰紀氏(UCバークレー教授・東京大学Kavli IPMU客員上級科学研究員)による発表・討議が行なわれた。第一部「非理由律と偶然性」では訳者三名がそれぞれ発表を行い、第二部「物理学と哲学の突端」では、野村氏によるマルチヴァース論に関するプレゼンテーションと、フロアを交えたディスカッションが行なわれた。同イベントの報告は近日中にUTCPのウェブサイトに掲載される予定である。

この記事の中でご紹介した本
有限性の後で/人文書院
有限性の後で
著 者:カンタン メイヤスー
出版社:人文書院
以下のオンライン書店でご購入できます
2016年7月8日 新聞掲載(第3147号)
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