あひる / 今村 夏子(書肆侃侃房)弱い側から見た強い視線 長い間待っていた読みたい小説そのものがここに|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
2017年1月20日

弱い側から見た強い視線
長い間待っていた読みたい小説そのものがここに

あひる
出版社:書肆侃侃房
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あひる(今村 夏子)書肆侃侃房
あひる
今村 夏子
書肆侃侃房
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三羽のあひるが牽引していく物語である。いや、本当に三羽でいいのか、一羽ではないのか。
今村夏子は、太宰治賞受賞の翌年に『こちらあみ子』で三島由紀夫賞を受賞、町田康が「人間のすべてを描いて優れた作品」と評した注目すべき作家である。主人公・あみ子のかわいらしさ、ユニークさに惹きこまれながら、普段は見ないように押し込めている心の奥深いところにある私を形作っている私そのもの、そこには静かに涙が湛えられているのだが、それがこみ上げてきそうになる、とてもいとおしい作品だった。

太宰賞、芥川賞ともに強く推した小川洋子は、今村作品の良さを説明しようとすると作品の一番大事なものから遠ざかっていくと述べた。一方で芥川賞候補作「あひる」の選評では島田雅彦が「寓話」という言葉を使った。確かに「わたし」の家で飼われるあひるは、「わたし」の家族が抱え持つ見えない問題をあぶりだす役割を担ってはいる。だが、そうした理に落ちた解釈は、今村夏子が切り開く文学の新しい地平を霞めて見えなくさせる恐れがある。「ただ、読んでほしい」と言いたいところなのだが、危険を冒してあみ子ワールドとはひと味異なる、構造のしっかりした本作の魅力を伝えたい。

それまで山奥でひっそりと飼われていたのりたまと名付けられたあひるは、「わたし」の家で飼われ始めてからは下校時の子どもたちが戯れ、にぎやかな環境に置かれた。子育てをとっくに終えて孫の誕生を待ち続ける老夫婦にとっては、庭先に子どもたちが集まってくることが生きがいとなる。一方でのりたまは徐々に食欲を失い、貰われて一か月もたたないうちに、体調を崩し入院する。元気を回復して戻って来たのりたまを見て、「わたし」はのりたまではないことに気づく。両親も子どもたちも不思議と気づいていないようだ。

再び子どもたちがのりたまと戯れる。依然として両親は子ども寄りであり、自在に遊べるようにあひる小屋を施錠する鍵も一家の管理から離れ、子どもたちの自由となる。再び、のりたまは体調を崩した。今度はあひる不在の家でも、賑やか場所であり続けた。両親は子どもたちを厚遇する。三〇歳を超えた「わたし」が未だ一度も就職経験がなく家に居続けるのも、明るくて太って元気の良かった弟が反抗期を迎えたころに不良となったのも、この両親の過干渉傾向や肝心なことには無頓着であることが関係しているのかもしれない。しかし、それは多くの家庭に潜んでいる人間同士のささやかな行き違いの堆積であり、見慣れた風景だ。

自分にかまけて、人は弱い側から見るまなざしをつい忘れてしまう。そうした不注意がいつの間にか誰かの傷を深くし、致命的な結果を生む。そのことに気づく「わたし」は、人がやり過ごしてしまうことを見逃すことができず、その負荷のために滞ってしまいがちな進路を歩んでいる。

この小説の魅力は、弱い側から見た強い視線にある。「わたし」はじっくりと考えた先に生み出された自分の考えにはゆるぎない自信を持ち、その強度がこの繊細な物語を支えているのだ。強いのに柔らかく寂しく優しい、抑制のきいた文章もいい。前夜に起きた不思議な出来事を「わたし」は、のりたまが子どもの姿に変えて落胆した両親に回復の夢を与えに来てくれたと解釈し、のりたまにお礼を言いに行った早朝に、のりたまの死は明らかになる。そのひっそりとした死を「わたし」は、ただ一人静かに受け止めて、丁寧に半日もの時間をかけて羽を洗って弔う場面は特に秀逸だ。長い間待っていた読みたい小説そのものが、ここにはある。書き下ろし短編「おばあちゃんの家」「森の兄弟」も併録。(
この記事の中でご紹介した本
あひる/書肆侃侃房
あひる
著 者:今村 夏子
出版社:書肆侃侃房
以下のオンライン書店でご購入できます
2017年1月20日 新聞掲載(第3173号)
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