集中連載=吉見俊哉・室井尚『文系学部解体』VS『「文系学部廃止」の衝撃』|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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文系学部解体-大学の未来 第1回
2016年9月9日

集中連載=吉見俊哉・室井尚『文系学部解体』VS『「文系学部廃止」の衝撃』

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七月十一日、神奈川県横浜市の横浜国立大学で、「『文系学部解体』VS『「文系学部廃止」の衝撃』」(東京大学教授・吉見俊哉/横浜国立大学教授・室井尚)が開かれた。連続討議「文系学部解体――大学の未来」(全五回)と題されたシンポジウムの第二回目にあたる(一回目は六月十六日に開催され、その模様は本紙七月十五日号と二二日号に掲載された)。おふたりの討論を採録させてもらい、集中連載する。なお三回目は、十月に行われる予定。 (編集部)


役に立つ/立たない

室井 本日は全五回の討議の二回目となります。ゲストには東京大学の吉見俊哉さんに来ていただきました。吉見さんは今年の二月、『「文系学部廃止」の衝撃』(集英社新書)を刊行されました。五年前の二〇一一年には、『大学とは何か』(岩波新書)という大学論も出されています。
吉見
『大学とは何か』が歴史編・理論編だとするならば、今回の本は現状分析で、ある種の続編みたいな位置づけです。
室井
今日は『「文系学部廃止」の衝撃』について、前著にも絡めて、お話をうかがいたいと思います。最初に少しだけ、このイベントの趣旨を説明しておきます。昨年『文系学部解体』(角川新書)を刊行して、この手の本としては評判になり四刷りまでいきました。ただ、大学問題については、社会がそれほど関心を持っているとは思えない。また大学の中にいる人たちが、自らの考えを外に向けて発信したり議論したりする場も、ほとんどない状態です。だから大学で一緒に働いている仲間の先生方や職員の人たち、それから何よりも、当事者である学生とも問題を共有したかった。そんな思いもあって、学内で連続討議を開こうと思ったわけです。

文系学部が抱える問題については、吉見さんと僕の本が同時期に刊行されたことによって、以前よりも社会的な関心は広がっていると思います。一見するとふたつの本は、対立するような中身を含んでいます。一番大きな違いは、僕は、文系の学問は、いわゆる「役に立つ」ものではないけれど価値がある、これを潰しちゃいけないと主張している。それに対して吉見さんは、文系の学問は「役に立つ」ということを強調されていて、そこから議論をはじめなければいけないとおっしゃっています。これが見かけ上の対立であり、ふたりの主張が、本当に喧嘩をしなきゃいけないような対立であるのかどうか。ここが今日の討議で明らかになると思います。では、文科省による大学政策の現状について、それから来るべき新しい文系のあり方について、吉見さんの本に合わせて議論していくことにします。
吉見
室井さんの教え子、修士課程二年の野口直樹君がWEBで、「30秒でわかる『「文系学部廃止」の衝撃』?」というコラムを書いてくれています。素晴らしい要約で、感動しました。タイトルを最初見た時は、「30秒でわかってたまるか」と思ったんですが(笑)、次の三つの要約を読んで納得しました。〈(1)2015年に話題を呼んだ「文系学部廃止」はマスコミが誇大に解釈した論だが、廃止も検討に入れた文系学部の縮小は以前から「ミッションの再定義」として存在 (2)吉見先生のスタンス↓文系学部は既存の価値を見直すという意味で「役に立つ」 (3)じゃあ文系学部を復活させるためのアイデアは?↓1・文理問わず専門科目2つ履修する「宮本武蔵の二刀流戦略」 2・18歳、30代前半、60歳前の3回大学に入る〉。私が本で書いていることは、大体この三点に尽きるんです。しかし今日の議論のために、野口君がまとめてくれたポイントを、私の言葉で敷衍する形で話していきたいと思います。

室井さんと私の本では、ほぼ認識が同じだなと思う点と、ここはちょっと違うなと思う点と両方ありますので、そこを最初に確認しておきます。まずメディアの報道に対する認識はかなり一致していると思います。室井さんの本から引用します。「メディアの人たちは問題の本質をまったく把握しておらず、表層的な対立構造に単純化して、単に政府の政策に反対して憤っている大学教授の声が欲しいだけだったからである。電話やメールで話した担当者たちは、だれもこの数十年間の大学改革の歴史やここに至る改革についての知識をまったく持っておらず、またそれらに関心すらも持っていなかった」(6―7頁)。こう言って、室井さんは怒っている。この怒りは、私も共有していますし、メディアの評価には認識の違いはあまりないと思います。

二番目。「私以外の総合芸術課程の授業科目は、従来の教員養成課程の美術教育、音楽教育の教員が科目を担当していた。……95年前後、横浜国立大学の教育学部では教員就職率がさらに下がり、全国でもワースト3に入るようになってきていた。一方で、新課程の教養系の人気がどんどん上がっており、これを放置することができないという気運が学内的にも高まった」(37―39頁)。その結果、新しい課程を、横浜国大では作ることになった。要するに、国語や算数、理科といった五科目の教員養成系の外側に置かれていた、芸術系・創造系の課程を逆転させる形で新課程を作っていく。これによって新課程自身が力をつけていったという話もよく理解できます。だからこそ、そちらの方向をもっと伸ばしていけばいいはずだと、私も思います。旧来の教養系学部から派生した新しい領域を伸ばしていくことが、クリエイティビティに繋がります。

三番目。これは今日の本題ではないかもしれませんけれども、次のような感覚も室井さんと私は共有していると思います。引用します。「国家権力が押し付ける『目標』を6年で達成することにのみ各大学を追い込む独立法人化以降の大学政策は、全体主義的以外の何ものでもなく、実際に国立大学はそれ以来すっかり『ソビエト化』されてしまっている」(68頁)。つまりネオリベ的政策で大学を市場化したはずなのに、実際はソビエト化だった。この矛盾について、室井さんは怒っている。市場化・資本主義化がいいとは全然思いませんが、市場化するならちゃんと市場化しろという思いは、私も持っています。市場化したと思ったら、実は大学がどんどんソビエト化・官僚主義体制化されてしまった。ここは非常におかしい。その感覚は共有しています。

では、室井さんと考えが違う点はどこか。ふたつあるのではないか。ひとつは「文理融合」と言われているものの現状と可能性についての評価。ここは少し違うと思います。それから「役に立つ」という言葉の解釈が少し違う。私は現在、東京大学情報学環の教員ですから、その立場から申し上げます。室井さんの本の中で、次のように書かれています。「東京大学の『情報学環』をはじめとして、各地で『文理融合型』の学部や大学院も無数に作られたが、これらもまったくうまく行っていない。全部、文科省やあるいは政界などのテコ入れで作られたものだが、どこもかしこも破綻している」(74―75頁)。当事者として申し上げますが、この情報学環に対する評価は、私は間違っていると思います。これが第一です。「文理融合」とひと口に言っても、失敗したところと成功したところ、あるいは可能性を残しているところと、いろいろあります。それを一括りにして評価することはできないと、私は思っています。

もうひとつ。「役に立つ」という言葉の理解について。室井さんはこう書かれている。「私はここで、『いや、人文科学は役に立つのだ』という話をしたいわけではない。……(文科省は)最初から『どうせ、そんなことを勉強しても現実には役に立たないでしょう』と思っているからであって、それに対して『いや、こんなに役に立ちます』といくら正攻法で行ったところで無駄なのである」(107―108頁)。私は、無駄ではないと思っています。正攻法で「人文科学は役に立つ」と言っていくべきだという立場です。ここが、微妙に考え方が違う。

人文社会系の学問の根本

吉見 以上、室井さんと私のあいだにある、考え方の共通点と違いを整理しました。ここからはもう少し、私が申し上げたいポイントについて、詳しくお話ししていきたいと思います。メディアの報道に関しては、室井さんと私はほぼ同じ認識を持っていると、最初に申し上げました。文系学部廃止・縮小について、去年の夏、いろいろな報道がありました。次第に報道がエスカレートしていったのですが、なぜエスカレートしていったのか。「人文系学部VS国家」あるいは「人文系学部VS産業界」といった構図をマスコミは強調したいがために、文科省が突然とんでもない政策を打ち出したという図式で報道が過激化していったと思います。このメディア報道に乗せられて、経団連まで文科省批判を始める一幕もあった。しかし、問題の通知の話は、去年はじめて出たのではない。まったく同じ内容が、一年前の八月四日にも出ています。あの時は、世の中からなんの反応もなかった。それが去年大騒ぎになったのは、安保関連法案が国会で強行採決され、新国立競技場が問題になり、下村文科大臣の「日の丸・君が代」発言(大学の入学式において、日の丸掲揚と君が代斉唱を求めるもの)もあり、マスコミは文科省批判のネタを手ぐすねをひいて探していた。そういう流れの中で、文系学部に関する通知が再びなされ、マスコミは大喜びで飛びついたわけです。しかし、二〇〇〇年代初頭、国立大学法人化の頃から、同じ話はずっと出ている。この十数年の流れの中で廃止・縮小問題を考えなければ、何も見えないのです。

国立大学法人化後の大学の変化について申し上げておくと、既に数値的にもはっきり出ています。人文系の教員数は、私立大学では七~八パーセント増えている。逆に国立大学では、十パーセント以上減っている。大学再編のなかで文系の中心が国立大学から私立に徐々に移っている。この流れが、数字からも見て取れるのです。

私が本で書いたことを、もう少し話します。十数年にわたって出されて来た大学改革の政策は、主に理系中心に考えられたものだった。特に資金力やイノベーション力、グローバル対応といったテーマで、大学改革が理系を中心に進められて来ました。この二十年近いスパンで見ないと、現在の問題はまったく見えてこない。ここも室井さんと共有している認識だと思います。その上で、私が本の中で一貫して強調しているのは、こういうことです。そもそも国家の政策云々以前に、私たち自身の中に、「理系は役に立つけれど、文系は役に立たない」という通念があるんじゃないか。だから去年、社会が文科省を叩いた時も、「そこまではっきり言うな」という形で叩いた。でも本当は、子どもを持つ父兄自身も、自分の子どもが理系にいくか文系にいくかという選択を迫られたら、理系の方が就職にも有利だし、役に立つんだからと、子どもに向かって言ってしまうのではないか。そういう通念を、我々自身が持っていると、私は考えています。それが一番の問題です。しかも、そういう状況を変えていくための処方箋、あるいは未来のビジョンを、文科省もマスコミも大学自体も示していないのではないか。これが私の問題提起です。

私が一番言いたいのは、「文系は絶対に役に立つ」ということです。本の中で述べたことですが、それが今日ここに来てお話しする最大のポイントです。このことを考える上では、寺脇研さんと広田照幸さん、ふたりの議論が参考になります(『週刊金曜日』二〇一五年八月二一日号)。寺脇さんはこう言っています。「私自身、はっきり断言しますよ。『私が大学で教えている漫画論や映画論なんて、何の役にも立っていません』と。『経済効果』なんていうのも、『関係ありません』って。同じことを、全国の大学の先生が言うべきです」。それに対して広田さんが応えています。「大学が『経済』の道具ではない、というのはまったくその通りですよ。私が言いたいのは、人文・社会系に『経済効果』を求めるのはおかしいが、短期的には別として、長期的には、そうした『効果』はちゃんとあるんだと」。私ははっきり言って、広田さんの立場に近い。長いスパンで見れば、人文社会科学はちゃんと効果があるし、そのことを示すべきである。それは、決して国家や産業のために役に立つという意味ではない。歴史的に見ると、中世の大学で一番役に立つと考えられていたのは神学です。医学よりも法学よりも、何よりも神学が役に立つと考えられていた。神様のために役に立つことが、もっとも大事だと思われていたからです。近代の大学では、国家のために役に立つことが重視されました。ある時期は、それが求められていた。しかし、そのことが、いつの時代でも普遍的に役に立つとは、私は思いません。役に立つということは、人類のためとか、地球社会のためとか、いろいろな意味を持ち得る。そこを人文社会科学は捨てるべきではない、理系だけに任せるべきではないと、私は思っています。

そもそも役に立つとはどういうことなのか。私なりに考えると、ふたつあります。ひとつは、目的遂行的あるいは手段的有用性で、ある目的に対する手段として役に立つことです。これが多くの人が普通に考えている「役に立つ」の意味だと思います。たとえば東京から大阪までもっとも早くいくにはどうするか。地球から月にもっとも安全にいくためにはどうするか。その目的を達成するために役立つ技術が思考錯誤され、新幹線なりロケットなりが開発された。

しかしもうひとつ、目的や価値を創出する、価値創造的な役立ちというものがあります。なぜならば、第一の意味、つまり手段的有用性という意味での役に立つことは、その目的が価値を失ってしまったら、途端に役に立たなくなる。一九六〇年代の日本を考えてみればいい。「より速く、より大量に、より効率的に」ものを生産する。そのことを追求して、日本社会は高度成長を成し遂げた。それが社会にとっての価値だと、多くの人が思っていたわけです。でも二〇一〇年代の今、それが第一の価値だとは、私たちは思っていない。世の中でこれが一番の価値だと信じている目標なんて、三十年、五十年という単位で見ると、必ず変わるものなんです。

それならば、そうした価値をどう変えていけるのか、その変化を先導していけるような学問・知が必要です。そこで人文社会系、文系の学問が不可欠になって来るわけです。なぜならば人文社会系の学問は、十年、二十年、あるいは三十年、五十年という長いスパンで物事を考える学問であり、文化的・社会的に異なる様々な価値観が、お互いに話し合ったり連携したり、合意したりしていくことがいかに可能か、そのことをずっと考えてきた。複数の価値と価値とのあいだにある違いや、ある価値からまた別の価値への変化を、人文社会系の学問はずっと分析して来たのであり、これが人文社会系の学問の根本のひとつだからです。

理系の学問は、どちらかと言うと、目的がはっきりしている短い期間で役に立つことが多いのではないかと、私は思います。しかし短く役に立つ学問だけでは、サステイナブルな社会を作り出すことはできない。長いスパンで役に立つ文系の知は、価値の転換をリードしたり、価値の転換そのものについて考えていく。現在私たちが当たり前だと思っている価値観や目的を疑ってかかり、そうした価値観を相対化し、内側から突き崩していく。そのような知が必要だと、私は思います。新しい価値や新しい社会を作っていくため、長い射程で文系の知は必要なのだと思います。そのことを我々は強調すべきです。実際、こんなことは人文社会科学系の学問にとって当たり前のことで、そもそも十九世紀からそうやって人文社会科学は成立してきたのです。

〈次号につづく〉
2016年9月9日 新聞掲載(第3156号)
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