集中連載2= 吉見俊哉・室井尚『文系学部解体』VS『「文系学部廃止」の衝撃』|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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文系学部解体-大学の未来 第2回
2016年9月16日

集中連載2= 吉見俊哉・室井尚『文系学部解体』VS『「文系学部廃止」の衝撃』

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<前号のつづき>
哲学という知

吉見
話を少し飛ばします。元々は、文系理系の区別なんてなかったんですね。たとえば中世のリベラルアーツは、自由七科といって、文法学・論理学・修辞学・代数学・幾何学・天文学・音楽から成り立っていました。このうち、文法学と論理学と修辞学はやや文系に近いけれども、代数学と幾何学と天文学は、今日で言うと理系です。音楽は芸術系ですね。全部含めてリベラルアーツです。だからリベラルアーツが文系ということは、絶対にない。この概念がやがて哲学の概念になっていきますから、哲学者のライプニッツやデカルトにしろ、数学者でもあった。哲学という知は、文系理系の両方にまたがっていたわけです。「文系」という区分が明確に出てくるのは、産業革命以後のことです。社会の大きな変化の中で、人文社会科学は、自然科学と違うアイデンティティを確立していった。というのは、産業革命以後、自然科学の爆発的な発展があり、理工学系分野のボリュームが非常に大きくなっていく。その時に、人文社会科学のアイデンティティは何かを、いろんな人が考えはじめる。そこで価値の問題が出て来たんですね。典型的なのは、マックス・ウェーバーです。価値というものは、単に目的手段連関の中で出て来るのではない。ウェーバー的に言えば、目的合理的な行為と価値合理的な行為は違う。ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で言っているのは、次のようなことです。元々プロテスタントの人たちは、神への奉仕、つまり価値合理的な行為として禁欲をした。けれども結果的に、資本主義という巨大な目的合理的なシステムを生み出した。それが目的手段連関でどんどん回るようになり、近代社会は価値を空洞化していく傾向を持つようになった。しかし、それでも人文社会科学は、価値とは何かを考えつづけていく。マックス・ウェーバーは十九世紀末に、そうした現代における価値について、とことん考えていたと思います。その後二〇世紀を通じて人文社会科学は、いろんな流れがあったけれども、一貫して文化や価値、言葉、そういう目的と手段の連関だけには留まらない問題を考えつづけて来たのです。このことを今、もう一度思い起こさなければならない。ですから、単に学問内在的に意味があるというだけではなく、新しい価値や目的を創造するために、人文社会科学が不可欠なんだと、私は思っています。

最後に、今後大学はどのような方向に向かっていくべきなのか。この後、室井さんと議論になると思いますが、私なりの考えを二点ほど言っておきます。ポイントはこうです。比喩的に言えば、大学は「甲殻類から脊椎動物に進化すべき」です。カニやエビ、サザエといった甲殻類は、殻で囲まれている。大学の場合も同様で、殻に囲まれている。内側と外側を明確に区別する構造を持っているわけです。入学試験がすごく大変で、大学に入る時の壁がある。学部と学部の壁も厚く、それを越えることが難しい。この殻(壁)を維持しつつづけることは、将来的に不可能だと思いますが、単純に取り除いてしまったら、中身だけの「ナメクジ」になってしまう。塩をかけられたら終わりです。これはあまり良くない。ナメクジウオになろうというのが、私の考えです。ナメクジウオは人類の祖先とも言われるもので、原始的な脊索動物のひとつです。これが進化すると脊椎動物になり、人間になっていく。ナメクジウオがナメクジと何が違うのかと言うと、頭から尾まで「脊索」という背骨のような組織が通っていることです。そのことを大学に当てはめて考えてみると、どうなるか。大学の殻が今後壊れて、いろいろな壁が取り払われた時に、神経を通す必要があります。情報だったりカリキュラムだったり、大学の縦と横に神経系を通していくことによって、組織がぐしゃぐしゃになるのを防いでいく。いずれ壁が壊れた時に、縦の軸と横の軸をどうやって通していくか。これがとても大切な課題です。

その課題を考える時に出て来るのが、ひとつは宮本武蔵の「二刀流」です。もうひとつが、「人生で三回大学に入る」ことですね。基本的には「ダブルメジャー制」あるいは「メジャー・マイナー制」で、ふたつの専門をやる。その組み合わせで大学の学びを考えていく。これが「二刀流」ということです。たとえばコンピュータサイエンスと法学の知的財産法を一緒に学ぶのでもいいし、環境科学と中国の歴史でもいい。あるいは医療系と哲学とか、ふたつを専門に取れる仕組みを、大学の中に入れていくべきだと思います。また今の普通の仕組みでは、高校卒業後大学に入学し、就活があって社会人になる。いわば高校と社会のあいだの、ある種の通過儀礼として大学があるわけです。しかし大学は、そうした通過儀礼的な装置じゃなくて、人生やキャリアの転換期において重要な役割を果たしていく。その仕組みを作っていくことが大切です。つまり三十代前半、会社に就職して十年ぐらい経つと、その現場で、自分にできることが大体わかってくる。そのまま会社に残って、係長から課長、部長になるのか、それとも違う分野に転換するのか。このことを決める時期が、三十代前半だと思います。そこでもう一回大学に入り直す。三回目は定年後、六〇歳前後に再度入学する。今の時代、七五~八〇歳になっても、皆さん元気ですよね。そうすると、定年後十五年、二十年、別の人生が待っている。その時に、この十数年を老後と考えるのではなく、もう一回、本気で何かに向かってみる。もう一つの人生に全力で向かっていく転換期として、大学は機能できるということです。以上で、ひとまず私の話を終わります。 
<次週に続く>

2016年9月16日 新聞掲載(第3157号)
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