追悼 蜷川 幸雄 演劇史の中で蜷川幸雄の仕事を検証する|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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2016年6月17日

追悼 蜷川 幸雄
演劇史の中で蜷川幸雄の仕事を検証する

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日本を代表する演出家・蜷川幸雄が五月十二日に亡くなった。八〇歳だった。二十歳で演劇の世界に入り、「真情あふるる軽薄さ」(清水邦夫作)で演出家デビューして以来、「王女メディア」「近松心中物語」「NINAGAWAマクベス」など、三〇〇作品以上を演出。実に六〇年を舞台とともに生き、駆け抜けた大演劇人・蜷川幸雄について、蜷川、唐の両氏のもとで演劇を学び深い交流のあった新宿梁山泊代表の金守珍(きむ・すじん)氏と元近畿大学教授で自著『[証言]日本のアングラ 演劇革命の旗手たち』(作品社)で蜷川幸雄を取り上げている演劇評論家の西堂行人氏に対談していただいた。

また、金守珍氏は、蜷川氏が演出する予定だった東京・渋谷のシアターコクーン八月公演「ビニールの城」(唐十郎作)の演出を担うことが五月二六日発表された。同公演は、「芸術監督蜷川幸雄・追悼公演」「蜷川幸雄監修」として、八月六~二九日にかけて上演される。 (編集部)

蜷川幸雄は何と闘ってきたのか

僕は蜷川幸雄の第一期生なんです。
西堂
何年頃のことですか? 蜷川スタジオでしょうか?
「蜷川教室」で、蜷川スタジオの前身です。一般の劇団養成所の試験が終わった後の四月頃、「新劇」という雑誌に「蜷川教室第一期生募集」とあったのですかさず応募しました。僕が二二歳か二三歳、大学を卒業してすぐです。
西堂
ということは一九七七年頃ですね。
僕はたまたま商業演劇で蜷川さんの「オイディプス王」(一九七六年)を最初に観たんですが、観てきた方から蜷川さんはすごい人だと聞いて、なけなしの金をはたいて観に行ったら衝撃を受けました。スペクタクルってこういうことだとガツンとやられた。歌舞伎もスペクタクルだし外連味もあるんだけど、蜷川さんのはぶっ飛んでて、こんな日本人がいるんだと。そのときは、蜷川って漢字が読めなかったんですよ、僕(笑)。地下鉄のポスターに演出家の名前がどーんと出ていてすごく印象深かったんですね。西堂さんは蜷川さんの芝居、最初に何を観たんですか? 
西堂
よく覚えていないのですが、たしか帝国劇場で観た「三文オペラ」(一九七七年)だったと思います。
僕は「オイディプス王」だったんです。それで「三文オペラ」や「王女メディア」(一九七八年)とか。その前は観ていない。
西堂
僕はアートシアター新宿文化で、蜷川さんが清水邦夫さんや石橋蓮司さんらとやっていたときは、まだ高校生だったので観ていないんです。映画はアートシアターで観ていて夜九時から上演しているという情報はチラシで知っていたんですけど、夜九時から観る勇気がなかった。それが蜷川さんとの出会い損ねですね。すごく心残りです。
じゃあ、アートシアターの異様な建物は知ってるんですね。僕はそれすら知らなかったです。
西堂
今回、新聞やテレビで盛大に訃報が伝えられましたが、演劇人の死でここまで大々的に報道されたことはかつてなかったですね。それはひとつには「現役」の演出家の死だということが大きいと思うんです。かつて名声を築いて、いつの間にか亡くなったのではなくて、まさに今作業中であった。ベッドの横にはこれから上演予定の台本が三冊乗っていたというエピソードは象徴的です。

それに関連して言えば、葬儀の弔辞のあり方が気になりました。本来、芸術家の葬儀の場合、弔辞でその人の業績や仕事への評価が述べられます。だが結局五人全員が俳優で、彼らなりの蜷川さんへの思いは綴られているんですが、彼の功績は何も語られていない。それが彼の最後のイメージを作っていったと思うんです。“非常に厳しい演出家であった”“罵倒しながら役者たちを育て、その言葉の裏には優しさがあった”という、ある種の人間味溢れる「人間・蜷川幸雄」というイメージです。新聞記事にしても見出しなんかを見ると「世界のニナガワ」と報道されていますが、全体的に弔辞も報道も同じ調子で、正直言うと僕は違和感を感じました。実際に彼が辿ってきた道は、そんな簡単に括られてしまうものだろうか。本当は彼は何と闘ってきたのか、そういうことがほとんど言及されていない。蜷川幸雄がやってきたことは、もっと挑発的で、演劇史に突き刺さるものがあったのではないかと、改めて思ったんです。
唐十郎に出会うまで新劇と千田是也

蜷川さんがメジャーであるとかイギリスで勲章をもらったりとか、それはひとつ、目に見えるかたちでありますが、蜷川さんには清水邦夫との仕事があって、現代人劇場という劇集団との別れがあった。演劇活動と政治運動でこの国を変えたいという思いが密接にあった。その後、商業演劇に行くわけですが、そのとき自分は向こう側に行くつもりはなかったのに現代人劇場の後に結成した櫻社(唐十郎書き下ろし作「盲導犬」上演/一九七三年)も解散してしまった。蜷川さんはそこから相当変わったと思うんです。よくその話は本人からも聞きました。四年前、「下谷万年町物語」(二〇一二年)の楽屋で、四〇年間為せないままだった石橋蓮司たちとの和解があって、その歴史的瞬間に僕は立ち会った。だから蓮司さんたち第七病棟の代表作だった「ビニールの城」(唐十郎作)を今度やるんですよ。蜷川さんにとって「ビニールの城」をやることによって、あの暗い闇から解放されたいという思いをすごく感じるんです。劇団第七病棟のことはものすごく意識してましたし、(この台本を書いた)唐十郎なくしては、今の蜷川さんはあり得ない。
蜷川さんは唐さんの演出助手を買って出たことがあって、唐さんが「君、才能あるから、僕ホン書くよ」と言って書いたのが「盲導犬」。その内容の服従しちゃ駄目だ、不服従の犬だというメッセージは、明らかにその当時の蜷川さんに当てて書いたもので、そこに蜷川さんのひとつの岐路があった。蜷川さんが新劇からアングラに行く過程で模索してたときに、スペクタクルをガツンとやったのは唐十郎です。「二都物語」は不忍池を玄界灘に見立てて役者が向こう岸からテントまで泳いでやってくる。こんな破天荒な演出はかつてなかったわけですよ。蜷川さんも過激なラジカルな精神状態で闘ってきたけど、それが運動の方で行き詰ってきたこともあって、政治の季節の終焉とともに演劇も衰退していって、櫻社も解散してしまった。この頃、実は役者として、彼は食べていこうと思っていた。そこで事件が起きた。かつての劇団員が指名手配を受ける。公安が動いて役者としても駄目なときに、不忍池でガツンとやられた。
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西堂
蜷川さんを語るときに大体、現代人劇場の「真情あふるる軽薄さ」(一九六九年)から語られるのが常なんですけれども、僕が『[証言]日本のアングラ』でインタビューしたことでいうと、その前史が十年くらいある。彼が劇団青俳に入って何を勉強してきたのか、これが実はすごく重要だと思うんです。清水邦夫に出会う前に岡田英次という俳優と出会い、倉橋健という英文学者のもとで勉強してきた。その一方で実は千田是也さんを非常に尊敬していて、千田さんの演出には、いわゆる新劇とは異なった非常にスペクタクルな演出があった。ホンの読み方にしても青俳時代にスタニスラフスキーを通じて徹底的に学んだこととか、基礎があったうえで、清水邦夫に出会い、唐十郎に出会う。ここが導線として重要なんじゃないかな。
千田さんの話もよく出て、アングラの発祥というのは唐さんや鈴木忠志さんたちになってるけど、築地小劇場が(その種のものを)もうやってるらしいですね。
西堂
訃報記事の紹介などでは、そうした歴史がすっぽり落ちている。『[証言]日本のアングラ』の対談で、蜷川さんは思わず「俺は結局、新劇かなあ」と呟いている。アングラ以前に新劇の方に彼の出自があって、例えば翻訳劇の教養だとか演劇論の読み方など、彼の演劇の基盤はすべてそこにあった。ここ二〇年くらい蜷川さんの仕事は膨大に膨れ上がって、シェイクスピアやギリシャ悲劇や、最近だとアヌイやカミュ、ウェスカーだとか、近代の名作にまで手を広げているのは、やはり新劇が翻訳劇を主流にしてやってきたことに対する、彼なりの責任の果たし方じゃないかと思うんです。新劇は今でも続いているけど、彼の中にずっとあったのは、新劇をどうやってきちんと終わらせるか、その上でその先を自分がどう超えていけるか。そういったことにあったんじゃないかな。新劇の演劇史を考えたとき、自分の一番の師匠であり標的は千田是也だった。俳優座が巨大なメインストリームとしてあり、その傍流としてプロレタリア演劇的な流れの中に青俳もあった。蜷川幸雄が青俳を脱退して、清水邦夫と現代人劇場を作り、櫻社を作って活動していくとき、抱えてきたものは日本の戦後演劇史そのものだったんじゃないか。それに対するこだわりがここ二〇年くらいの蜷川演出作品の中にも実は投影されていて、そこを繋げておかないと彼のやってきたことが見えなくなる。
劇団青芸の福田善之さんの影響も大きかったと思うんですけど、蜷川さんは新劇だと僕は思いますよ。千田是也さんと一度お話ししたときに、ペンネームの謂れは「千駄ヶ谷のコリア」だと言われて吃驚した。
西堂
関東大震災のとき、千駄ヶ谷で「お前はコリアか」と問い詰められたのが、彼のペンネームの由来なんです。
虐殺から救われたことからそれを名乗っていると本人から聞きました。
西堂
蜷川さんは二〇〇三年に桐朋学園大学短期大学部の学長になりましたが、そもそも桐朋に演劇専攻を創ったのは千田是也だった。そういう歴史をどこか引きずっている。
そのへんは全然見えてこなかった。
西堂
蜷川さんに千田さんの話を伺っていると、今まで誰も千田さんのことを聞いてこなかったと言っていました。そういう誰にも語らないことがポロッと出てくる。蜷川さんは新劇をきちっと埋葬する必要があった。それは日本の「近代」と対決するということだった。その後に出てきたアンダーグラウンドって、一種アヴァンギャルドの運動じゃないですか。新劇が持っていた教養の上にアンダーグラウンドの実験的なものをどう接ぎ木していくかということが、彼にとっての現代演劇の課題だったんじゃないかな。 
神話化を拒絶し、過去を解体する

西堂
蜷川さんは過去の作品を再演でなく必ず作り変えてますよね。
偏執狂的にこだわって、再演のときは同じことを絶対しなかった。
西堂
彼自身が神話化されていくことに対する拒絶をしていたと思うんです。かつて名作だと言われたものを敢えていまやり直すことによって前のイメージを壊していく。例えば「真情あふるる軽薄さ」だって「95㎏と97㎏のあいだ」(一九八五/二〇〇八年)でやり直していく。あるいは「NINAGAWAマクベス」を大竹しのぶのマクベス夫人でやるとき、あの七〇年代の壮麗な仏壇のマクベスを今の殺風景な時代に置き換えて、鏡だけを使ったシンプルな装置でいくとか。
僕も吃驚しました。一人の演出家が自分を壊す作業で作り変えちゃうんだと。
西堂
「王女メディア」なんかも、ギリシャに最初に持っていったメディアは彼の当たり作だからそのまま保持してもいいものを、彼はそれを完全に解体して、大竹しのぶでメディアをやる。かつて平幹二朗の女形メディアでギリシャの演劇界を震撼させたのを、今度は等身大で生きる闘う女として作り変えていく。しかもそこに三〇年の日本社会の変動が読み込まれている。これは演出家として強靭な精神、批評力だと思います。蜷川幸雄の作品の演出史をきちっと辿っていくと、時代の変化に対してどう彼が挑んだのかが追跡できる気がする。
そこで僕らみたいな蜷川教室とか蜷川スタジオとか、特にベニサン・ピットが(実験する作業場として)すごく大きな役割を果たしたと思うんです。必ず実験しながら壊していく。光栄にも僕らは先陣を切って蜷川さんの壊す作業に協力できたかなと。
語られなかった言葉幻の弔辞

蜷川さんは神経質だからいつも胃薬飲んでるんですよ、よく灰皿だ灰皿だと言われるけど、蜷川さん自身、テンション高まっちゃうと役者と一緒に呼吸してる。役者と一緒にセリフ喋ってるんです。「ハムレット」を演出いただいたときは、とにかく日常の速度じゃ駄目なんですよね。ひと言で言うのか、十行で言うのか、そのためのエネルギーは「遅ーい!遅ーい!遅ーい!息するなー!」と、ものすごい。ある人は、髪の毛を抜けるくらい引っ張っられて「イタタ!痛ーい!」って叫ぶと、それで普通の顔してセリフを言うんだと。内的な筋肉の硬直がありながらも、それを普通に言うときのエネルギーというのを間近で見ながら、確かに灰皿とか言われるけど、蜷川さん自身が「なんで出来ないんだーっ!」ってなったとき、たまたまそばにあったのが灰皿であって何でも良かったんですよ。それが変な伝説になってるんだけど、そのときの蜷川さんは胃薬飲みながらキリキリしながら、もう早死にするんじゃないかと思ったくらい。そこまで自分自身を追い込んでたところがありますよね。他者に委ねながらも、自分自身が同時に演じてたんですよね。西岡徳馬さんが「ロミオとジュリエット」の初演に、自分の楽屋に蜷川さんがなだれ込んできて、うずくまっちゃうんですって、胃が痛くて。初日の緊張感っていうんですか。
西堂
こういう話を聞くと、平幹二朗、大竹しのぶ、吉田鋼太郎、小栗旬、藤原竜也、この五人だけの弔辞はやっぱり物足りなかった。蜷川幸雄はもっとすごい野望を持っていて、いろんな演劇人にインパクトを与えたのに、結局最期は「怒れる父親像」に収斂され、現在の人気タレントに見送られる形になってしまった。あれはあれでいいのかもしれないけれど、もっと別の送り出し方もあったんじゃないかな。蜷川幸雄の死という歴史的なイベントは、もっと違う形でありえたと思う。僕は本当は別の人の言葉を聞きたかった。例えば、新宿アートシアター時代の同志であり、劇作家の凄みを教えてくれた清水邦夫、行動する演劇のダイナミズムに刺激をもらった唐十郎。それに現代人劇場、櫻社で新宿時代をともに闘った石橋蓮司、この三人の弔辞は聞きたかったな。
石橋蓮司の弔辞は僕も聞きたかった。葬儀の席で僕の横にいたんですよ、蓮司さん。
西堂
彼だったら何を言うか、彼の四〇年の思いを聞きたかった。でも三人とも喋らない。清水さんと唐さんは(療養中で)弔辞を読めない。
でも、蓮司さんは喋れるはずなのに。
西堂
本当はそういう人たちの言葉で、葬儀の演出は為されるべきだった。
お互いにすごい傷を持ってましたからね。それはたぶん「ビニールの城」をやることで、その時代の傷とか、癒えないけど語り合うことはできたかなと、それが残念ですね。
西堂
葬儀に中根公夫さんも車椅子で来ていたけれど、非常に複雑な表情に見えました。彼だったら何を言うだろうか、とても気になった。「世界のニナガワ」を最初に発信したのがこの人ですからね。

でもこの「世界のニナガワ」という言葉、僕ははっきり言うと、あまり好きじゃないんです。権威付けめいていて安っぽい気がする。蜷川さんもそんな言葉で自分の仕事を括られるのを好まなかったと思うし、恥ずかしかったんじゃないかな。実際にイギリスでは勲章をもらったり、ニューヨークやパリでも公演しているけれど、世界中に蜷川幸雄の名前が知られているかというと、ちょっと誇大な言い回しのような気がする。この言葉は自分たちで発して、自分たちで信じ込んで、あたかも客観的に言われているかのように思っているだけで、そもそも国内向けのキャッチコピーだと思う。少なくとも世界的なレベルでの発想ではない。中根さんは、国内だけでは蜷川さんは評価されないから、海外に行ってニナガワの実力を試したいんだという思いで海外に連れていった最初の人です。その後二人は別れちゃう訳だけど、では彼は一緒に海外で闘ってきたことをどう考え、どういう思いで、棺の蜷川幸雄を見守っていたのか。
最初にポスターに演出・蜷川幸雄ってバーンとやって、これは東宝の中根さんの新たな戦略だったと思うんですね。海外に打って出て発信するひとつの商業ベースの中で、中根さんも蜷川さんを武器にしながら、自分自身も世界のプロデューサーになりたかったと思うんですね。それがあるところで花開いたわけで、中根さんと何で別れてしまったか僕は知らないし、そこを誰かに聞いて欲しい。中根さんとの仕事がなかったら、いまのコクーンもさいたまもないじゃないですか。二人とも喋らないですよね。中根さんが弔辞を述べなかったっていうのはなんか不自然ですよね。
西堂
僕はもう一人、蜷川幸雄が自分の死をどう語るかを聞きたかった人がいると思う。

それは鈴木忠志(SCOT主宰)だと思うんです。彼は鈴木忠志をすごく気にしていたし、リスペクトもしていた。鈴木は演劇論を構築して、世界に出ていった。それは蜷川さんになかったものです。そういう理論派に対して、自分は所詮現場での職人であって、理論がないことにコンプレックスを持っていたんじゃないかな。もし、この二人が日本の中で良い関係で並び立っていたら、蜷川幸雄の仕事もだいぶ変わったと思いますよ。
なるほどね。
西堂
鈴木忠志はある時期から、東京だけが演劇界じゃないと言って演劇界に距離をとってしまったけれど、演劇界にとって大きな軸を失ったと思うんです。だからこそ鈴木忠志が蜷川幸雄をどう批評するのかを僕は聞いてみたい。世界の、ということで言えば、本当は「世界のスズキ、日本のニナガワ」なんです。

鈴木忠志は蜷川幸雄に対していろんな思いがあるでしょう。蜷川さんは「トロイアの女たち」(二〇一二年)を白石加代子でやるわけだけど、そもそも白石で「トロイアの女」をやったのは鈴木です(初演、一九七四年)。それで鈴木は自分の劇団で「トロイアの女」をやっている(二〇一四年)。これなんかひとつの演劇的事件なんですが、こういうことを言葉に出して論戦してくれたら、日本の演劇界はもっと豊かになる。もっとも、そういうことを話題にするジャーナリズムもなくなってしまった。中根公夫の沈黙も残念だし、鈴木忠志の沈黙も勿体ない。本当に語れない唐さんと清水さんを除けば、石橋蓮司の沈黙もね。もっとも精力的に蜷川論を書いていた扇田昭彦は去年亡くなったし、この弔辞は本当に語るべき人の不在と沈黙によって塗り固められてしまった。だからこそ、蜷川幸雄の死をきちっと語っておく必要があるなと思ったんです。
アートシアター新宿文化の〓井欣士郎さんが環境を与えながら、蜷川さんが孤立無援で孤独感を持ってたときに、蜷川さんにエールを送ったのは鈴木忠志さんだし、「真情あふるる軽薄さ」は鈴木忠志さんがすごく評価してくれて、それで蜷川さんは自信を持ったと仰ってましたね。唐さんが最初に観た蜷川幸雄が、四谷公会堂に卒塔婆を立てた「東海道四谷怪談」(一九七一年)で、鈴木忠志に連れられていったと。
西堂
中根公夫は実は現代人劇場と櫻社時代を観てないんです。蜷川さんの噂を聞いただけで会いに行って、東宝での演出を頼んでしまう。それも凄いなと思う。だから僕はその五人の幻の弔辞を聞きたい。
蜷川幸雄の真の評価とは

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西堂 行人
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西堂
ある時期、蜷川さんは、いかに俳優が気持ちよく演じられる環境を作れるか、それが演出の仕事だみたいなことを言い始めていた。商業演劇に最初に出て行って、怒って駄目出しして灰皿投げてる時代と明らかに違うんです。俳優を尊重しながら共同作業をいかに可能にするかということに、おそらく六〇歳くらいになって気づいたんじゃないかな。
唐十郎ってそういう人で、だから状況劇場からものすごい良い役者が育ってきた。かたや、蜷川さんのところから優秀な役者が出たかというとアレッて。藤原竜也とか確かにいるけど、じゃあ、ほんとに藤原竜也がすごい俳優かといえば、確かに精神的には藤原竜也はすごい。「下谷万年町物語」で稽古二日目から立つんですけど彼は止まらない。結局一幕通しちゃったんです。蜷川さんの前で藤原竜也の気構えって半端じゃない。ただ、パッションはいいけど、発声はどうなんだとか、言葉をもっと豊かに届けるときのスキルの問題とか、総体的にやらないと役者はうまくいかない。新劇俳優に勝てないわけですよ。情熱だけじゃ。
西堂
蜷川さんはいろんなタレントを育てたと言われるけど、実はそうじゃないというのが金さんの現場の感覚ですね。それはこういうことじゃないかな。鈴木さんも太田省吾さん(転形劇場主宰)も、唐さんも、稽古場で演劇とは何かの哲学を語るわけです。俳優たちはそれを体に浸みこませる。だから退団しても次の現場でそれが活かせる。SCOTや転形劇場、状況劇場出身の俳優たちは息が長くて持続してますよ。それは俳優自身の中に演劇論があったからじゃないかな。
そうですね。
西堂
つかこうへいも亡くなったときに、斉藤由貴や牧瀬里穂とか女優を育てた演出家とか言われましたが、そういう紹介のされ方は演劇に対する無理解ですね。蜷川さんに対しても、僕は同じものを感じるんですよ。それは有名でメジャーな演出家にはなるかもしれないけど、本質的な意味での演劇の評価とは全然違う。
薄っぺらいものになっちゃうんですね。
西堂
蜷川さんはもっと志の高い人だったと僕は思う。彼が晩年に作ってきたシェイクスピア劇にしても、ギリシア劇にしても“どうだ俺はこれだけの水準の舞台を創った、これを超えてみろ”と後続世代を挑発している。商業演劇や公共劇場の枠の中でスタンダードを作ったっていうことは、これからそれをどう踏み越えていくかの壁を作ったことだと思う。“俺は日本の現代演劇が踏み越えていく為の捨て石になるぞ”というのが蜷川さんのラストメッセージのひとつではないかと思う。
演出という仕事は、劇作家や俳優の産みの苦しみからすれば、所詮産婆にすぎない、つまり演出は二流の仕事なんだということをよく分かっていた人だと思う。
西堂
俺は二流なんだから、年に一〇本も作れるんだ、と考えたんじゃないかな。そういう意味でいえば、僕は最高の賛辞として「超二流の演劇職人」という言葉を蜷川さんに捧げます。
あと工場を持ってるからね。確かに先人たちの常に二番手ですよね、アングラというけど、遅れてきたアングラだし。アングラはやはり唐十郎、鈴木忠志、寺山修司(天井桟敷)、佐藤信(劇団黒テント)。
西堂
三羽烏でも四天王でもないんだ。
遅れてきて、それに追いつこう追いつこうとして自分の既成概念をとことん壊して壊して生き残ろうとして、六〇歳になってある程度かたちが見えた分、いままでよりしっかりやろうとすることで、アンダーグラウンドのもとの新劇というリアリズム、そこを蜷川さんが検証してたんだなと話しながら思いました。
西堂
一人で検証していたんだと思います。すごく孤独だったんじゃないかな。みんなが理解しないまま。蜷川さんの下におそらく一〇〇人くらいの人が食っている。「蜷川産業」として舞台を量産しなくちゃいけない。美術家にしろ、照明にしろ、もぎりのおばちゃんにしろ、蜷川さんが公演やらないと食えないからやってたんだと思う。だから僕はちょっと気の毒な気がしている。
でもそこは蜷川さんだから、商業演劇やってくれっていうなかでも、自分のやりたいものをやったと思うんですよ。
西堂
車椅子に乗って悲劇的なイメージを消費されていくことも、彼は引き受けていた。最後の頃は、「さらす」覚悟でTV番組にも数多く取材されていたし、ドキュメント番組にも積極的に協力していた。何かを必死に残そうとしていた。
最後までギブアップしない。
西堂
そこがいわゆる芸術家とは違う、蜷川幸雄の持っている矜恃と懐の深さだと思いますね。
人情派だから断れないというのもあるじゃないですか。意外に冷たいように見えてあったかい。
西堂
やっぱりみんなを食わせなくちゃいけないというのがあるんじゃない? 中小企業の社長であって、大企業の社長じゃない。一介の現場人だったという自負。
生まれが川口でキューポラのある町だし。でも苦しくはなかったと思いますよ。
西堂
うん、それは同意する。楽しかったと思うよ。しがらみがあるのが演劇だからね。そういう関係自体を楽しんでたんじゃないかな。
ただ言えない苦しさ、触れられると疼くような櫻社解体とかあのへんのものは、もう持っていっちゃったですね。でも、「ビニールの城」は石橋蓮司と再会して、お互いに笑顔で話し合ったのは四〇年ぶりだというから。蜷川さんが「ビニールの城」をやりたがっていたというのがすごく気になっていた。「ビニールの城」は第七病棟の石橋蓮司と緑魔子の最大級の宝じゃないですか、よく許したなと。お葬式の席で蓮司さんに「僭越ながらやらしてもらいます」と言ったら、「おお、そうか」と。実は現代人劇場で委員長をやってたのは照明家の吉本昇さんなんです。吉本さんと蜷川さんの和解があって、初めて僕は重い水底に沈んじゃった何かに光が当たったなと思ってたんだけど。僕も蜷川さんの仕事を「代役」でなく、「受け継ぐ」意味でやりたいですね。受け継ぐといっても、蜷川さんのようには出来ない。あんなのは蜷川さんしかいない。蜷川さんの唐十郎への畏怖、尊敬の念を僕は受け継いでしっかりとカタチにして次の世代に届けたい。
西堂
結局、蜷川幸雄という巨大な多頭の怪物のいろんな部位をそれぞれが後を継いでいくしかないでしょう。
そういう意味では大衆化したことによって幅広く蜷川幸雄を論じることはできると思う。僕ら側からすると、葬儀は少し違和感があったのが、今日の話で納得しました。葬式だからあれでいいんじゃないかと思いながら、でも中根さんや蓮司さんが喋ってたら全然違うものになる。もっと深い演劇的な魂を論じられたんじゃないか。蜷川さんの大衆芸能の楽しい部分だけを「お疲れさん」といって終わったけれど、本当の日本の演劇が辿ってきた、日本の国が辿ってきた深い歴史の中に演劇ってあるわけじゃないですか。社会と合わせ鏡のようにあった演劇の魂の部分までは全然触れられてなくて、その不満が西堂さんにあるのではないでしょうか。
西堂
素晴らしい総括だと思います(笑)。
理想的な父親像晩年のリア王と道化

僕は一度、ベニサン・ピットで秋元松代さんの「村岡伊平治」の演出を手掛けたことがあるんですが、僕が蜷川さんに演出プランとか喋ってたら途中で居なくなっちゃう(笑)。自分以外認めない、嫉妬深いところもありました。僕は弟子として頑張っているので認めて欲しいなと思って、「血は立ったまま眠っている」(二〇一〇年)で、ドキドキしながら蜷川さんに、「蜷川さん、俺、弟子でいいんですよね?」って聞いたら、蜷川さんはすっと手を出して握手して「ありがとう」って。僕は涙止まらなくなっちゃったんですけど。やっぱり僕も蜷川幸雄に認められたいっていうのがありましたね。
西堂
そういう意味では「演劇界の父」ですね。「理想的な父親像」ってこれだと思うんです。
千尋の谷に突き落とされるんですよ、這い上がってこいという愛情。僕は状況劇場に行っても五年で戻るつもりでしたから。「蜷川さんの駄目出し、俺全然わかんないから、状況劇場行ってちょっと学んできます。五年経ったら戻ってきますんで、その時はよろしくお願いします」「おう、行ってこい」って。行ったらわけわかんなくて、五年経っても何もないから戻れないし。それで、三一年かかっちゃった。その間、一回だけ蜷川さんが演出助手で来たんですよ。李麗仙がもう唐十郎の演出は嫌だと言ったんです。「下谷万年町物語」で蜷川さんの演出でやりやすかったわけですね。一回、状況劇場を蜷川演出でやりたかったんですよ。「住み込みの女」(一九八三年)って、唐さんが芥川賞取ったあとの作品です。
西堂
唐さんは忙しかったからね。
それで演出っていうとアレだから、演出助手で来てくれた。蜷川さんは唐さんにやっぱり恩義があるから。そのうちに、鼠男を蜷川さん、ちょっとやんないって、唐十郎と追っかけっこする役なんですけど。断ればいいのに、蜷川さん受けちゃったんですね、人の良さで。また胃が痛むわけです。そのとき、僕は六平直政と蜷川さんの運転手やってたんですが、迎えに行って稽古場に着くと、蜷川さんが「止めてくれ」って言って吐く。そこまでして恩義に報う。不破万作に「これで借り返したよな」って。胃薬飲みながら、なんでこの人は自分を削ってまでここまでやるのかなと。唐十郎から演出助手なのに役者やれって「世界のニナガワ」に近いとこにいた蜷川さんが吐きながらやるこの関係は何なのかと思いました。
西堂
リア王みたいなもんだね。
晩年はリア王で、その道化が六平直政だった。
西堂
鈴木忠志も自分をリア王だと思ってるよ。
でも道化がいないでしょ、だからほんとの孤独だと思う。
西堂
道化を見つけられるかどうかが、演出家の生き方だね。今日は蜷川教室のような年譜に載っていない話も聞けたし、石橋蓮司と蜷川さんの和解の話も知ることができた。葬儀の謎も解けました。表には出てこない話がたくさんできて、面白かったです。

この記事の中でご紹介した本
蜷川幸雄の仕事 /新潮社
蜷川幸雄の仕事
著 者:蜷川 幸雄
出版社:新潮社
以下のオンライン書店でご購入できます
演劇の力 ―私の履歴書 /日本経済新聞出版社
演劇の力 ―私の履歴書 
著 者:金 守珍
出版社:日本経済新聞出版社
以下のオンライン書店でご購入できます
日本のアングラ/作品社
日本のアングラ
著 者:西堂 行人
出版社:作品社
以下のオンライン書店でご購入できます
2016年6月17日 新聞掲載(第3144号)
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