絶対的に違う「私」と「あなた」の間に奏でる音楽 『旅する音楽 ――サックス奏者と音の経験』 仲野麻紀インタビュー|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 特集
2017年2月3日

絶対的に違う「私」と「あなた」の間に奏でる音楽
『旅する音楽 ――サックス奏者と音の経験』 仲野麻紀インタビュー

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旅する音楽(仲野 麻紀)せりか書房
旅する音楽
仲野 麻紀
せりか書房
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 『旅する音楽』(せりか書房)は、音から音へ世界を旅するサックス奏者・仲野麻紀さんの初の著書である。個である人間の差異と絶望のあわいに残された、「共振」という希望。土地と暮らしに根付いた音楽を辿り、旅は続く。「音の立ち上がる原風景」とは――。本書について、お話を聞いた。

差異と共振 絶望と切望


――この本には、ご自身のことはあまり書かれていませんが、プロローグの「ただただサックスを吹いていたいという欲求と向かい合った結果、フランスに辿り着いた」、セーヌ河岸に日々通い「堤防となる壁と街路樹に向かってサックスを吹き続けた」というところが、あえて言えば仲野さんの音の原点でしょうか。 
仲野
そうですね。自分で自分の音が分かっていなかった時期です。自分の音とは何だろうと、鏡に向かうような気持ちがありました。向かい合うのが人工的な壁だけだと、音はそっくり自分に跳ね返ってきてしまう。木々や日の光、風――周囲の自然の反応を感じとりながら奏でることで、自分と音が宇宙の中にあるということを確認することができました。奏でるとは自己表現を追究する行為ではなくて、今ここでしか共有できない、この瞬間のためだけのもの、だと思っています。

――レバノンのヒズボラの拠点や、モロッコのエッサウィラなどへ、音楽を求めて旅したり、バラフォンという楽器の音が忘れられず、西アフリカのブルキナファソを訪ねたり。それだけでなく、渡航費の捻出やビザをとるところから苦心して、異国の奏者を日本へ招いたりもしています。その欲求と情熱は、どこから生まれてくるのですか。
仲野
それは「私」と「あなた」が絶対的に違う、ということからです。共に音楽を奏でることは、差異を確かめあうこと。差異を認識するたびに、ものごとの深淵を知ることの心地よい絶望を感じます。一方で、「私」と「あなた」は違うのだ、という理解の上で、共振できる瞬間があることを確信しているんです。

共振できるのは一瞬のことで、次の瞬間には手を振って別れて行くのですが、それでも誰かとの接点の記憶は、音の体験として残ります。共振することは、私たち人間が持つ始原の能力であり、音楽から、国や民族や音楽性やオリジナリティなどを取り去ったときに残る、人類の切望だと思っています。

――出会ってきたミュージシャンや音を、「ワールドミュージック」や「文化」「民族性」という言葉で括ってしまわないことを、強く意識されていますね。
仲野
フランスで活動し始めたばかりの頃、ある録音エンジニアに「なぜあなたは日本人なのにサックスを吹いているんですか」と聞かれたんです。「琴や三味線を演奏すれば、日本の民族性が表現できるし、もっと仕事がくるだろう」と。その言葉をきっかけに、民族性とは外から与えられるものではなく、内側から表れて来るものなのではないかと考えるようになりました。民族性とは国籍でもなく、自分自身が作るもの。日々どんな音を聴いて、何を食べているのか、今日どんな花を見て心が動いたか――アイデンティティとの区別が難しいですが、それぞれの人の暮らしの積み重ねから、民族性も生まれてくるのではないか、と。所属としての民族ではなく、個の民族性に心を傾けていければ、と思います。

存在を一言で括ろうとするものを否定した先に、何が残るのか、それを確かめたいのかもしれません。

――ブルキナファソのバラフォン奏者、カバコたちの音との衝撃的な出会いを経験して、自分が奏でる「音楽」が虚構だと気付いたと。また、エッサウィラでのハマッチャとの演奏体験も、「数字上では分析できないズレ」に対し、「演奏者のからだの記憶の中にあるという事実」が盲点となると書かれています。絶対音感や相対音感ではなく、「楽士が生きて演奏する土地=自然の中で育まれた音感」に気づかねば、他者と演奏を試みることは虚しい、と。
仲野
カバコやハマッチャたちの音楽には、西洋音楽のような譜面も楽理体系もありません。バラフォンとは、木琴の祖のような楽器ですが、豊かな倍音と奏者の体に刻み込まれたリズムは、平均律やメトロノームの刻むリズムではとらえられない「ゆらぎ」を湛えています。カバコもハマッチャも、微かな微かなゆらぎに耳をすませ、それぞれの音の差異を認めた上で、寄り添おうとするんです。

微分音や純正律を聴き取ることはとても難しい。つい音を譜面に定着させたい衝動に駆られますが、譜面を目で追っていては、音のゆらぎに肉体の反応が遅れてしまう。カバコたちの前に立った時、自分の知っている音楽の世界を頑なに守っていては、本当の音楽は奏でられないと思いました。自分の音と、自分の外にある音を触れ合せるのが難しいからといって、彼等の音楽は私たちのものとは違うのだと線を引き、自分の音楽の中にこもることは、嘘なのではないか、とそう感じたんですよね。
革命―次へ音を始める


――エッサウィラのハマッチャの奏でる音は、トランス状態を招きます。今では禁止されたけれど、かつてはトランスの自虐行為で二〇%もの死亡率があったとか。しかしそれは、土地の人々にとって治療であり、祈りでもある。トランスとは何なのでしょう。
仲野
近代社会で私たちは、意識的に判断して生活していますよね。トランスは、意識が消えたときに導き出される、本能のようなものです。金属音と物を叩く行為の反復は、人間の意識を放り出すのに効果的な音作用のようです。御詠歌でもチリンチリンという鉄の音と、タンタカタンという打音の繰り返しのリズムに、モロッコのものほど激しくはありませんが、恍惚感が生まれます。時に意識を解放して、人の司らない世界に遊ぶことが、必要なのではないでしょうか。

――バラフォンの持つ五音階は、未完の周期であり、比べて西洋音楽の七音階には完結がある、という指摘が面白いと思いました。それは音階だけの話に終らず、死者との関わり方や、宗教的なものの見方にも繋がっているのではないかと。そもそもバラフォン奏者とは、伝統音楽の継承者であり、鉄を扱う者、儀式を司る者、という三つの役割を持つそうですね。死者を治癒し、同時にこの世に残された人々を死の悼みから解き放つ。また、バラフォンの音は死者の体を柔らかくするという考え方も興味深かったです。
仲野
ドレミファソラシの世界はカデンツァと言って、「ド~シ~ド~」で完結します。その音世界が絶対のものではないことを、心に留めておきたいのです。私は今、連綿と続くいのちの片隅にいて、このいのちの流れはこの先へも続いていきます。私は通過点に過ぎません。だからなのか、五音階を自然な心地よいものだと感じます。生活も、音楽も、血脈も、「ド~シ~ド~」で完結して自分だけ満足しているのではなく、今度は次の人のために、私が音を始めなければならないのだと思うんです。

音階と宗教や人々の暮らしの関わりは面白くて、アフリカのグワン族は先祖崇拝で、ご先祖様は自分たちのまわりにいつも漂っている、という考え方をしています。一方のキリスト教は、生者の世界とくっきりと分かつ形で死者を葬る。日本には、キリスト世界の昇天祭のような行事の代わりに、御先祖様が帰ってくるお盆がある。日本にも民謡や演歌など、五音階の系譜はあります。

また私たちの世界では、一週間は七日周期で、キリスト教徒は安息日である日曜日を大事にしていますし、イスラム教徒は礼拝のある金曜日に家族と食事をしたり、レストランやカフェでクスクスが振る舞われたりします。七日周期に大きく縛られているんです。一方、グワンの週単位は五日です。音階と宗教と人々の暮らしについては、まだまだ考えられることがありそうです。

――「Outofplace」というCDのタイトルは、エドワード・サイードの著書から取ったそうですね。
仲野
サイードは自らの複雑なルーツから分け入って、アラブ人とユダヤ人の垣根を払う活動を続けましたよね。「多様性」とは最近よく言われる言葉ですが、私は「生物多様性」ではなくて、一人の人間の中に多様性があるのではないか、と思っています。「Outofplace」の制作メンバーは、出自も楽器の性質も、音楽の世界も異なります。「多様」な人間が五人集まったとき、それは面白いほどグチャグチャになりました(笑)。でも一人一人の持つ多様さが、ある瞬間響き合い、きれいな五角形になる、その可能性を試してみたかった。

――これまで出会ってきた音について、個人的に録音した演奏を聞きながら追想し、言葉に表そうと試みたのがこの本だと思っています。音の追想という行為から、新たに感じたことはありましたか。
仲野
繰り返しになりますが、何よりも、私たちは一人一人違うのだ、ということです。その違いの中で、自分に何ができるのか、考えています。

東北の大震災の後、多くの人がそのように考えたと思います。このとき、アラブ世界を代表するウード奏者のムスタファ・サイードは、どうしても福島で演奏したい、と電話をかけてきました。そこには理由とか意味とか関係性の近さとか、余計な考えは何もなくて、福島の人々の前で演奏したい、という純粋な衝動だけがありました。もちろん来日にあたっては、煩瑣な手続きが必要でしたが(笑)。そうして、演奏が叶ったとき、そこに祈りがありました。

最終的にこの世の全ては、個人の判断で成り立っていると思っています。その個人の判断に未来が託されている。「文化」とか「民族」とか「ジャズ」とか、ましてや「オリジナリティ」というところに留まるのではなく、音楽家として自分に何ができるのか、その答えを探しながら、活動していきたいと思っています。
自分では革命を起こしているつもりなんです(笑)。

この本は、文化人類学とか社会学とか、「~学」と区分されるような本ではない。一人の音楽家がその日その時、心揺さぶる音楽に出会い、自らの体で経験し感じたことの「覚書」だと仲野さんは言う。答えではなく、たくさんの問いと豊かな対話が、明日を招くように思う。ここから未来が始まっている。
2017年2月3日 新聞掲載(第3175号)
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