方法論の現在から、未来への道標 『ハンドブック 日本近代文学研究の方法』(ひつじ書房)を機に|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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特集
2017年2月3日

方法論の現在から、未来への道標
『ハンドブック 日本近代文学研究の方法』(ひつじ書房)を機に

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『ハンドブック 日本近代文学研究の方法』(ひつじ書房)が、日本近代文学会編で刊行された。本書は、学会の機関誌である「日本近代文学」第八九集(二〇一三年十一月発行)から第九一集(二〇一四年十一月発行)までの三号に亘って掲載された小特集「フォーラム 方法論の現在」を編集、再構成したものである。本書の刊行を機に、雑誌企画時に編集長を務めた、東京大学教授の安藤宏氏と東京外国語大学教授の柴田勝二氏、本書の制作編集を担当したフェリス女学院大学教授の島村輝氏に、鼎談をお願いした。文学研究の現状と、今後を見据えた鼎談となった。  (編集部)


日本近代文学 入門編 研究マニュアル

島村
『ハンドブック 日本近代文学研究の方法』が刊行されました。機関誌「日本近代文学」での企画当時の編集長は安藤さんですが、「方法論の現在」という小特集の、初発の問題意識はどのようなものだったのでしょうか。
安藤
「方法論の現在」は、近代文学の膨大な研究対象を、どういう切口でどのように分析していくか、その具体的な方法を、造詣の深い方たちに歴史的な経緯も含めて、入門的に語ってもらおうという企画でした。その主たる意図は、若手へのアシストです。

と言うのも、学会誌の投稿は若手研究者が圧倒的に多いのです。編集委員として投稿論文を審査していると「興味深い視点だけれど、当該の分野についてもう少し基礎的な勉強をした方がいいのではないか」とか、「基本的な文献を読んでから論を組立て直すとさらにいいものになるのではないか」という意見が必ず出ます。それを直接投稿者に伝えることは難しいのですが、それならば学会として、基本的な研究文献や、研究方法の歴史的な経緯などをまとめた研究マニュアルを用意してはどうか、と。

実際に企画を進めてみると、近代文学会の過去数十年の歩みを振り返ることになり、我々自身が足元を見つめ直す機会にもなりました。

最近、研究に対するメタ研究は、全般的に減ってしまっていますよね。以前は學燈社の「國文學」や至文堂の「解釈と鑑賞」などでこまめに特集が組まれていました。それらが休刊、廃刊となってしまった今、研究の道標がなくなってしまった。
柴田
その一方で近年、多くの大学に、外国から日本文学を研究に来る留学生が増えています。どんな研究の方法、アプローチがあるのか知るための情報がないのでは、入口に立つことが難しい。もちろん日本人の学生にも同様ですが。
安藤
日本文学が、今では国際的な学問として成り立っていますからね。アメリカでの日本文学研究のやり方も、中国独自の方法もあって、お互いの研究を突き合わせて発展させていくことが、必要な時代になってきています。
島村
そんな折に、ひつじ書房から、書籍化のお話をいただいたわけですね。これは、近代文学会の長い歴史の中で、学会編の初の書籍ということになります。この時期に、本書が刊行されたことの意義は、大きいのではないでしょうか。

八〇年代から九〇年代の初めに、構造によって現象を理解する、構造主義的な研究方法がほぼ固まり、九〇年代から二十一世紀の初頭にかけては、植民地主義や帝国主義に関わる文化、歴史などを扱うポストコロニアル研究、あるいはジェンダー論研究などへ幅が広がった。そうした流れが、整理され取り込まれていたのが、まず本書の利点と言えると思います。
柴田
部立ては、私と安藤さんとで作りました。大きく見ると前半に、テクスト論、読者論、作者論、中盤から後半にかけて、作品が生み出されてくる文化的、社会的、歴史的環境の捉え方、最後に視野を広げる意味で、書誌の問題、注釈の問題、あるいは私小説、児童文学といった、近代文学研究の多様性を示唆するような項目を置きました。
島村
各執筆者に、書き方についての指示などはあったのですか。
安藤
当該分野で押さえておくべき基本文献を挙げていただきたいということと、当該分野について知識のない人にも分かりやすい叙述で、というお願いだけですね。
島村
二十七項目二十六人の執筆という多様な内容ですので、書き方に偏差があると感じる人もいるかもしれませんが、僕にはかえって、それぞれの執筆スタイルが興味深かった。ベテランの先生方の持ち味の生かされた書き方と、中堅の方たちの学問的に整ったスタイル、さらに若手の熱のこもった意欲的な論考。いい意味で統一されない個性のカオスが、現在の研究の状況を、つぶさに見せてくれている気がしました。
方法論の不易と流行、作者の存在を問い直す

安藤
企画の段階で悩んだのは、一つには、学会として発信することで、項目として立てたものが、学会公認の方法論だと権威的に捉えられる可能性がないだろうか、ということでした。もう一つは、蛸壺化への懸念です。様々な要素が融合して成り立つべき研究を、ジャンルで区切って示すことの弊害ですね。個人的には、マニュアルを生かすも殺すも、使う人の腕しだいだと思うのですが、九〇年代はこうだった、二〇〇〇年代はこうだった、と輪切りの方法論史に陥らないように神経を配りました。めまぐるしい方法の変化の中で、その時々の研究の傾向を知り、新しい方法論に目を向けていく問題意識の持ち方は大事ですが、これまでの方法を押さえながら次のものを取り込んで、深めていくようなしたたかさというのでしょうか。その意識が日本の近代文学研究者には薄いような気がしています。そうあって欲しい、と思うのです。
柴田
八〇年代は、作者と切り離し、作品を独立したものとして精緻に読解するテクスト論が隆盛しました。ロラン・バルトの「作者の死」理論をはじめとして、「作者をいかに殺すか」というテクストの捉え方です。それがやや退潮して、文化研究の対象として作品が捉えられる度合いが強まるにつれて、今度は作品をテクストとして読む事が二義的になり、単なる素材と化す側面が出てきます。文化研究は必要ですが、作品の自立性を見失わずに、作品の生成環境としての社会的、歴史的、文化的な条件、背景というものを追究していく、そのバランスが大事ですよね。そうした時代的な推移が、この一冊の中から汲み取られるように思います。
島村
ふりかえれば、テクスト論というのは、それ以前に出てきた数々の読解の方法を使えるものにするための、研究補助線みたいなものだったと思います。ところが、使いやすさの点から、テクストの様々な読み替えばかりがクローズアップされました。でもそれだけで論じ得ないものが、次のステップとして、社会的読解に広がっていく、という契機があったと思うのです。

研究のメタ研究は、とかくモードの交代史のように見られがちですが、これまで交代史的に言われてきたものを、もう一回ここで配置し直す、という点でも、役割を持つ本なのではないかと思います。
柴田
この本には作品が生成される環境への目配せが、行き届いていますね。それは同時に、作者論、作家研究、伝記研究という形で、作品の主体としての「作者」の存在が、改めて浮上しているということでもあると思います。

フーコーの『作者とは何か?』に、「機能としての作者」という概念が出て来ますが、作品が、文化的、社会的な環境を介在するものであるならば、同時に、テクストと社会を介在する存在としての「作者」の機能にも、光が当たってしかるべきだということです。
この本では二章に、作者に関する論考が五つ挙げられていますが、旧来の、作者がいて作品が生み出されるという関係性ではなく、社会環境の中に生きることでテクストを紡ぎ出していく作者の存在に、照射がなされています。
安藤
作者の再認識が、単純に以前の作者論の復活ではなく、いろいろなものを潜り抜けてきた「作者」でなければいけない。流行する概念や方法は、初発のときのパワーはすごいのですが、すぐに水増しされ、消費されてしまう。方法を方法として消費してしまうのではなくて、初発の問題意識をそれ以外の方法と巧みに融合させながら、自分の中にとりこんでいく、そういう材料にしてほしいです。
柴田
七〇年代から八〇年代にかけて、ロラン・バルトやクリステヴァなどのテクスト論が流行しましたが、作者の主体性というものに比重を置いた論は古くからあります。例えばアウエルバッハの『ミメーシス』やウェイン・ブースの『フィクションの修辞学』では、修辞をもたらすレトリックの主体としての作者というものが重んじられています。ポール・リクールの『時間と物語』にしても、書くことによって時間を生き直す、クロノス的な時間をカイロス的な時間に変えていく主体としての作者というものが、想定されていたわけです。

「作者を殺す」というようなテクスト論へ、方法が一時期集結した向きはありますが、作者の存在はアリストテレス以来綿々と重んじられてきた系譜であり、むしろどこに作者という存在を位置づけるか、ということが、今改めて問い直されているのではないかと。
安藤
その時代に流れる思想から、我々は完全に自由にはなれないですが、流行り廃りをこえて動かない部分に、「言葉を中心にした人間と状況との関わり」があると思っています。それをどの角度から見れば、有効な相互作用がみえてくるか、ということの追究だと思うんです。例えば、人間が言葉によって状況を変えて行こうとして、逆に状況から変えられてしまう、その相互関係を見極めるのに、どういう方法が有効なのか。それは手立てであって、目的ではないのです。
国際性と学際性、今日的文化研究と作者の関係性

島村
例えば最近、「検閲」という問題が非常に多く論じられていますよね。それは単なる言論制限ではなく、作家の創作に影響の及ぶ、ファクターであったのだと。
柴田
そうですね。戦前から戦後にかけて、実際に、書かれた物にどういう検閲が行われたかを辿ることも重要ですが、それだけでなく、検閲という力が作者の意識に働きかけることで、作品生成の一つの作用となっていることも見逃せません。例えば、三島由紀夫の『仮面の告白』は、昭和二十三~二十四年にかけて描かれた、同性愛に傾斜する青年の告白です。終戦後は、異性愛が復権してきた時代でした。その背景にはGHQによる検閲は、占領体制に対する批判や、日本の伝統的なものへの称揚には厳しかったけれど、異性愛表現に対しては比較的緩かったという事情もあります。ただ一方では性的な表現に対する、国内法によるチェックも厳しく行われていました。そうした異性愛衝動がフツフツと湧き起っている時代に、同性愛者の内面を曝け出すというインパクトは、三島の戦略だったと思います。つまり、作品の生成に戦後の検閲の力というものが間接的な形で働いていたともいえます。社会的な圧力や制約が、書かれたものにどう及んだかというだけでなく、時代性が作者の意識の中に入り込んで、作品の生成に働きかけることがあるということですよね。
島村
四章では、フェミニズム、セクシュアリティ、ジェンダーの項目が立っていますが、ここでも同じような問題意識が抱えられています。ジェンダー論研究、フェミニズム研究が引きだしてきた、有効な地平があるとともに、そのように括ってしまったときに見えなくなったものがある。
柴田
参考文献を見ても、これまで多くは男性中心社会の中で抑圧された女性たち、という観点でジェンダー問題が考えられていたことがわかります。しかし実際、男性中心社会の中では男性も抑圧されている。飯田祐子さんの論の中では、萩原朔太郎の「不能」や谷崎潤一郎の「去勢」というキーワードも導き出されていますね。まだ開かれていない潜在力があるジャンルだと思います。
安藤
普遍的に考えるべきは、男性性か女性性か、でなく、着せられた性に対する違和感というものが、どういうレベルで言葉に表れてきているか、その分析の方法だと思います。
島村
「女性表現」がいかなる無意識の抑圧の中で生み育てられてきたのか、という視点もありますね。また例えば漱石の小説にも、一家一族を支えるために、無理をする家長の立場が、描かれます。男性中心の枠組みの中に生まれた小説ですが、その中で男性が一種の強迫観念として抱え込んでいるものがある。
柴田
『行人』の一郎とか。
島村
『道草』の健三もそうですよね。それは、太宰の「わたくし性」にも通じるところがあると思うのですが。
安藤
太宰の場合は、自意識とよく言われますが、これも違和感の変奏ですよね。時代から要求された役割に対し、過敏な感性が紡ぎ出していく、その表現の面白さです。
島村
また最近では、日本近代文学研究といっても、マンガ、アニメ、ライトノベル、映画、といったさまざまなサブカルチャーをとり込んでいくことになるのですが、瀬崎圭二さんの「カルチュラル・スタディーズ」では、そもそもの立ち位置に対する、反省的なポジションが面白かった。
柴田
瀬崎さんはカルチュラル・スタディーズは、とらえどころのない夢のようなものであって、このように、一冊の項目におかれることはおかしい、と語っていますね。確かに、どこからどこまでをサブカルチャーと既定できるのか。文化研究を定義すること自体が、文化研究のあり方に反するというアイロニーは確かにある。

カルチュラル・スタディーズには二つの側面があると思います。一つは、作品の中に含まれている、文化的な文脈を洗い出すこと。もう一つは、作品あるいは作者の生きる環境の中で生まれ変遷していく、文化現象に対する研究です。勿論それは互いに、交錯しているし重なっています。表現が作者に帰属するものなのか、文化に帰属するものなのか、時代が生み出しているのか、作者の個性が生み出しているのか。そうした曖昧さをいかに掬い上げていくのか。そうしたカオス性、曖昧さをいかに掬い上げるかということは、文学研究の重要なポイントなのではないでしょうか。
安藤
この「方法論の現在」は、自明のものと考えていた文学概念やジャンルの区分けを、根本から相対化してみる試みでもあったと思うんです。カルチュラル・スタディーズに限らず、マルクス主義文芸理論も、歴史社会学も、いずれにも反映論的な落とし穴はあります。でも状況が反映してこうなりました、という一方通行だけではなくて、状況自体を見返していくような、逆向きのベクトルの発想が必要ですよね。
怖いのは、これから研究をはじめようという人が、本書の目次をみて、よし自分はこれでやろう、と指差すこと。そうではなく、カバンの中にある問題意識について、有効に枝葉を伸ばしていくために、どういう発想が必要なのかという参考にしてもらいたい。
島村
例えば、生成論、書誌学、出版文化論というようなものに、「機能としての作者」論をからめていく。すると、作者が発想の核をメモしたところから、社会的に流布して、メディアの中にクロスオーバーしていくまでの、非常にたくさんの階層を、統一的な文学研究の角度から見通していくことが可能になりますよね。
柴田
生成論については、松澤和宏さんによる草稿の研究が掲載されていますが、草稿からのテキストの変容を追う生成研究のみならず、最終形としての作品の中に、生成論が含まれている場合もあります。村上春樹の『風の歌を聴け』は、リニアに書かれた作品を、章をシャッフルすることによって成り立っている。そのことで、テキスト内の時間が交錯しているわけです。あの作品の元の形を、我々読者が厳密に知ることはできませんが、注意深く見れば、生成のプロセスを伺うことはできる。『道化の華』も、もとは「海」という平凡なテキストだったわけですが、ジイドの「ドストエフスキー論」を取り入れることで、あのような小説になった。草稿のみならず、作品のプロセスに生成論が孕まれて、そこから表われてくる作者論もあるわけです。
そのように考えると、方法は決して独立せず、相互に重なりあってどんどん連続していく。それがテキストというものの、もともとの性格でもあるわけですよね。だからたった一つの項目で、論を書こうなどということは本来できないことです。いかに視野を広げて研究に取り込んでいくか。そのためのヒントに、本書がなればいいと思います。
安藤
国際性と並んで、学際性という事が言われるわけですが、近代文学の研究だけに閉じこもらずに、周辺領域の研究者と対話をしていく、その手立てになれば、ということでしょうね。
先人の格闘を血肉化し、自分だけの方法論を作る

柴田
周辺領域をとりこむという点で、古典文学と近代文学のリンクも、項目として立ててもよかったかなと思っています。三島も川端も谷崎も、多くの作家は古典を孕むかたちで作品を作っていますし、『源氏物語』の研究者で三島論も書く島内景二氏のような方もおられますから。
島村
確かにそうですね。近代文学を読むことは、地層をはがしていくような行為で。例えば志賀直哉の「焚火」のような小説は、一つ一つに注を付けて行こうとすると、神話や土地の伝承と結び付いてくる。
柴田
芥川の「歯車」には、ダンテの神曲やギリシャ神話が組み込まれていますしね。日本の古典、あるいは西洋の古典が組みこまれ、作品が生成している例が少なからずある。
安藤
そこには文体の問題も浮上してきますよね。小説に限らず、近代文学が選び取った文体というものが、どういう歴史的な経緯で成り立ったものなのかと。文化的コンテンツは、文体とイコールだと僕は思います。
島村
そうしてみたときに、私小説の概念の見直しも起こってくるし、それが日本文学における作者の再構築というものにも深く関わってきますね。
柴田
勝又浩さんは、私小説の内に、日本的な文学の変遷があると書いておられます。平安日記文学が私小説の原点だと言われる一方で、中世の隠者文学の系譜も組み込まれているし、また短歌・俳句との連関もある。様々な歴史性が、そこに沈殿して堆積している。
安藤
それについては、話が転倒するところもあって、大正期末頃の私小説全盛時代に、突如として平安朝の日記文学が見直されます。つまり私小説という表現自体が古典を作り変えていくわけです。
そうなってくると後の時代の表現物は、前の時代を全て視野に入れなければならない。
島村
茂吉が自分の方法的基盤として、『万葉集』を見直し、人麻呂を見直したように。
安藤
そう、あれは茂吉の作った『万葉集』ですよね。近代文学研究はある意味で一番大変です(笑)。
島村
古典に遡ることが、作者の再構築の、最前線の問題意識かもしれませんね。
他にやや手薄に思えたのは、韻文の領域でした。詩歌について総合的に大塚常樹さんが書いているのですが、短歌・俳句は、文学表現としては、非常に大きな領域だと思うんです。しかし現在の短歌・俳句の研究批評は、主に、歌人・俳人のそれぞれにまかせてしまっている。それから足りなかったものは戯曲ですね。
安藤
確かに、戯曲の身体性は文学にとって重要ですね。あらゆる表現は現実でない何かを装うという点で、演技性を持っていますから。
柴田
三島由紀夫、安倍公房、井上ひさしのように、小説と戯曲とで、ほぼ同じぐらいに活躍したビッグネームの作家たちがいるわけですから、ジャンル的な交錯をもっと考究する項目があってもよかったかもしれません。
安藤
上演を前提にしたシナリオもあれば、しないことを前提とするものもある。上演しないシナリオと小説のどこが違うのか、作家が小説とシナリオを選ぶ観点など、非常に興味深いテーマです。戯曲をあえて小説のように読んでいく、林廣親さんの『戯曲を読む術』は面白かったですね。
島村
実際、戯曲や、短歌・俳句の分析の方法論を視野に入れている研究者が、今の学会状況の中にどれぐらいいるかという問題がありますね。本書で手薄になっている部分には、学会自体の現状が反映されているともいえる。それも含めて、まさに「方法論の現在」なのだと思います。
安藤
現時点ではこれが限界だったと思いますが、まずは一度本という形にして、十年後、二十年後に改訂できたらいいと思っています。
島村
今後はテクスト論のような大きく流行する方法は、なかなか出てこないと思います。このように出そろった機能的な方法論を、いかに組み合わせ、拡張して、分析を広げていくか、そういう段階ではないかと。そのためにうんと活用してほしい本です。
安藤
方法は基本的に手作りのもので、その人のものでしかないんですよね。対象に即して、自分が一番引っぱり出したいものを引っぱり出すにはどうすればいいのか、というところで、自ら作っていかなければいけない。
柴田
それを最初にやったのは漱石ですよ。下宿に閉じこもって、自分で本を読み、考えたことをノートに書き付けていく。それは、ものすごい分量です。
島村
蠅の頭のような小さな字で(笑)。
安藤
方法はその人のものでしかないけれど、そこに開き直ってはいけないんでしょうね。先人の行いを、一方ではしっかりみて、血肉化し、その上に自分の方法を積み重ねていく。
島村
一人一人がテーマや方法論を与えられたときに格闘する。その格闘の跡が、本書でも非常に面白いし、意味がありました。今ここで、学会の力を集めて一冊の形にしたことは、今後につながる重要な一歩だった、という気がしています。 
2017年2月3日 新聞掲載(第3175号)
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