「国立大学」と「子どもの貧困」 暴動発生レベルの日本の未来は?|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
読書人よ、集まれ!

トップページ

特集

書評

連載

コラム

ニュース

読書人とは

  1. 読書人トップ
  2. コラム
  3. 論潮
  4. 「国立大学」と「子どもの貧困」 暴動発生レベルの日本の未来は?・・・
論潮
2017年2月3日

「国立大学」と「子どもの貧困」
暴動発生レベルの日本の未来は?

このエントリーをはてなブックマークに追加
今回は日本の未来に関わる話、「国立大学」と「子どもの貧困」を取り上げよう。多くの子に親しまれているガリヴァーは、天空のラピュータ島の方式で改革が進む地上の都市へ降り立つ。その光景たるや…。

(1)「国立大学は甦るか」(『中央公論』二月号特集)。「国立大学協会の里見進会長(東北大学総長)は、大学運営の基礎的経費である「運営費交付金」の拡充を求める声明を発表した」。「競争的資金」の導入による“選択と集中”と引き換えに、「全国の国立大学は、運営費交付金を毎年一%ずつ削られ、今日までに一〇%以上が削減された」が、「これ以上はもう無理だ」(里見進「大学改革の歪みが若手研究者を直撃する」)。交付金一律削減は「将来の研究者の育成に大きな障害となっている」。「期限付き」で公布される「競争的資金を獲得しても」、それにより採用される「若手教員」は「非正規社員のような時限付き」の「非常に不安定な雇用」になる。「ノーベル賞受賞」のような「画期的な研究」も「地道な基礎研究に始まるものが多い」が、基礎研究は「運営費交付金で支えてきた」。里見氏は「若い研究者に、更に言えば、次世代に大きなしわ寄せがいく」として、削減の「危険性を深刻に考えるべき」と「繰り返し指摘」する。

他方「競争的資金制度の生みの親」である神田眞人氏(当時財務省)によると、「若い人のポスト難は競争的資金のせい」とするのは「誤解」である(神田眞人、菅裕明、上山隆大「マネジメント不在が招く研究の劣化」)。「競争的資金でも間接経費をプールして常勤の採用を行うことは可能」で、それを「東大総長も進めている」し、任期付き採用も「人材の流動化、多様なキャリアパスに繋が」ると、神田氏は現行制度を自画自賛する。タイトル通り、東北大総長は無能な大学経営者である、と。

だが、ご指名の東大総長も無能で、里見氏と同様に「交付金削減による若手研究者の不安定雇用は深刻」だと言う(五神真「学長の権限強化は特効薬ではない」)。東大では「任期なし」の「正社員のような雇用」は「約五〇〇人減」、「任期付き」は「一五〇〇人増」だ。東北大では三二〇〇人強の非正規教職員が首切りを通告された。神田氏に従えば、これらは学長の権限や経営能力で解決しうる問題だ。研究には長期の修練や蓄積が必要だが、使い捨てられ研究者生命を絶たれても、本人や家族が路頭に迷っても、自死しても、多様なキャリアパスで良いことだ。この間、当の官僚は「天下り」で教授職に、安定的に再就職している。学の独立を謳い文科省と癒着する早大は当時、法の趣旨に反する首切りを非正規教員に通告してもいた。

ノーベル賞受賞者も無能人間だらけだ。梶田隆章氏は「運営費交付金の削減をやめるべきだ」と説く(梶田隆章「このままでは日本の基礎研究はダメになる」)。「削減のせい」で「若い研究者」の「定職、ポストにつく入口が非常に歪んで小さくなって」いる。益川敏英氏も山中伸弥氏も、若手研究者の常勤雇用を長年訴えている。「自由な発想を持って研究していくことが大切」と語る梶田氏は、競争的資金について「経済活動に繋がるような研究をエンカレッジする方向性があるんだろう」と訝り、「選択と集中」を「大変疑問」とする。「科学が「役に立つ」というのが、「数年後に企業化できる」と同義語になっている」という大隅良典氏の批判と重なる。それは「社会をダメに」する。誤解しているのは、妄想三昧なのは、無能なのは誰か。神田氏とその周辺を除くすべての人が知っている。
現行制度は、市場経済を崇める新自由主義的失策の一例である。社会ダーウィニズムの淘汰と同じく、カネになる研究を除いて緊縮財政を強行し、弱い立場の者を経済的に虐殺するのが特徴だ(中山智香子『経済ジェノサイド』平凡社新書)。梶田氏は受賞後、「若い人を対象にした」講演を「できるだけ引き受けることにしてい」るという。「科学研究」でも「それ以外の分野」でも、「志を持って勉強してほしいということを話します」。氏は純粋に「知る喜び」の大切さを語る。その知的愛を売り物にしろというのだから、まさにラ・ピュータ(売春婦)政策だ。「将来をきちんと設計できるようにしてあげるのが我々の世代の役目。しかしそれが全然できていない」。「アカデミアを目指す学生」は「大幅に減って」いる(五神氏)。諸学を迫害する現行制度のせいで。

日本の未来のために、里見氏は大学への「今、この時点における有効な投資」を訴える。五神氏も「学問と市場原理主義は相容れない部分がある」と批判的で、卒業式告辞では学生に向け、フリードマン先生でなく「宇沢弘文先生の話」をした。「市場原理の中では人類全体は良くならない」「社会が共有するコモンキャピタルを大事にしていかなければならない」。含意は明白だ。かの地上の都市の荒唐無稽なアカデミーよろしく、大学を社会的共通資本の担い手でなく、ブラックな精神的浮世茶屋の類いに貶める点で、この上なく有能な傾国官僚とその周辺が一掃されるとき、大学は甦る。

(2)「子どもの貧困」(『世界』二月号特集)。六人に一人の子が貧困である。一人親世帯では二人に一人だ。貧しい子どもに食事等を提供する民間の取り組み、「こども食堂」がいま全国に急拡大している。トマ・ピケティ『二十一世紀の資本』の邦訳刊行後、安倍首相が口にしなくなった言葉に、トリクルダウンがある。しかし新自由主義的政策は続ける。トリクルダウンはない。だから食堂が広まる。失策の一例だ。

「基礎的な食事のニーズ(必要、欠乏)」を満たす意義は大きいが、「食事を提供することで、子どもの貧困のすべてが解消されるわけではない」(垣田裕介「高齢者の貧困と子どもの貧困」)。「世代横断的」で「生涯横断的」な政策が必要だ。「貧困なのは子どもだけでなく」「世帯として貧困だから」「子どもの貧困だけを切り取って救うことはできない」。

ならば大人の貧困を解決しなければならない。自己責任論がそれを長く阻んでいる。近年の社会調査でも、「貧困は努力が足りないから」と考える人が「四分の一」を占めた(武川正吾「いまなぜ、子どもの貧困か」)。新自由主義者に多い「思い込み」が、貧しい子どもを追いつめる。「企業の内部留保が三七七兆円」、「四割が非正規」という現状は(中村文夫「公教育のすべてを無償に」)、政策の所産だ。米国製を買えと吠えるトランプ政権下で、対米輸出は厳しくなる。日本は内需拡大を政策にすべきだ。それは保護貿易政策を意味しない。

武川氏は、「貧困の女性化」「ワーキングプア」「子どもの貧困」が「互いに重なり合っている」と指摘する。子どもの貧困に関しては、「社会政策」による人生の「早期の段階における介入が効果的である」。例えば「子どもの学力が親の収入の影響を受けている」ことは「実証されている」。貧困は「高度な人材の輩出を妨げ」る。貧困を抜け出た子どもは「良く生きることができ」、「税と社会保険料の納付」も期待される。「子どもの福祉、社会的投資、社会支出の費用効果」から、「子どもの貧困をなくす」政策介入は「正当化」される。……なお、ようやく創設された給付型奨学金の来年度予算総額は、マサチューセッツ工科大一校のそれと同規模でしかない。子ども騙しだ。

中村氏は、従来の「貧困世帯のみに的を絞った選別主義」でなく、「誰もが享受できる普遍主義」を提唱する。前者は「給付対象にスティグマ」を与え「社会的分断」を招く。「埼玉県滑川町」は「一八歳までの医療費無料」と「幼保、小中学校の給食無償化」を実施する。「普遍主義の徹底」により「すべての子どもたちが地域への愛着をもつ」。貧困対策は「町づくり」だ。「建設国債の投資対象に「子ども」と入れるだけでよい」との井出英策氏の提言は「興味深い」。「今借金をすれば今の子どもたち、つまり将来の大人たちが返してくれる」。井出氏は別誌で、「「全員が受益者」の再分配システム」つまり普遍主義により、「分断をなくす」べきと説く(井出英策「「奪い・助ける」から「満たし・応じる」へ」『Voice』二月号)。

経済虐殺の新自由主義では、みな「忙しそうにしているくせに、何も良い結果が生まれていない」(スウィフト『ガリヴァー旅行記』岩波文庫)。ラピュータ人は思い込みの「瞑想三昧」で、現実に何が起きているか「気にもとめていない」。湯浅誠氏は、「トランプ氏に票を投じた」「プアホワイト」と、「「もやい」などに相談に来ていた」「おじさんたちが重なって見え」ると言い、「分断」に「危機感」を示す(湯浅誠、阿部彩「子どもの貧困問題のゆくえ」)。“忘れられた人びと”を生まない「地域づくり」を強調するも、「議会制民主主義は存外にあっさり壊れてしまうかもしれない」。いまやジニ係数は、再分配前つまり新自由主義的政策下では、暴動発生レベルにある。日本の未来はいかに。
2017年2月3日 新聞掲載(第3175号)
このエントリーをはてなブックマークに追加
面 一也 氏の関連記事