〈2月〉 二人冗語 主題こそが必要な形式を生み出す 松浦理英子の「わたしたち」小説 |書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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文芸
2017年2月3日

〈2月〉 二人冗語
主題こそが必要な形式を生み出す
松浦理英子の「わたしたち」小説 

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文學界2017年2月号()文藝春秋
文學界2017年2月号

文藝春秋
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馬場
今月は季刊もふくめて全九誌、三十作近く読みました。ただ読後感がキープできるといいますか、余韻を引くのは少なくて…そんななか印象に残ったのは、まず松浦理英子「最愛の子ども」(文學界)です。
福島
大御所と言ってもいい作家ですが、その瑞々しさにはあらためて驚かされました。
馬場
読み終わってしまうのがもったいないような世界観でした。高校の同級生の日夏がパパ、真汐がママ、空穂が子というように疑似家族のような関係になっていて、とりまく少女たちが「わたしたちのファミリー」と呼んでいる。この少女たち女子クラスの溶け合うような一体感は、「わたしたち」と言いながら、「わたし」を特定しなくていいという不思議な一人称複数で語られているのが大きな特徴でしょうか。
福島
この「わたしたち」には、まだ美意識を捨てていない、思春期の少女たちの間にある緊張と愛情の描きかたの繊細さ、的確さが感じられます。子供よりも大人の方が気遣いができると考えがちですが、実際は、あの時期の方が、他人の尊厳に対して、繊細な距離、うやうやしい距離を持っていたのかもしれません。
馬場
たしかに、疑似家族三人を見守る「わたしたち」は、立ち入ってはいけない部分はちゃんと「妄想」して語るんですよね。それでも展開として違和感がない。おそらく三人も妄想されても文句をいわない(笑)。「わたしたち」って特定の「わたし」が周囲を巻き込むような人称に見えますが、言葉の根源に遡ってみると、一体感のなかに溶け込む意識も表現できる。
福島
最近、やたらと話者の人称や呼称をスイッチしたり、文章を破格にしたりする、形式ありきの作品が目につきます。でも、本作品を読むと、主題こそが必要な形式を生み出すという単純な事実に立ち戻らされます。書きたい主題があって、それを丁寧に描こうとすれば、自然と形式的にも独自のものが出てくるんですよね。「文學界」で特集されている石牟礼道子みたいに。
馬場
書きたい主題といえば、羽田圭介「成功者K」(文藝)は、本人を思わせる芥川賞を受賞した作家を主人公にしていますね。
福島
「私」は最大の主題ですからね。セルフ・パロディ的な作品は他にもありました。佐々木中「私を海に投げてから」(文藝)もすごく「私」小説だったし、辻仁成「僕の父さん」(すばる)も、息子からの視点という屈折を用いながら、認知症に将来なった自分を三人称で描き出している。この父親は「愛されたいと願い過ぎ」なんて息子の婚約者に腐されていて、歌手のエコーズ時代に辻自身が絶唱していた文句を引用しているのが可笑しかった。
馬場
未来記型の私小説なんて文学史的にも珍しい。あと気になるのは、「成功者K」で、肝心の「K」の芥川賞受賞作品の内容が全く言及されていないことなんですよ。芥川賞でさえ、もはや作家と作品が何一つ関係ないというラディカルな現状認識があるのかも。太宰の時代とはえらい違いです。
福島
その点で、大城立裕は芥川賞受賞作「カクテル・パーティ」を背負い続けていますね。小説とエッセイとの隙間に自生したかのような「辺野古遠望」(新潮)は、青春期の兄との思い出から、甥へといたり、目取真俊と思しき「作家のM」を経由して、辺野古の先行きを文字通り遠望する。琉球の歴史を思い、その行く末は見届けられまい、それどころか、明日の朝を迎えられるかどうかもわからないと結ぶ「私」の姿は、まるで遺書のような書きぶりです。
馬場
沖縄の問題はテレビやニュースで断片的に語られているのを聞くだけでは、その切実な内容とは裏腹に注意を継続しにくいと思います。だけど本作はまず自身の人生の終わりを見据えた作家の沖縄への愛おしさが全面に感じられて、そのせいか沖縄の問題の歴史的遠近感が素直に沁み入ってくる。と同時に、現在の問題が鮮やかに浮かび上がって、辺野古の海が眼前に迫ってくるような、強い印象が残りました。
福島
目取真俊も「やんばるの深き森と海より」(三田文学)の連載を始めましたね。
馬場
「三田文学」といえば、先月ちょっと話題になった保坂和志の特集です。編集後記で福田拓也は「エクリチュールの逸脱・展開・意想外の接続」が「小説の枠組みを押し拡げつつ書く保坂和志の批評性」だと言っていますが…。
福島
どうして保坂はあんな書き方をするのか。本特集の佐々木敦「『あなた』のための音楽」は、彼の人気とその読みづらさ(安藤礼二の言う「苦しさ」)も含めて、保坂作品の最良の分析となっています。つまり、通常、何度も録り直し、推敲作業を行うスタジオ録音に喩えられる執筆の作業を、保坂はむしろ一度きりの即興演奏になぞらえたい。だから、途中で「こうじゃないな」と思ってもそのまま書き残すし、執筆時の「ノリ」を大事にして、飽きたらプロットを無視して全然違う話を始めても構わないわけです。多分、トークライブに一番近い。だから今回の小説「ある講演原稿」(三田文学)は、題名も内容も、観客へのウインク付きのネタばらしです。もちろん、シュールレアリストたちの自動筆記エクリチュール・オートマティックが入念な推敲を経ていたように、保坂作品も、即興作品に見せかけた綿密な計算の結果かもしれませんが。所ジョージ的な「テキトー風」…。いずれにしても、ライブ演奏のような文章に読者がついてくるのかなと余計な心配をしてしまうのですが、保坂ファンは熱心な人が多いから、やはり芸として成立してしまう。
馬場
そして今期の芥川賞を受賞したのが、本特集で「保坂さんの本を読んでぼくは小説を書くようになった」―これは題名ですよ(笑)―と豪語している山下澄人ですよね。まさに芸が伝承されているように見えます。たとえば山下は、「(ある書評に保坂について)というようなことが書かれてあった。書いてあったと記憶している。ほんとうかどうかは知らない。書かれていなかったかもしれない。ぼくはそのことをなんだかとてもおもしろいと思った」と書くわけで、この即興的思考回路の作為的描写(?)は師匠の芸そのものです。でも、私としては、受賞作の「しんせかい」は面白かったですけどね。
福島
あの作品には書かれるべき主題がしっかりありますからね。その上で、周到なボケとツッコミをはさみながら、切れ切れの記憶を表現する私小説的な語りが生み出されている。「すばる」で矢野利裕も言うように、手法だけでは限界があります。形式に批評性があっても、中身がなければ所詮退屈です。形式は主題のかわりになりません。
馬場
そういう意味で、かえって新鮮に見えたのが水原涼でした。「文學界」に「托卵」、「群像」に「蹴爪(ボラン)」を書いています。前者は出産した女性、後者はフィリピンの少年が主人公で、まったく違う。正直、作家のイメージがわかず、恥ずかしながら読後に男性作家だと知りました。その意味では私小説から遠いし、たまたまかもしれませんが、同時進行的に異なる虚構世界を発表している…。
福島
「托卵」の冒頭は迫力でした。出産の描写が当事者だけあってリアルだと思って読んでいたので、僕もびっくりしました。ただ、コインの裏表なのですが、どうして「蹴爪」で異国の物語を書いたのだろう。日本では不可能な悲惨を描くためにわざわざ海外に設定したとも言えるし、遠い他者にも想像力を介して同一化できるという力量を示すためとも思えるし…。
馬場
地震で生活が一転する少年で、作中ちらほらと日本や他国の製品、団体の存在が垣間見えて、たしか島の反対側に日本人家族が住んでいるとかもありましたね。設定が少々ぎゅう詰めなんですが、何かの縮図として読めるのかも。
福島
いずれにしても、主題と物語構築力のある作家であることは確かですね。
2017年2月3日 新聞掲載(第3175号)
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