民主主義(デモクラシー)の曲がり角で、今 『ポピュリズムとは何か』×『保守主義とは何か』(共に中央公論新社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」

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読書人紙面掲載 特集
2017年2月10日

民主主義(デモクラシー)の曲がり角で、今
『ポピュリズムとは何か』×『保守主義とは何か』(共に中央公論新社)

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英国のEU離脱に続き、トランプ大統領誕生に衝撃が走った二〇一六年、中公新書から東京大学教授・宇野重規氏の『保守主義とは何か 反フランス革命から現代日本まで』、千葉大学教授・水島治郎氏の『ポピュリズムとは何か 民主主義の敵か、改革の希望か』が刊行された。一見、保守政党の安定的な政権が続いている日本。欧州、アメリカ、南米各地で、力を強めるポピュリズム政党。今、世界で何が起っているのか。過去を丁寧に繙くことで、ようやく見えてくる現代がある。二〇一七年はオランダ、フランス、ドイツで選挙が行われ、この結果如何で、世界はさらに異なる様相を見せる。著者のお二人に対談いただき、二冊を中心に、現在の政治状況や今後についても語っていただいた。 (編集部)

ポピュリズムはデモクラシーの後をついてくる

宇野
「ポピュリズム」は最近の時勢を語るキーワードの一つで、様々な言説の中で頻繁に用いられています。しかし用い方は、かなり曖昧で、せっかくの議論も噛みあわないこともある。同じことを「保守主義」についても感じています。時代の流れの中で、本来の定義から変質してきているところはあるでしょうが、改めて過去の政治運動の流れや、思想対立の状況を押さえることは、現代に対する示唆を得る、一つの方法だと思うのです。
水島
デモクラシーが大きな曲がり角を迎えている時代ですよね。私は二〇一二年に『反転する福祉国家』という、オランダから欧州の福祉改革と移民排除の論理を分析する本を出しました。オランダという国は、安楽死にしろ、売春や同性婚にしろ、他国に先駆けて合法化しています。同時に影の部分も先進的で、二〇〇二年に右のポピュリズム政党が政権入りし、反移民政策へと舵を切りました。それがその後、ポピュリズム政党の主張の核となって、他国に波及していくのです。

そして二〇一四年にはヨーロッパ議会議員選挙で、ポピュリズム政党のイギリス独立党とフランス国民戦線が第一党になります。この事態はもはや、オランダ一国の先鋭性だけでは掴みきれない。視野を広げ、先進国に共通の現象として捉え直す必要があるのではないか、と思いました。
宇野
私は水島さんの『ポピュリズムとは何か』には、三つのポイントがあると読みました。第一に「民主主義」と「ポピュリズム」を、切っても切り離せないものとして扱っていることです。ツヴェタン・トドロフの『民主主義の内なる敵』は、私も以前から注目していました。二〇世紀には、「民主主義」対「全体主義」というように、外部の敵が論じられましたが、今はむしろ、民主主義の内なる敵として、ポピュリズムが現われているのだと。

ポピュリズムを否定して、民主主義を擁護しようという人がいるのですが、むしろポピュリズムの中にはデモクラシーに内在する矛盾が端的に表われる。例えばポピュリズムには、「政治から排除されてきた周縁的な集団の政治参加を促進する」「既存の社会的な区分を越えた政治的、社会的まとまりを作り出す」、そこから人々が責任を持って決定を下す「直接的な政治の復権を促す」という要素があると。これらは既存の政治が取り溢してきたものですよね。

第二に、南米におけるポピュリズムの「解放」の契機と、ヨーロッパのポピュリズムの「抑圧」の契機とを対置してみせたこと。

ポピュリズムは、十九世紀アメリカ西部の貧しい民衆が、東部のエリートや大企業に反発しておこった、人民党の台頭を起源とし、その後南米に広がっていく。

一方、現代ヨーロッパのポピュリズムに対し、水島さんは警鐘を鳴らしています。オランダのウィルデルスを筆頭に、デンマークやフランスにおける「反イスラム」や「排外主義」の高まりは、一見、自由・人権・男女平等という近代的価値を承認し、リベラルデモクラシーの論理にのっとっているように見える、がしかし……と。各国のポピュリズム政党が、排除を正統化する論理を手にしていることへの懸念が窺えました。

三つ目は、ポピュリズムへの対処について示された、水島さんの見解です。ポピュリズムは、ある層の人々の不安や悩みを掬い上げる機能を持っています。ですから、ポピュリズムを社会を乱すものとして排除しようとするのでなく、かといって取り込むのでもなく、その問題提起を受け止めること。既成政党が自らを鍛え直し、グローバリズムの下で置き去りにされた人々の思いを汲み取る努力をすること。そうした可能性が打ち出されていたのを、示唆的だと感じました。
水島
ありがとうございます。メディアや、政治学、社会科学においても、デモクラシーの原理をないがしろにして、独裁政治を喝采によって制度化しようとする動きがポピュリズムである、という見方が強いですよね。普段は政策や政局に対する意見で真っ向から対立する読売新聞と朝日新聞も、ポピュリズムを大衆迎合主義として批判する点では、奇妙に一致しているように見えます。これは、現実の政治でも、保守政党と左派政党が一致してポピュリズム政党を批判する、そのメディアバージョンではないかと。

現代のヨーロッパでは、排外主義的主張を掲げる右派的なポピュリズム政党がほとんどなので、デモクラシーの落とし子とは、なかなか思ってもらえません。しかし歴史的に見ると、ポピュリズムが、常に反移民、反マイノリティであったとは言えないのです。

南米には、社会経済上の圧倒的な不平等から発する、特権的エリートや既成政治への反逆という、ポピュリズムの契機がありました。また現在でも、その土壌は存在しています。背景が違うので表われる政治経済的な状況は異なりますが、ヨーロッパにも「抑圧」の契機のみならず、反エスタブリッシュメントのロジックは存在します。そうした多面性をみなければ、ポピュリズムの本質は理解できない。「ポピュリズムはデモクラシーの後を影のようについてくる」と言われますが、二十一世紀型デモクラシーの中から生み出された新しい存在として、ポピュリズムを見なければいけないと思っています。

グローバリズムの下で忘れられた人々の存在

宇野
ポピュリズムに対するマス・メディアの姿勢の一致から見れば、日々紙上で繰り返される政局論議は、右も左もエスタブリッシュメント側の言説であると言えるのでしょうね。トランプは、マス・メディアは既得権であり、既存のエリートたちの言説を反映し、グローバリズムの下で痛めつけられ、忘れられた人々の声は代弁していないと主張します。だからこそ記者会見をやらず、ツイッターで人々にダイレクトにメッセージを届け続けた。そしていわゆる「サイレント・マジョリティ」たちは、トランプが自分たちの思いを代弁してくれている、と喝采を送ることになる。

今や右か左かの対立のみならず、エスタブリッシュメントかそうでない側か、という対立が、立ち現われてきているんですね。
水島
二〇世紀型の政治の在り方が、二十一世紀になってかなり崩れているにも関わらず、それを見る眼鏡は過去のままではないか、という気がしています。政治社会的な構造として言われてきたのは、政党は基盤となる利益団体や支持団体を持ち、支持団体の下に人々を掌握する。その仕組みの中で上がってくる声を取りまとめ、政策を統合し、結果、政党はデモクラシーの中心で力を発揮できると。政治はこれまで、そのような構造として、捉えられていたと思います。
宇野
今でも政治学者には、そのイメージが強いかもしれない。
水島
しかし、かつてのように、誰もが労働組合、農業団体、中小企業団体、専門職団体、さらには地元の自治会といったものに所属する時代ではなくなっていますよね。二〇世紀は既成の団体の力が強かった時代です。しかもそうした既成団体は、政党と繋がることで利益を擁護してきた。団体は政党を支持し、政党は団体に利益をもたらす。保守政党、左派政党を問わず、そのようにして安定的に成り立ってきたのです。

ところが一九九〇年代後半以降、グローバリゼーションの波の中で、その仕組みが崩れていく。今ではグローバリゼーションに対応することが、右派も左派も、政治エリートの至上命題になっているのです。そういう流れの中で、足元の社会と政党がかけ離れてしまう。一方で既成の団体も足腰が相当弱っていて、人々のアイデンティティを組み取る力がない。

今の若い人々は、既成の団体に入るよりも、個人でSNSなどを活用して、ネットワークを作っていきますよね。切り捨てられたサイレント・マジョリティは、ツイッター等で直接ポピュリストリーダーへ繋がります。アメリカではトランプが有名ですが、オランダでは、右のポピュリズム政党のヘールト・ウィルデルスに七〇万のフォロワーがいます。オランダ語で発信しているので、フォロワーのほとんどがオランダ人。オランダの人口一六〇〇万人を、日本の人口に比例すれば、五〇〇万人以上のフォロワーがいるということになります。

こうした事態へのマス・メディアの本能的な反発が、ポピュリズム批判となってメディアから発信されている、とも言えるのではないでしょうか。

ポピュリズム政党からデモクラシーへの可能性

保守主義とは何か(宇野 重規)中央公論新社
保守主義とは何か
宇野 重規
中央公論新社
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宇野
人それぞれに社会経済的な立場があり、固有の利害や価値観があって、それを政党が集約し代弁し、最後に政党間で討議、調整を行うことで、社会的な一定の合意が得られるという、そういう民主主義のモデルがありました。でも今は、労働者であれば、おのずと労働組合を価値づけし、その評価の元に福祉国家を支持するかというと、そうではなくなっているんですよね。

今回、トランプを支持した人々は、本来であれば労働組合を支持し、リベラルな民主党を支持してしかるべきだったのに、ヒラリー率いる民主党を既成エスタブリッシュメントの政党であるとして退け、共和党の中でも異端なトランプを代弁者と認めた。実際に彼の目指す政策が、衰退の一途を辿るラストベルトの人々を救うことができるか分かりませんが、それをメディアがいくら声高に語ったところで、人々はその言葉を受け入れません。

その上でお伺いしたいのは、水島さんはポピュリズムの定義として「下」からの契機を強調しておられます。「ポピュリズムは民衆の参加を通じて「よりよき政治」をめざす、「下」からの運動である。そして既成の制度やルールに守られたエリート層の支配を打破し、直接民主主義によって、人々の意思の実現を志向する。その意味でポピュリズムは、民主的手段を用いて既存のデモクラシーの問題を一挙に解決することをめざす、急進的な改革運動といえるだろう」と。しかし、今回のトランプ旋風のような一連の動きは、本当に「下」から民主的に押し上げられたものなのか。トランプというカリスマを持った人物が、ツイッターなどで巧みに煽動し、操作した結果なのではないか。
水島
ラテンアメリカでもヨーロッパでも、ポピュリズムが各国で躍進する最初期には、必ずカリスマ的なリーダーが存在して、サイレント・マジョリティにヴォイスを与えることが、必要条件となっています。ところが、カリスマ的なリーダーがいなくなれば、その風が止むかといえば、どうも違うようなのです。

日本では橋下徹がいなくなっても、大阪維新の会は勢いを減じていません。フランスでは、三十年に亘って国民戦線を率いたジャン=マリー・ルペンが引退しましたが、初代のようなカリスマ性はなくても、よりモダナイズされた娘のマリーヌ・ルペンへ継承されています。彼女は、リベラルデモクラシーの論理で、フランスのイスラム化を問題視し、グローバル化批判やEU批判を全面的に出すことにより、置き去りにされた人々に配慮すべきことを訴えます。そのようにして、人民の代表の立場を表明し、初代ができなかった極右的なイメージを払拭して、支持を増やしているのです。

オランダのフォルタイン、オーストリアのハイダーなど、各国のポピュリズム政党で、初代のカリスマリーダーが未だに留まっているところはほとんどありません。しかし現時点で、ポピュリズムは各国でかつてない支持を誇っています。

つまりポピュリズム政党は一過性の存在ではなく、今後も継続的に影響力を保ちうる、社会的な基盤を、既に持ち得ているのではないかと。呼び覚まされたサイレント・マジョリティは、リーダーなき後もヴォイスを続けます。上からの操作だけに注目してしまうと、ポピュリズムの抱える強いエネルギー源のようなものを、見失ってしまうのではないか、と思うのです。
宇野
最初期にポピュリズム政党を支持していたのは、グローバル化の下に、既成の社会集団から外れてしまった、アイデンティティに揺らぎのある人々ですよね。そこには、統一された主義や主張があったわけではない。ところがそうした人々が、自分たちを代弁してくれるポピュリストリーダーを支持してみると、集団としての結集力に似たものを持つようになり、それが以後も一定期間持続すると。面白いですね。

私は『〈私〉時代のデモクラシー』で断絶され砂粒化した人々が、如何に「私」意識を持って相互に繋がり、「私たち」のデモクラシーを打ち立てることができるか、ということを考えたのですが、カリスマ的なポピュリストリーダーを媒介に人々が繋がることで、デモクラシーに通じる可能性があるかもしれないのですね。

ただやはり疑問なのは、この理論はアメリカの場合にもあてはまるのか。仮にトランプが失脚したとして、彼を支持するポピュリストグループは、共和党を乗っ取ることになるのか。もしくは第三政党として展開するのか。
水島
選挙制度が与える影響は大きいですよね。アメリカの場合は、民主・共和二大政党が一五〇年間続き、第三党をほとんど寄せ付けていませんから、世界でも極めて特異です。政党組織が、ヨーロッパと違って緩いので、百数十年前にポピュリズムの人民党が民主党に取り込まれたように、既成の政党内にポピュリズム的要素が取り込まれる可能性はあります。

他方で、アメリカのポピュリズムについては、サンダース現象も見る必要がある。ヨーロッパでは右派的なポピュリズムが、ラテンアメリカでは左派的なポピュリズムが強く、アメリカはハイブリッド型だと考えています。先進国なので移民問題に対する右派的な反発も起これば、新大陸ゆえに所得配分の格差問題で、左派的なポピュリズムが出てくる余地も十分にある。

実際、今回の大統領選挙では、右派と左派のポピュリズムが、合わせ鏡のように出てきましたね。このことは、既成政党にとって大きなチャレンジであって、現時点で、民主党はサンダース支持者の取り込みが課題です。今後、共和党も民主党も、それぞれのポピュリズム支持層を取り込むことに、相当のエネルギーを割かざるを得ないのではないでしょうか。政党制そのものが崩れるとは思いませんが、二大政党の内的な変質はあると思います。

また、日本でなぜ英欧米に比べてポピュリズムの進出が相対的に遅く、しかも局地に限られているかといえば、やはりグローバリゼーションに晒される度合いが弱いという点が大きいですよね。日本にはまだ、二十一世紀型のポピュリズムが全面的に開花するほどの社会的な状況は揃っていません。ですが、この先は分からないですね。

フランス大統領選挙、その行方

ポピュリズムとは何か(水島 治郎)中公新書
ポピュリズムとは何か
水島 治郎
中公新書
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宇野
確かに日本ではそこまで極端にポピュリズムが進んでいませんが、橋下徹氏にしても小池百合子氏にしても、ポピュリスト的な存在は、すでに現れています。安倍首相の「日本を、取り戻す」も、ポピュリズム的な言説です。ただし、今のところ、既成エスタブリッシュメントである安倍政権自体がポピュリズムを部分的に取り込み、ある意味で右派ポピュリズムの台頭を抑え込んでいるとも言えます。ポピュリズムに民主主義の矛盾が表れるのだとすれば、それを抑え込んでいるのは、皮肉な事態といえるかもしれませんね。

さて、二〇一七年は欧州で大きな選挙が目白押しです。三月にはオランダ総選挙、四月のフランス大統領選挙、六月にフランス国民議会選挙、夏から秋にかけてドイツ連邦議会選挙と続きます。気になるのはやはり、フランス大統領選挙です。その行方によっては、EUが崩れ、ヨーロッパがますます混迷にいたる。マリーヌ・ルペンが当選するかどうかが最初の試金石となります。

国民戦線のルペンは右のポピュリズムで、中道右派の共和党候補にフランソワ・フィヨンがいます。第三候補のエマニュエル・マクロンは、社会党から飛び出し、第三勢力的な草の根運動を展開しています。そして社会党は不人気のオランド大統領が出馬を下り、左派ポピュリスト系のブノワ・アモンが候補となりました。

つまりフランス大統領選の候補も、既存政党の右派と左派、かつポピュリスト系の右派と左派が出ることになった。フランスの大統領選は、第一回投票では決まらず、二回目に連合を組むことになるので、その組み合わせ次第でどう転ぶか分からなくなっています。

米大統領選では、サンダースを支持した人たちが、大統領選でヒラリーに投票したかといえば、エスタブリッシュメントを押したくない、とトランプに有利に働いた。フランスも右のポピュリズムだけだったら、ルペン対既成政党の闘いになりますが、もしアモンが敗退したら、その票はマクロンに流れるのか、それともルペンに流れるか。
水島
フランスの場合、ドイツの社会民主党のようには、既成の左派がガッチリとした政党を作っていません。そのため、常に左派の競合があったと思うのです。ただ今回は、EU問題とマリーヌ・ルペンの躍進といった事態を受けて、左派もポピュリズム的なエネルギーを持った人物でないと対抗できないと。そういう意識の持ち方が、今後強くなってくる可能性があります。そうなると、左派ポピュリスト対右派ポピュリストの闘い、という可能性があってもおかしくない。
宇野
ヨーロッパで排外主義的な右派ポピュリズムばかりが注目されますが、右派の伸張で、左派ポピュリズムも力を持つ、というわけですね。厳しい緊縮財政に対して、人々が生きていくための基本的な資源=ベーシックインカムを、国に保障させるというのは、グローバリズムに痛めつけられた人々に対するリアクションとしても、今後有効になっていくと感じます。
水島
ポピュリズムは決して新しい動きではなく、既に正当化され、定着していると思うのです。二十世紀型の右対左という対立と同等に、今後はポピュリズム対反ポピュリズムと、四つの対立軸で考えるようになっていくのではないか。

それはある意味で、労働組合も組織できないようなアンダークラスも、マージナル層も、それぞれが代表者を持ち選挙に参加できる状況なのだと、私は見ています。

冷戦の終結で、社会主義をイデオロギーの核にしてきた左派政党が打撃を受け、対する保守政党も存在の根拠を見失った。同時にグローバル化とEUの統合で、左派と右派の対立が曖昧になったため、第三極の出る余地が生まれた。それが先進国でポピュリズムが広がる背景となりました。 つまり現在は、デモクラシーも曲がり角なら、保守主義も危機に瀕している。宇野さんの『保守主義とは何か』には、多くの示唆をいただきました。

何を守るのか信念ある保守主義の欠如

宇野
同時期に水島さんも、『保守の比較政治学』を刊行していますよね。
水島
奇遇ですね。保守政党の研究は、ヨーロッパ政治研究の中であまり人気がない分野です(笑)。やはり左派政党、社会民主主義に対する憧れが強い。しかし現実には戦後、ヨーロッパの政権の半分以上を保守政党が握ってきたし、二〇一〇年代にも、日独英三大国で、保守政党が政権を握っている。そうした状況の下では、左派だけ見ていても、世界の動きは十分には理解できないでしょう。

保守主義といっても、ドイツではメルケル政権の元で、原発全廃や百万人に及ぶ難民の受け入れが進みました。宇野さんの本に強調されるように、保守主義には本来、守るためにこそ改革する動きがある。そこを見つめないと、現在の政治状況は理解できない気がします。
宇野
今までの保守主義についての本は、保守主義者が自らの立場の正当性を語るものか、もしくは進歩主義者が保守主義を病理として、否定的に論じるものかのどちらかでした。それはどちらも違うだろうというのが、今回、僕がこの本を書こうとした経緯です。自分は保守主義者ではないけれど、保守主義の思想には叡智が含まれている、そのことを認めた上で、議論したいと。
水島
保守主義といえば、やはりエドマンド・バークですよね。宇野さんもバークという出発点の再定義から、エリオット、ハイエク、オークショット…と論を転じていかれます。
宇野
バークは知れば知るほど、興味深い人物です。彼の語る論理を、いわゆる保守主義者たちがきちんと捉えているかというと、非常に怪しいと思うんですね。彼をのちに保守党になるトーリ党員だった、と勘違いしている人がいますが、実際はのちに自由党となるホイッグ党員で、生涯の大半は野党暮らしでした。しかも彼は、当時の国王、ジョージ三世を激しく批判したのです。これは日本人の考える保守主義と全く違うのではないでしょうか。   

彼が保守しようとしたのは、単なるナショナリズムでもなければ、国王でもありません。バークには、名誉革命で打ち立てられた政治体制が、人々の自由を保障するきわめて安定的なものである以上、それを保守すべき、という判断が明確にありました。国王自らがその政治体制を壊す存在であるならば、それと闘うことが保守派なのだと。

本来の保守とは、過去に勝手な理想を見出す懐古主義者でも、意味もなくそちらに戻ろうとする復古主義者でも、ましてや排外主義者でもありません。

バークはまた、アメリカ独立では、「代表なくして課税なし」の声に対し、植民地人を含めてすべての人間を人間らしい境遇に置くことを重視し、英国の優越はアメリカの自由と両立すべきだと、それを支持しました。バークは、古いものをそのまま維持することを「保守」と考えてはおらず、守るためには、時代に即し修正・変革していくことの必要があるとしています。

しかし、フランス革命については、これを否定します。なぜかといえばこの革命が、王国の過去の原理の回復ではなく、歴史の断絶としてなされたものだったからです。過去を継承せず歴史に根拠を持たない、抽象的な原理に立脚する革命で、政治社会の連続性を否定すべきでない、と。これは傾聴に値する議論です。

つまり自分は保守主義者だ、と言うのであれば、まず何を守るつもりなのかをはっきりせよと言うことです。抽象的な理念で、「日本を、取り戻す。」とか、「美しい日本」とか言ってもダメだと。具体的な現行の政治制度を守り、その良い部分を伸ばしていくために、何を修正するのか考えるのが、保守主義者たる所以です。ところが日本の保守政権は、むしろ現行憲法に対する正当性を疑って改憲を主張し、現行制度とその精神からの断絶を企てています。それは、少なくとも、バークの語った保守主義ではありません。

保守主義本来の叡智を確認した上で、現在、保守を自称する人たちの思想と比べ、差異を浮き上がらせることができれば、と考えました。
水島
保守主義が存在するためには敵が必要で、進歩という強力な理念への対抗軸として、保守主義が力を持つ、という関係性がありますよね。ところが現在は、未来が見えず進歩的な思想も力を失っている。それに伴って、保守主義も何を保守すべきか分からなくなっている。先ほど話した通り、こうした状況は、ポピュリズムが出てきた背景とも重なります。
宇野
おっしゃる通り、最初はフランス革命、次は社会主義、二〇世紀になってからは、「大きな政府」を擁護するリベラリズム、と進歩主義的な対抗原理があってこそ、保守主義は成り立ってきました。つまり保守主義には、必ずしも自ら積極的なアイデンティティがあるわけではない。

保守主義者の権化のように言われる福田恆存ですが、保守というのは態度であって、主義ではないと言っています。つまり、進歩主義というものに対して待ったをかける、精神的な態度のことを保守というのだと。また、戦前から戦後へ、観念が書きかえられてしまったこと、日本には断絶せずに続いている伝統や歴史がないことを嘆きます。福田とは対照的に、丸山眞男は、日本の過去や伝統を克服すべき対象と捉えました。けれど一方では、「信念ある保守主義」の欠如を嘆いてもいた。まずはこの国の尊重すべき原理をはっきり示さねば、それに対する批判もできないと。

アメリカの場合は、大都市のエリートに対抗する自立自存の人間=セルフメイドマンという、理想の人間像があります。またキリスト教精神という根強い規範も存在します。比べて、日本人の保守すべき原像は極めて曖昧です。そのためジェンダーや在日などの仮想敵を叩くか、「美しい日本」のような、共有されない幻想を持ち出す。私は、保守主義が一番劣化しているのは、日本ではないかと思っています。
水島
宇野さんは、保守主義とは「(1)具体的な制度や慣習を保守し、(2)そのような制度や慣習が歴史のなかで培われたものであることを重視するものであり、さらに、(3)自由を維持することを大切にし、(4)民主化を前提にしつつ、秩序ある漸進的改革を目指す」とまとめておられます。それに照らしても、日本の保守主義は危機的な状況にありますね。

一方、今、ヨーロッパの保守が仮想敵としているのは、イスラム教徒です。おそらく、ヨーロッパの保守にも、闘うべき強力な相手がいなくなって、その中で九〇年代以降見出したのがイスラムだった。ヨーロッパの保守派は二〇世紀の間、イスラムをターゲットにすることはほとんどなかった。ところが今では、イスラムの脅威からヨーロッパが培ってきた自由や人権を守れ、と。何とか自分たちの基盤を立て直そうとしている感じがするんです。

二十一世紀型 デモクラシーを模索する

宇野
現在、保守主義が優勢な状態が続いていることを、私は逆手に取ろうと思っています。未来像に向かって人々が結集するのは難しい時代ですから、進歩よりまず、具体的に守るべきものを明確にしてみないか、と。
水島
映画「君の名は。」をご覧になりましたか? 僕はこの映画が、ある意味で、日本を考える重要なヒントを与えてくれていると思うんです。舞台は煌めく大都市と過疎に悩む地方で、二つの土地に住む男女の心と体が入れ替わることで、街と町が繋がっていく。そして繋がった心が、最終的に町を守る。
宇野
映画といえば「シン・ゴジラ」も話題になりましたよね。外からゴジラという敵がきて、国内が始めは危機的な状況になるけれど、最後には官僚のエリート路線からあぶれているような人たちが結集して、事態を解決していく。それはある種、現代の日本人の幻想なのかもしれない。
水島
「シン・ゴジラ」も「君の名は。」も、キーワードは「守る」ですよね。
宇野
確かにそうですね。今の時代は、何かを守りたいという思いを活動エネルギーにしないと、人を動かす物語にはならないのかもしれませんね。「この世界の片隅に」も含めて、日本人が守りたいものは何ですか、という模索のかたちが表われている気がする。どれもきれいな結論は出ていませんが、この問いから始めるしかないのだと思います。
水島
国内のメディアにしても既成政党にしても、従来の在り方をそのまま続けていては、未来はないですよね。ただ二〇世紀的なものを捨てさるべきかというと、そうとも言えない。例えば今、ラジオは若者層の視聴者が増えています。インターネットやスマホを見ながら、ラジオを聴くというスタイル。そのように現代的な皮袋に放り込むことで、再編し生き延びるものがあるかもしれない。政党や既存メディアが再び個々人と繋がる手段も、ポピュリズムの功罪を若い人に発信する手立ても、保守すべきものを議論する手立ても、探ることはできるのではないかと。
宇野
私は、日本のデモクラシーの今後について、三つのシナリオを考えています。一つは水島さんが一番いいシナリオとして描いているのと同じ、既成政党が自らの感度を高めて、現在の枠組みでは救えていない人々の思いを受け入れ、新たに人々の代表となるべく自己改革をするというもの。既存の政治システムのバージョンアップの可能性が一つ。

二つ目は、ネット上か、草の根運動か分かりませんが、人々の民意をもう一度集約する仕組みが、既存の政党の外部に発展するというもの。ヨーロッパの左右のポピュリズムが活性化させた、新しい直接民主主義なのか、より洗練された代議制民主主義なのか。新しい回路の発展の可能性がもう一つ。

三つ目は、人々がバラバラに砂粒化したまま、国家や世界が迷走し、行き着くところまで流動化していくという最悪の予見。

日本は、世界の中では相対的には安定しているので、第三の選択肢には陥らないだろうとは思いますが、既存の政治制度が、時代や人々の晒されている現実に、柔軟に対応できているかというと、できていない。既成の外に新しい民主主義の仕組みが生まれているかといえば、今のところは把握できない。世界はもっとぶれていて、流動化へ向かうところが徐々に増えてくるように思うんです。
水島
第三のシナリオは、ある意味では有力ですよね。二〇世紀型の社会では、国民国家からなる国際システムが、安定的に成り立っていたわけですが、今やWTOやEUといった国家を超える機構がある。かと思えば、国家の外にNGOやグローバル企業といった様々な主体が働いている。さらに国家の下で都市や地域が活性化し、スコットランドやカタルーニャでは独立に向けた動きもある。かつては国際社会の唯一の主体だと思われていた国家が上からも下からも掘り崩されている。こうした国民国家システムの揺らぎの中に、ISも生まれている。従来の国家を否定するという意味では、民族運動や地域の独立運動も、同じ根を持っていると思うんです。既に流動化はヨーロッパ各地で進んでいるけれど、ここで諦めてしまわずに、新しい秩序を生み出すべく、知恵を捻らねばなりませんね。
宇野
一九七九年以降、サッチャー政権、レーガン政権が生まれ、新自由主義が始まり、中国では鄧小平の改革開放路線が加速化し、一方ではイランでホメイニ革命がおきて、イスラム化が強まった。この時期から始まる世界の変動が、二〇一六年に一周したように思います。グローバリズムと宗教復興、イギリスとアメリカ社会の大変革……この先、一気にグローバリズムが後退し、世界がバラバラになるとは思いません。ただグローバリズムの一周目のモデルには、もう限界が来ている。二周目のモデルはまだ見えないため、第一と第二のシナリオ、両にらみでやっていくしかない。

私は、政党政治や議会制システムを前提に、その立て直しにそれぞれの国が責任を持ってほしいと思っています。今後、ロシア、インド、中国といった民主主義でない大国が、世界を引っ張っていくことになる。それを考えても、各国に、改めて民主的な政治制度の立て直しを、と言いたい。
水島
人口から考えると、デモクラシーの国はまだ世界の一部に過ぎないとすれば、そこをどう捉えるかということも、我々政治学者が、分析できていないところですね。
宇野
そうですね。ロシアや中国のような国が、世界の中心におさまるという意味で、近代の政治学が前提とした枠組みが崩れることを、織り込まなければならない。でも前提を放棄すべきかといえば、そうではなくて、この三世紀ぐらいの間に、近代西洋諸国が作り上げた自由民主主義のモデルを基礎に、バージョンアップを試みること。その立場を堅持したいと思っています。
水島
今回、我々は『保守主義とは何か』『ポピュリズムとは何か』で、問題の洗い出しをしました。この二冊には、今後の方向性がいくつか暗示されていると思います。二十一世紀型のデモクラシーに、どんな仕組みがあり得るかを考えるのは、今後の課題ですね。
宇野
二〇一五年は世界各地でテロが起こり、二〇一六年は大変動の年でした。二〇一七年が壊滅的な年だった、とならないように、民主主義の二周目モデルを、模索していきたいですね。 
以下のオンライン書店でご購入できます
2017年2月10日 新聞掲載(第3176号)
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