《パスカル「パンセ」を読む》|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 特集
2017年2月10日

《パスカル「パンセ」を読む》

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昨年十一月十九日、東京大学本郷キャンパスで、「集英社高度教養寄付講座 第七回講演会――パスカル『パンセ』を読む」が開催された。前半は、先頃『パンセ』全三巻を翻訳刊行した塩川徹也氏の講演、後半は塩川氏と野崎歓氏の対談が行われた。塩川氏と野崎氏の対談を載録させてもらった。塩川氏の講演は、近日、こちらのサイトで公開予定 (編集部)
近い/遠いパスカル

野崎
塩川先生のご高訳による『パンセ』全三巻は、これまでの素晴らしいキャリアの上に輝く冠のような印象を受けました。非常に透明度が高い翻訳であり、すっとわかる感じがあります。また、直接教えを受けた人間にとっては、『パンセ』を読みながらも、塩川先生の声が聞こえてきて、先生ご自身が語っているような感じがするんですね。塩川先生すごいこと言っているなと(笑)、そういう気持ちになってしまう本です。先生のパスカル研究の中では、「権威」というテーマが大問題としてあるように思います。イエス・キリストが存在したことが、どういう権威によって裏付けられるか。誰が証人となりうるかという問題です。我々にとってイエスの問題は難しいのですが、パスカルに関しては、塩川徹也という権威が存在することが、二一世紀の日本でパスカルが読まれ、考えられる上で何ともありがたいことであると思います。

塩川訳で『パンセ』を読むと、パスカルが近く思える瞬間が多々あり、興奮します。フランス文学を勉強している者としては、これはまるでボードレールじゃないかとか、ここのところはルソーの『不平等起源論』の冒頭を思わせるじゃないかといった箇所が、次々に出てきたりします。歴史が逆になっている感じさえしますが、もちろん後代への影響がいかに大きいかということですね。あるいは人間の悲惨を鋭く訴える『パンセ』を読むと、サルトルやカミュと直結している。というよりも、昔から言われていることですけれども、実存主義の王者は、実はパスカルだったんだなと、改めてそう思わざるを得ません。そういう意味では、非常に近い存在として、パスカルをもう一度受け取ることができた。

同時に、パスカルは、遥かに遠い人だという気持ちも否めません。どういうことか。これだけの天才で、まったく古びない。フランス語の表現で言えば、パスカルの文章には「皺一つできていない」。十七世紀の文章であるにも関わらず。そういう感触を覚えます。ただ、どうしてこれだけの天才が、自分の生きた時代と社会の制約に殉じたんだろうという思いも抱いてしまうんですね。いわばキリスト教原理主義者としてのパスカルの顔。それは非常に遠いものに思えます。その近いパスカルと遠いパスカルの共存にどう立ち向かえばいいのか。近いパスカルは、本当にいいことを言っていると、つくづく思います。塩川先生の講演でも触れられていましたが、「人間の研究」という点で、ここまで素晴らしい表現を示した人はいない。そう思えるパスカルがいる。これは素直に読めるパスカルです、また一方で、逆のパスカルがいる。今の読者として、素直に読めないパスカルです。なんて嫌な人なんだろうという印象を禁じ得ない部分さえあります。この人は、なんてにべもない、救いのないことを言うのだろうか。そういう面もパスカルにはあると思います。この危険なパスカル、ダークなパスカルについても、後ほどお聞かせください。

講演のはじめに、『パンセ』は、岩波文庫の「青帯」に分類されているという話をなさいました。哲学・歴史・宗教のジャンルに属している。モンテーニュは「赤帯」(文学)である。この話に合わせて言うと、僕が近いと感じるパスカルは、「赤」のパスカルなんです。でも、ちらちらと「青」のパスカルが出てくる。その時に、こちらはヒヤッとするんですね。ただ、そうやって僕自身が近いと感じたり、遠いと感じたりするのも、「今ここ」という限界にとらわれている何よりの証拠であろうと思います。塩川先生の研究を紐解いていくと、そのようなレベルで自足していては見えないものがたくさんあることを教えてくださっています。今回『パンセ』を読みなおしてみて、普段自分が文学にアプローチしている方法とは違うアプローチの仕方が必要だと、改めて教えられた気がしています。

まずは、具体的にいくつかの断章を取り上げて、質問させていただければと思います。「クレオパトラの鼻」。これこそ、我々にとって一番近くに感じるパスカルです。特にフランス語をやっている人間にとっては、そうなんじゃないか。僕らが学生の頃は、フランス語の文法を一通り終えると、教科書の最後に「名文句」が載っていました。そこにパスカルが出てくるわけです。フランス語を習いはじめて数カ月でパスカルの言葉がわかる。すごく嬉しかった覚えがあります。パスカルのフランス語は、こんなにも透明なんだと、強く印象に残りました。今回、ご高訳を拝見して、本当に透明だったのかと問いかけられた気がします。「クレオパトラの鼻。もしそれがもう少し小ぶりだったら、地球の表情は一変していたことだろう」という翻訳をなさっています。我々が慣れているのは、広辞苑に載っている文章です。「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら、世界の歴史は変っていただろう」。ここで、ふたつの問題が考えられます。ひとつは、フランス語を直訳すると、「短い」になるということです。英訳でも「shorter」になっていると思います。ただ「鼻が短い」という言い方は、日本人はあまりしないし、一体何が言いたいのだろうと思ってしまう。「鼻が短い」と言われると、やはりあまり美しくない顔を想像したりしますが、「小ぶり」とお訳しになったのは、美醜の決め手としての鼻の長い短い、高い低いというところから、話をずらそうという思いがあったのでしょうか。
塩川
まさにおっしゃる通りです。パスカルが選んだ「court」(短い)という言葉は、極めてニュートラルな、フランス人が普通に使う形容詞ですね。この言葉について、私も多くのフランス人に聞いてみたんですね。鼻が短くなることによって、クレオパトラの美しさを減じることになるのだろうかと。これまで要領を得た答えは返ってきていませんが、最近、あるフランス人に言われてなるほどと思ったことがあります。もし「長い」と書いてあっても、同じことなんじゃないか。つまり、元々クレオパトラは絶世の美女なんだから、どちらに変わろうとも美しくなくなる。そういう考え方もできる。しかし「短い」にしても「長い」にしても、ごく平凡な形容詞であって、「地球の表情は一変していた」という表現に比べると、非常にわかりやすい。「高い/低い」は、三次元で見ないとわからない。けれども「長い/短い」という言葉であれば、人間の「顔」の小さな表面に起きる変化であることもわかるし、それが「地球」というマクロの場所に生じる変化とも対応している。とても便利な形容詞だと思いますね。
野崎
「クレオパトラの鼻がもしもう少し長かったら」でも同じ文脈になるというのは、非常に面白い話ですね。
塩川
鼻の短いか長いかで、美醜がどう変わるか、私にも本当のことはよくわかりません。フランス語の本を読んでいると、たとえば長い鼻のおばあさんに対して、魔法使いみたいで嫌だと、子どもが嫌がる場面が出てきたりしますね。必ずしも長ければいいということではない。短い方が、いいこともあります。日本語の場合、鼻については、「長い/短い」とは言わずに、自然と「高い/低い」という形容詞を使います。これは言語の問題であって、逆にフランス語では、日本語の「高い/低い」にあたる形容詞で、鼻の形を形容することができないということはあります。
野崎
表現のシステムの違いが、如実に反映されてしまうわけですね。その時に、日本語にあえて訳す時にどうするか。「小ぶり」とすると、鼻によって美醜が決定されるというニュアンスが薄まる気がしますね。
塩川
この断章については、私どもの共通の恩師だった、フランソワーズ・ブロック=サカイ先生の言葉をよく覚えています。「美醜には関係ないかもしれないけれど、女王なんだから、鼻が短くなったら尊厳は少なくなるかもしれない」。確かそんなことをおっしゃっていました。

大古典を論じる醍醐味

パンセ 上(パスカル)岩波書店
パンセ 上
パスカル
岩波書店
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野崎
もう一点うかがいたいのですが、講演の中で、夏目漱石の翻訳について触れられていました。漱石はパスカルの言葉を次のように訳した。「若しクレオパトラの鼻が少し短かったならば世界の表面に大変化を来したろう」。休憩時間に柴田元幸さんと話をしていたら、この訳がなぜいいのかという話になったんです。これは、ある意味では直訳ですよね。
塩川
「世界の表面に大変化を来した」というところを、私は「地球の表情は一変していた」と訳しています。広辞苑では「世界の歴史が変わっていただろう」と、言葉を変えてしまっていますね。フランスでも、辞典で紹介する時などには、「歴史は変わった」とパラフレーズすることはあります。しかしここは、原文では「face」(顔、顔面、表面)という言葉が使われています。必ずしも顔の「表情」を表わす言葉ではありませんが、英語の「face」と同じ言葉です。直訳すると、「地球の顔面の全体が変わっただろう」となる。クレオパトラの鼻というよりは、彼女の顔全体が、地球の「表面」と対比されているわけですね。そのことを少しでもわかっていただけたらと思って、このように訳したわけです。漱石先生も「世界の表面」と訳していますから、なかなか見事だと思ったんですね。
野崎
「クレオパトラの鼻」問題に関しては、『パスカル考』の巻頭に収録されている論文が面白くて、同書のフランス語版にはさらに面白い論文が入っています。「日本では、鼻が大きいのは絶倫の印」だとか(笑)、塩川先生の論文としてははじけたところがある。こういうひとつの問題をとっても、日本人がフランスの大古典を論じる醍醐味を、僕は感じるんです。ただ同時に、日本人の立場でパスカルを論じることの意味についても、考えざるを得ません。そう考えること自体で、論点を狭める恐れがあることを承知でおうかがいします。現在では、フランス文学研究者もフランス語で発表することが当然の前提になっています。日仏の交流も活発です。それでも、パスカルには特別な意味があるように思えてなりません。つまりパスカルには、はじめに申し上げたように、素晴らしい表現、人間観察の鋭さがあるんだけれども、同時にパスカルが持つ「キリスト教護教論」の部分を、どのように理解すればいいのか。どうしても悩んでしまうわけです。塩川先生は、そこをどうお考えになってこられたのでしょうか。

キリスト教護教論

パンセ 中(パスカル)岩波書店
パンセ 中
パスカル
岩波書店
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塩川
野崎さんがおっしゃったように、パスカルには、近いパスカルと遠いパスカルがある。遠いパスカルは、危険なパスカル、邪悪といったら語弊があるけれど、付き合いきれないパスカルであり、拒否反応を示されてもおかしくないと思います。私にしても同じことです。少しざっくばらんに話したいと思います。私がどういうふうにパスカルに出会ったのか。この話からはじめます。高校二年生の時、京都に修学旅行にいった時のことです。新幹線が開通する前ですから、帰りは夜行列車に乗って帰ってきたんですね。その時に、徹夜で読み耽ったのが、新潮文庫版の『パンセ』(津田穣訳)でした。それがパスカルとの最初の出逢いです。当時の私は、とても悲観的な少年だったんですが、パスカルの本を読むと、自分のちっぽけな悲観がふっとんでしまうような、規模の大きい徹底的なペシミズムと絶望、そしてそれに拮抗する慰めと希望が書いてありました。そこに引き寄せられて、パスカルを読みはじめたんですね。大学入学の時には理科系に進みましたが、その後、理科が自分には全然合わないことがわかって、パスカルの専門家である前田陽一先生につくために、フランス科に移りました。

卒業論文の段階で言えば、結局は、自分の一番好きなパスカルについて書くことになります。言ってみれば、著者に宛てたラブレターであって、パスカルを読んで感動した部分だけを書くわけですね。もちろん、好きなところだけしか書いていないから、後で読み返してみると、気恥ずかしくなる。そこで今度は、この人は自分とまったく違う人なんじゃないかと考えてみるようになったんです。パスカルは極めつけのキリスト教徒、それもカトリック教徒です。私はパスカルに興味を持っていましたから、外部の人間として聖書とキリスト教を勉強していました。ただしキリスト教徒になったわけではない。ところが、パスカル関係の論文を読んでいると、信者でなくても、あたかも自分がキリスト教を信じているかのように書かれた文章が結構あるんです。私の場合、パスカルに感動したのはたしかだけれど、彼に説得されて信者になったわけではない。パスカルと自分を同一化することはできない。では、そこにある距離をどうすればいいのか。自分が感動した部分を、いくら論文に投影したとしても、この問題は解決しない。パスカルというのは、自分とはまるで違う存在であるけれども、そんな彼の思想と信仰を追体験し理解することはできないのだろうか。そんな自問自答からはじまったんですね。そこから研究者としてのキャリアがはじまりました。だから、遠さがなければ、パスカル研究者には決してならなかったと思います。
野崎
パスカルに魅惑されると同時に、違和感もあったということでしょうか。
塩川
そうです。愛情と違和感がドッキングして、ここまでやってきたんだと思います。違和感というのはとても大事なことです。ひとつには、フランス語フランス文学と日本語日本文学の遠さがあります。キリスト教と非キリスト教という遠さもある。何重にもある違和感の中で、相手をどこまで理解できるかどうかということです。少し専門的な話になりますが、私が最初にフランス語で書いた博士論文は、パスカルの姪に起こった奇蹟が主題になっています。姪の奇蹟を経験したことにパスカルは全身全霊で感動する。それが『パンセ』のもとになった『キリスト教護教論』執筆の動機になったと言われています。でも奇蹟って、一体なんなのか。私は信者ではないから、奇蹟を信じない。奇蹟がなんであるかもわからない。研究をつづけていくうちに少しずつわかってきたのは、カトリックの信者であっても、パスカルの奇蹟にはあまり触れたがらないということです。私の場合、キリスト教の外にいるから、かえって気が楽だったのかもしれません。奇蹟が何かわからないけれども、パスカルが奇蹟を信じたのは事実として与えられている。それが『キリスト教護教論』構想のきっかけになったというのならば、どういう過程を辿ってそうなったのか。そのことを追体験できないだろうかと考えた。これが博士論文を書いた動機です。私のそれ以後の論文も、同じですね。自分の中で何か引っかかりがある。よくわからないという感覚が最初にあって、それをなんとか頑張って、粘り強く考えていく。そうすると、わかってくることがあるんですね。「パスカルがわからない、わからない」と言い立てているうちに、ふっとわかることがある。そのことを書いていく。それが辛うじてフランスの研究者たちにも認められるようになったという感じですね。
野崎
そういう塩川先生の取り組み方自体が、まさにパスカル的であるという感じがしますね。つまりパスカルの一番不思議な点は、『キリスト教護教論』の構想を、どう正当化していくかという点なんですね。もちろん、十七世紀の、とりわけポール・ロワヤルに集っていた人たちが置かれていた状況が様々にあると思います。そこを勘案しなければいけない。しかもそれに加えて、原理的な問題がある。塩川先生がフランスで出された一番新しいご本のタイトルは、『信仰と理性のあいだで』と訳すことができます。この信仰と理性ということ。『パンセ』を読んでいると、信仰というよりも恩寵、神が直接心の中に降りてくるような体験を求めています。それは理性とは別の次元のことです。神が降りてくることですから、人間にはどうしようもない。にもかかわらず、パスカルほどの理性の持ち主が、キリスト教信仰の必要性を、理性をもってごり押しし、説得していこうとする。そこにある一種の苦しさが、感動的に読めてしまうわけですね。信仰と理性の相互矛盾があり、同時にダイナミズムみたいなものがある。そこに僕は惹かれます。

ユダヤ人問題

パンセ 下(パスカル)岩波書店
パンセ 下
パスカル
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塩川
その矛盾は、パスカル研究者にとっても、パスカルに生きる指針と糧を求める読者にとっても重要で切実な問題です。確かにパスカルは「キリスト教護教論」というジャンルに属する著作を計画していた。ただし、それは未完に終わったから、他人がそれを完成することは不可能です。しかし、パスカルの遺した断片的な文章を手がかりにして、想像力を働かせて、彼の構想の筋道をどうにかつけていくことは、必ずしも不可能ではないわけで、それが研究者の一つの仕事になります。もちろん、パスカルの本心なんて、わかりっこないんです。私自身、五十年研究をつづけてきたと言っても、キリスト教の外にいる人間ですから、信仰の内部にいる人から見れば、的外れな理解をしているかもしれないし、無理に手厳しい批判をしているかもしれない。そもそも、やっていることが無茶でひどいことかもしれない。いまだに信仰の外にいて、キリスト教徒ではありませんからね。けれども、不思議なことに、というのはパスカルと信仰を共有していないからですが、彼の信仰に対する共感と尊敬の念はどんどん増している。逆に、彼の「護教論」に対する評価は落ちています。野崎さんがおっしゃるように、「護教論」というのは、理性の次元でキリスト教の正しさを説明し、ごり押ししていくわけですね。そこに論理的な無理が生じる。つまりパスカルは、理性でキリスト教の正しさを説き、読者を説得したと自負している。それでも反抗する人間に対しては、どう言うのか。理性では打ち負かされているのに、情欲や情念に邪魔されて信じないのであれば、そのような人間の反抗は、キリスト教にとって危険であるどころか、その真理を確立するのに貢献する、と言うのです。こういう論理、相手に有無を言わせない論法はよくないですね。もう少し言うと、パスカルはキリスト教の正しさを証明するために、ユダヤ教とキリスト教を鋭く対立させ、キリスト教を証明する手段としてユダヤ教を使います。一番決定的なのは何か。ユダヤ人は、救世主として現われたキリストを、十字架に磔にしてしまった神殺しなんだから、神の怒りにあって全滅してもよかった。それでもユダヤ人が世界に散らばって生き残ったのはなぜか。正典である旧約聖書が正しく伝えられたことを証言する証人としてユダヤ人がいる。そういう理論を展開するわけですね。パスカル以前に、アウグスティヌスの中にもそれに似た論法がありますけれど、とんでもない反ユダヤ主義ですよね。そういう意味で言えば、パスカルが「護教論」で作り上げようとしていた合理的な説得というのは、とても独善的で恐ろしいものです。ただし、弁明しておくと、同時にパスカルは、その論理を食い破るような文章も書いている。文庫の解説にも書きましたが、彼の「護教論」は誰に向けて書かれたものだったのか。そこが一番大事なところだと思います。キリスト教徒であるパスカルが、信仰の外にいる人間に対して、キリスト教の正しさを証明しようとしたと考えれば、それはその通りです。論理的にはそうなっています。一方でパスカルは、キリスト教徒の中にも悪いキリスト教徒がいると考え、彼らも読者として想定している。注目に値するのは、パスカルが「善いキリスト教徒」というカテゴリーを立てていないことです。人間はすべて罪人として生まれているからです。罪人がたとえキリスト教の信仰に入ったとしても、生きている時から善いキリスト教徒となり、そのまま天国にいくなんて絶対にできない。自分も含めて、悪いキリスト教徒になる可能性を、人は常に秘めている。パスカル自身、自分のことを罪人だと思っています。だからこそ悔い改め、回心の必要があると考えている。そんな人間が「護教論」を書けば、それは最終的には、自分を含めたキリスト教徒に向かうはずです。ところが論理を展開しはじめると、彼は論理的・数学的天分を駆使して、自らの論理を貫徹しないと気がすまない。こうして、きちんと論理を打ち立てた上で、さらにそれをも食い破ることを書いていく。ここが今の私にとっては一番面白いところですね。 
野崎
『パンセ』下巻の解説で、「『パンセ』の中に「善いキリスト教徒」という表現は見当たらない」と書かれておられますね。非常に驚きました。また、塩川先生が今おっしゃいましたけれども、『パンセ』の中では、ユダヤ人は悪役で、しかもキリスト教の正しさを証明するために、功利的に使われます。自分がユダヤ人だったら、むっとするだろうなと思ってしまいます。しかし、それを食い破るところがあることを、読者は翻訳を通しても感じるだろうと思います。そこは僕の分類で言うと、岩波文庫の「赤」の世界であり、文学的な魅惑に繋がることになると思います。
翻訳のことを、もう一点だけおうかがいします。塩川先生ほどの研究の蓄積をお持ちの方でも、やはりこの三冊の翻訳は大変なお仕事だったと思います。膨大な注も付されており、読者のことをとことん考えてくださっていることに感動しました。三冊を読んでいると、もう一度西洋文化そのものと向かい合わされずにはすまない。そのような迫力を感じます。この点を踏まえての質問になりますが、パスカルは、自分の文章が翻訳されることを考えていたのでしょうか。つまり『パンセ』を日本人が完訳したことを聞いたとして、パスカルはどういう意味を見出したと思われますか。
塩川
思ってもみなかったご質問です。まずパスカルは、そもそも自分の本が出るとは思っていなかったでしょう。完成させたいとは思っていたけれど、未完成の未定稿で残した。彼は生涯の中頃に回心し、自分の名前を冠して本を出すことは、傲慢や自己愛の表現になると考えていた。だから著者名をどんどん消していったわけです。書き手とは何か。どんなに立派なこと、神様のためになるようなことを書いたとしても、著者として読者の前に立ちはだかれば、その人が神の代わりになってしまう。それは元の目的に反することであり、邪悪なことだと、パスカルは書いています。だから、パスカルは自分の名前を徹底的に消さなければならなかった。『パンセ』が完成していたら、パスカルのものとして残らなかった可能性はあります。
ここからは一般論になりますが、キリスト教は、翻訳に対して親和性のある宗教です。イスラムのコーランは翻訳ができません。旧約聖書にしても、本来は朗誦するものです。しかし新約聖書は、原典はギリシャ語ですが、イエスはギリシャ語で説教していたのではない。キリスト教そのものが、原典が翻訳であったわけです。アウグスティヌスは、次のような趣旨のことを言っています。「君の耳を打つ言葉はラテン語であるけれど、それがギリシャ語であろうとヘブライ語であろうと、君に臨んでいるのは神の言葉なのだ」。その点から考えると、キリスト教は、ユダヤ教やイスラムに比べると、翻訳に対して親和性がある。パスカル自身も、聖書をラテン語で読みながら、フランス語訳でも読んでいました。言葉の意味を深く調べるために、他のテクストも参照している。しかしそれは、あくまでも信仰を深めるため、思索を深めるためだった。決して文献学のためのものではない。自分にはメッセージがあって、読者に伝わることが極めて重要だと考えた。その限りにおいて、パスカルは翻訳に対して寛容だったと思います。
野崎
翻訳家の端くれとして非常に嬉しい言葉をいただき、ありがとうございます。最後に、今日における学問の意義に絡めて、一言申し上げて、僕の話を終わりにします。昨今では、自分の研究が現代社会にどう役に立つかによって、学問が正当化される局面が増えています。ただ、塩川先生のお仕事を通してわかるのは、それを一旦保留して、対象への違和感を持ち、そこから解きほぐしていくことからはじめていく。そのことによって、これまでわかっていなかったことがわかってくる。このことの貴重さは決して否定できません。同時に、塩川先生のお仕事のように、徹底的に考え抜かれていく学問には、いろんなところで活用できる有効性があると思います。ひとつの例を紹介します。僕の教えていた学生が、フランスのカーンという街に留学していた時の話です。本屋で立ち読みしていると、見ず知らずのフランス人から声をかけられたそうです。「君が日本人ならば、この本を知っているか」と『パスカルと奇蹟』を示され、是非読んでみるよう勧められた。その学生、三浦哲哉さんは、後に『映画とは何か』というとても面白い本を書きます。そこでは塩川先生のパスカル論から得たヒントが生かされているんですね。今回『パンセ』全三巻の翻訳が完成し、これから我々はそれをもとに『パンセ』を自分なりに活用し、自由に飛散、撒種させていくことができればいいと思っています。
塩川
『パンセ』は通読する本ではありません(笑)。もちろん好きになって、すべて読んでいただければそれに越したことはありませんが、『パンセ』が今まで生き延びてきたのは、断片的に読まれてきたことが大きいと思います。それから、ある一冊の本であれば、作者の意図を無視することはできませんが、『パンセ』は意図自体が複数で散らばっている。だから、どの意図に反応するかによって、いろいろな向き合い方ができる。ひとつの文章について、研究者のあいだで、正反対の解釈も行なわれてきました。そうやって複数の解釈を許容してきたからこそ、読まれつづけてきたわけです。まずは下巻に収録した「アンソロジー」から読んでいただくのもいいでしょう。そこで面白いと思えば、他も使っていただければ、訳者として大変嬉しく思います。
2017年2月10日 新聞掲載(第3176号)
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