闇と光、感性の純粋な領域を開示せよ エドワード・ヤン「牯嶺街少年殺人事件」|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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映画時評
2017年2月10日

闇と光、感性の純粋な領域を開示せよ
エドワード・ヤン「牯嶺街少年殺人事件」

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エドワード・ヤンの『牯嶺街少年殺人事件』が再公開される。秀逸な編集のある短縮版も素晴らしいが、今回は四時間弱の濃厚な全長版だ。必見である。

これは闇と光の映画だ。美少女のシャオミンは闇と光の鮮烈な交替とともに映画に登場する。主人公の男子高校生シャオスーが喧嘩の加勢のために小学校に行く。夜の校舎を覆う闇。彼は真っ暗な教室の灯りをともし、そこに隠れていた彼女が慌てて教室を出ていくのだ。一方、シャオスーは自宅の押入れの奥にこもって盗品の懐中電灯の光で一人の時間を過ごす。彼は映画の最初のほうで、目の調子が変だと言って自宅の照明を何度もつけたり消したりし、ラストの事件の前に、押入れのなかでも懐中電灯の明滅を繰り返す。ただし闇と光を比べれば、前者の深さが映画の全篇で際立っている。不良グループのリーダー、ハニーが敵対するグループのリーダーに殺されるのは、闇の深い夜道でのことだ。やくざたちがその報復をする凄惨な場面の闇は、一度見たら忘れられない。台風の夜。停電が室内に闇をもたらす。ともされた蝋燭がすぐに吹き消される。やくざたちが笠をかぶりレインコートを着て殴り込み、懐中電灯の仄かな光のなかで次々と人が殺されていく。ラストの殺人事件も夜の通りで起こる。寄りと固定の引きの二つの長回しが素晴らしく、この二つを繋ぐ編集も的確だ。ハニーの殺害ややくざの襲撃と異なり、ここでは通りの様々な灯りによって出来事の輪郭が明瞭に示されるが、それでも夜の闇はただならぬ気配を漂わせつつ観客の心を揺るがす。この場面は映画の闇の主題の到達点だ。

闇の主題は高校生たちを取り巻く不穏な状況に対応し、光の主題は彼らがそんな状況がいつの日か変わるという希望に対応していると、とりあえず言える。人殺しが次々と闇のなかで起こることや、シャオスーが高校の夜間部に通いつつ、昼間部への編入を望んでいることは、こうした意味付けの正当性を強化するだろう。だが、この作品にはそうした象徴の解釈だけでは捉えきれない豊かさが溢れている。画面や音それ自体に対して感性を開くべきだ。そうすればこの作品の並々ならぬ強度にきっと驚くだろう。

例えば、左足を怪我して包帯を巻いたシャオミンのぎこちない歩行に、観客の心は震えずにいられない。また、拳銃で遊び思わず本当に発砲してしまう時の彼女の表情もそうだ。彼女の行為は、手で拳銃の真似をするシャオスーの西部劇ごっこを引き継ぎ、さらにはラストの事件を予告してもいるが、無邪気な笑顔から驚いた表情への変化自体が映画のかけがえのない豊かさを体現している。シャオスーと彼女の会話が楽器の演奏によって邪魔されたり、戦車が進む列の奥に見え隠れしたりするのは、コミュニケーションの不全といった象徴的意味を超えて、映画的な興奮をもたらす。別の少女のシャオツイが夜の公園で伸びをする艶めかしい後ろ姿を、引きで示すショットは、あらゆる物語的文脈とは関係なく観る者の胸を打つのだ。

それ故、『牯嶺街少年殺人事件』を観て、夜の闇の深さや煌めく光の繊細さをただ感じ取ることが、何より重要である。感性と理性の協調さえ実は二次的な問題だ。この映画の真の豊かさは、感性の純粋な領域、その先験的な使用が開示する領域に深く関わっている。

今月は他に、『ホワイト・バレット』『ブラインド・マッサージ』『妻の秘蜜』などが面白かった。また未公開だが、アランテ・カヴァイテの『サンガイルの夏』も良かった。
2017年2月10日 新聞掲載(第3176号)
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