タイム・スリップの断崖で / 絓 秀実(書肆子午線)混迷の十年の世界にクリアな見通しを ラク反戦、ぷちナショ、デリダの死、ホリエモン騒動、中韓反日デモ…|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面に掲載された書評
2017年2月10日

混迷の十年の世界にクリアな見通しを
ラク反戦、ぷちナショ、デリダの死、ホリエモン騒動、中韓反日デモ…

タイム・スリップの断崖で
絓 秀実(書肆子午線)
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二〇〇四年春から一五年冬まで文芸誌「en-taxi」にて連載された、批評家絓秀実の時評集である。イラク反戦、ぷちナショ、デリダの死、ホリエモン騒動、中韓反日デモ…。著者は「矢継ぎ早にさまざまな「事件」の情報が流れ込んできて、それらを或る一定のパースペクティヴのもとに収めることができない」と言う。だが、本書はそうした喧騒にまみれながらも、その実すでにこちらの記憶が曖昧な、この混迷の十年の世界にクリアな見通しを与えてくれる。いや、短いスパンの記憶喪失はもういい。本書がマルクス『資本論』に即して指摘するように、そもそも資本制社会はその基礎を作った「原始的蓄積」の暴力に対する不断の「記憶喪失」の上にある。資本主義を問い続ける本書は、したがって読む者を不可避的に「タイムスリップ」と「記憶喪失」へと直面させるのだ。

本書で最も使用される語に「ディレンマ」がある。それは市民主義的なイラク反戦運動のディレンマに始まり、九・一一以降の暴力の、護憲=九条擁護運動の、ナショナリズムの、日米同盟の、民主主義のディレンマ、というように展開される。

それらのディレンマは、基本的にある共通の出来事に起因する。一九八九/九一年の冷戦体制の崩壊である。例えば著者は、六〇年安保では反安保と言い得たのに、現在は言えないのはなぜかと問う。それはかつて反安保=反米と言う時に、まがりなりにも「平和」を担保していたソ連や中国が、現在は崩壊、変質してしまっているからだ。今、反安保=反米を言ったところで、ではどう自衛するのか。そこから集団的自衛権という発想も出てくるが、したがってそれに反対することは、まさか後ろ楯も何もない空間に裸で立つわけにもいかない以上、結局は対米従属=安保を強化することにしかならない。そのとき沖縄問題は切り捨てられる。こうして「戦争反対」「民主主義を守れ」の声は、(沖縄の)「平和反対」に帰結するほかない。ディレンマである。

だが著者からすれば、この「ディレンマ」は、すでに「六八年」が直面していたものだ。「六八年」とは、先行するロシア革命も中国革命も「ロクでもない」ものだったと退けながら、その「百万回の否定の後に、なおそれを肯定すること」だったからだ。すなわちその時すでに冷戦後の現在は先取りされており、そのことが忘却されていることこそ最大の「記憶喪失」なのである。二〇世紀の革命の成果たる社会主義勢力の崩壊が、そのように六八年革命によってもたらされたものでもある以上、六八年の「ディレンマ」に覆われたのが現在の世界だといえる。著者が六八年を「勝利」と言ってきたゆえんだ。それを忘れることが、冷戦後をリベラルの勝利と錯覚させる。

著者は、この見渡すかぎりのディレンマのなか、「ポスト真実」などと嘯いては相対主義と戯れる「重層的な非決定」(吉本隆明)を退け、あくまで「最終的な立場の決断」をしなければならないと主張する。繰り返すが、もはや共産主義もマルクス主義も「最終的な立場」となり得ない。だから「断崖」であり「決断」なのだ。ジジェクも言うように、共産主義を「答え」ではなく「問題」をさし示すものとして捉え直さねばならない。著者のいう「ディレンマ」とはこの「問題」のことだろう。

それにしても、とりわけ三・一一以降、一国的な歴史観に基づく「四五年八・一五」を切断線(=革命?)とする「戦後」によってのみ、言葉や思想が生き延びようとする現状はどうしたことか。それは、危機のなか延命をはかり続ける資本主義(リフレ)、民主主義(共和制抜きの)、天皇制(生前退位)に歩調を合わせ、したがってそれらと同様「決断」を無限に先送りすることで生き延びようとするかのようだ。その「断崖=決断」なき「戦後」への偽のタイムスリップ=回帰は、「何も変わらない」というニヒリズムでしかない。本書は、それに対する決断の書である。
2017年2月10日 新聞掲載(第3176号)
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