横綱 常の花の土俵入|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」

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読写 一枚の写真から
2017年2月17日

横綱 常の花の土俵入

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東京大阪の両大相撲が合併し、日本大相撲協会としての第一回春場所は1月14日を以て初日の蓋を開け、当日は五十銭均一の民衆デーとて、さしもの国技館も大入満員の盛況を呈し、横綱連の土俵入は例に依て華々しかった。写真は東軍総師常の花土俵入の壮観である。(「歴史写真」昭和2年3月号)


今年に入って、大相撲が湧いている。

十九年ぶりに日本人横綱が誕生。一月二十七日、明治神宮で第七十二代横綱に昇進した稀勢の里が、雲竜型の土俵入りを奉納した。

明治神宮の横綱土俵入りは、創建まもない大正十一(一九二二)年にさかのぼるが、十四年十一月二日には、栃木山・西ノ海・常の花の三横綱がそろって土俵入りをした。

この写真は、昭和二(一九二七)年一月十四日の「春場所」初日、土俵入りを果たす第三十一代横綱常の花、雲竜型土俵入りの美しさに定評があった。土俵の四柱前に置かれた座布団が興味深い!(『歴史写真』昭和二年三月号掲載)

昭和二年一月、それまで東西に分かれていた相撲協会が合同して「日本相撲協会」が発足し、このときが第一回になる。昭和元年は、十二月二十五日からわずか一週間しかないので、大相撲は昭和の幕開けとともに、このとき新しいスタートを切った記念の一枚だ。

横綱「常の花」といっても、知る人は少ないが、「出羽の海親方」といえば相撲協会理事長を務めた大相撲の功労者として名が残っている。

常の花寛市は、明治二十九(一八九六)年に岡山市で生まれた。十二歳の時に大阪の大火で被災した人たちのために子供相撲大会を自分で企画して、その利益を大阪へ送ったというから、ただ者ではない。

十三歳で出羽海部屋に入門し、大正九年に大関、十三年に横綱に昇進した。

写真の「第一回春場所」では優勝を逃したが、三月の大阪春場所で優勝、「摂政杯」を手にした。「天皇杯」と賜杯の名称を変える時間もない践祚せんそのあわただしさがうかがえる。

さて、横綱常の花は、昭和五年五月場所途中で突然の引退を表明、年寄藤島を襲名して、十九年に第二代相撲協会理事長に就任した。幕内優勝十回の輝かしい成績を残している。

戦争が終わって出羽海を継いで、焼け跡に蔵前国技館を完成させ、還暦土俵入りを果たしている。戦中戦後間もない混乱の時期の大相撲を支えた理事長だ。

しかし、三十二年に日本相撲協会の改革を衆議院予算委員会で迫られ、蔵前国技館内で割腹自殺を図り、未遂に終わったが理事長は時津風に代わった。

三十五(一九六〇)年十一月、九州場所千秋楽の翌日に胃潰瘍で亡くなった。平成二十七年九州場所中に病死した北の湖理事長の最期を思い出す急逝だ。

昭和初期の大相撲は、封建的な力士の世界から合理的な近代相撲に変わる時期だったが、この流れに大きな役割を果たしたのが異色の横綱(第二十六代)大錦だった。明治二十四年に大阪で生まれ、スポーツ万能で頭脳明晰、陸軍幼年学校を体重が重すぎて不合格になったという。横綱常陸山のいる出羽海部屋へ入り、同門の栃木山・常の花と並んで横綱をはった。

大正十二(一九二三)年、力士の待遇改善スト「三河島事件」に弟子たちが参加した責任をとると、これも突然に引退してしまう。その後、「国家のために尽くしたい」(『報知新聞』)と、早稲田大学に入学し卒業後は報知新聞嘱託で相撲評論家の草分けとして活躍。昭和十六(一九四一)年、心臓マヒで急死した。

横綱たちが大相撲変革の激動を乗り切るために、土俵を下りても全力で尽していたことを知った。

一枚の写真が導いてくれる先に、未知の「歴史の小路」がある。
2017年2月17日 新聞掲載(第3177号)
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