《パスカル「パンセ」を読む》塩川徹也講演会載録 2016年11月19日 東京大学本郷キャンパスにて|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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2017年2月20日

《パスカル「パンセ」を読む》塩川徹也講演会載録
2016年11月19日 東京大学本郷キャンパスにて

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この講演は、集英社高度教養寄付講座の枠の中でお話するということで、文学あるいは思想に興味をお持ちの方々、その中でもフランスの文学と思想、さらにはパスカルに興味を持ってくださる方々がここにいらっしゃるということを前提として、今日の話を進めていきたいと思っています。パスカルの『パンセ』は、最近私が、岩波文庫から全三冊の翻訳を出しましたが、我々の世代にとっては、宗教・思想の古典として、極めて声価の高い作品でした。しかし、今の若い人にどれだけ読み継がれているのかどうか。私自身は長い間、東京大学文学部で教鞭をとってきましたが、最後の頃を見ていると、パスカルを読む若者は段々減ってきている感じがしておりました。ですから、こんなに大勢の方が会場にいらっしゃっているのを見て、心強くまた感動しております。『パンセ』が古典として読む価値がある本であり、それを読み、解説を聞きたいという思いを抱いてここにお運びいただいているとすれば、大変うれしいことです。

『パンセ』は極めて不思議な本です。パスカルの『パンセ』は著書名と題名が結びついており、両者は切り離すことができないと思っていらっしゃる方が多いと思います。ただ実は、元々パスカルは、そのような題名の書物を書いたことはありませんし、書くつもりもなかったんですね。『パンセ』という本は、パスカルが残した未完の原稿類を、親族・友人たちが編集して、書物に仕立て上げたものです。それが一体どういうジャンルに属して、何のために書かれ、また何のために読まれるのかがはっきりしない本なんです。そのことがあるので、大変熱心な読者を獲得しながらも、「全体としてどんな書物なのか」と問いはじめると、訳がわからなくなるという種類の作品です。まずはそのことを知っていただければと思います。因みに岩波文庫は、カバーの色によって内容が分類されています。『パンセ』は青です。青色は大体、「哲学・思想・宗教・歴史・地理」にかかわる著作になります。黄色だったら日本の古典文学、赤は外国文学となります。つまり、パスカルの『パンセ』は哲学・思想・宗教に属する書物だと、岩波書店が考えた。あるいは一般にもそう考えられているのでしょう。それに対して、パスカルのちょっと先輩で、パスカルが愛読したモンテーニュの『エセー』はどうか。これも岩波文庫から六冊本で出ていますが、赤(文学)になります。モンテーニュは文学で、パスカルは哲学・宗教だと考えられているということです。

私は長年、文学部の言語文化学科・フランス語フランス文学研究室に所属して、教師生活を送りました。キャリアの観点からいえば、フランス文学、いわゆる仏文の人間です。学生としても、長い間フランスに留学していましたが、ソルボンヌ大学のフランス文学科におりました。そこから言えば、『パンセ』を訳したことに対して、「哲学のものを仏文の人間がやるのか」という話になってきます。ただ、あまりそういうことを細かく詮議だてしないでいただけるとありがたいと思っています。哲学と文学を、最初からこういうものだと決めつけて、どっちがどっちなんだと言いだすと、窮屈なことになります。しかし、そもそも文学部という制度を考えますと、その中には哲学、歴史、言語文学があって、今では心理学、社会心理学、社会学というような行動文化に属する学問も含まれている。昔の言い方であれば、「哲学・歴史・文学」(哲史文)を全部合わせて、いわゆる「文学」と言っていました。そもそも日本語の「文学」のみならず、それに相当するフランス語の「littérature」という言葉自体、「文字によって記された人間の精神活動の所産のすべて」を意味していたんですね。そういうふうに考えていただければ、ことさら文学、哲学、思想、宗教と分けて考える必要はないと思います。

今日は、パスカルの思想と信仰について、何か結論のある話、起承転結を備えた話をするつもりはありません。六頁の資料(『パンセ』引用集)をお配りしましたが、いくつかの文章を読んで、それについて解説を加える形で話を進めていきたいと思っています。パスカルはどのような人か、『パンセ』はどんな本かということについては、説明をはじめるときりがなくなってしまいますが、やはり最小限のことはおさえておいた方がいいと思いますので、簡単に紹介いたします。

パスカルは、十七世紀のフランスで活動した人です。彼をどういう風に形容するか。一方では天才的な科学者・数学者、もう一方では熱心な宗教家、それから最後に希代の文章家、その三つの側面があると考えていいと思います。パスカルという人が、今の日本でもある程度知名度があるとしたら、「ヘクトパスカル」という言葉によってではないでしょうか。気象予報の時、特に台風が近づいた時などに、よくお聞きになる単位だと思います。この言葉は、パスカルが大気の圧力の研究を行なったことに由来しています。彼は、数学者としても優れた才能を発揮していました。たとえば史上初の計算機を考案した人です。また現代の数学には確率論という学問がありますが、パスカルは確率論を創始した人だと言ってもいいと思います。ある時パスカルは、友人から、サイコロ賭博の賭け金の分配の仕方をどうしたらいいかという相談を受けました。その問題を出発点とし、数学者のフェルマーと協力して、今の高校程度の順列・組み合わせの理論を考えついたんですね。パスカルがその理論にどういう名前をつけたかというと、「偶然の幾何学」というのです。この命名にも彼の言葉に対する感覚が現われている気がします。

十七世紀は、ガリレオ・ガリレイやニュートンという名前で知られるように、近代科学の基礎が打ち立てられた時代であり、「科学革命の時代」と言われています。パスカルは、その立役者のひとりだったとお考えください。他方でパスカルは、熱烈なキリスト教徒でもありました。キリスト教徒と言っても、十七世紀のヨーロッパでは、前世紀に、マルティン・ルターやジャン・カルヴァンらの出現により、プロテスタントの運動があって、カトリック教会とプロテスタント諸教会に分裂していました。フランスは大半がカトリックでしたが、プロテスタントもその存在は許容されていました。パスカルはカトリック教会に属し、大変熱心な信者だった。ただし、前の世紀のプロテスタントの宗教改革を受けて、カトリックの側にも自己反省の機運が高まり、フランスのカトリック教会でも改革運動が盛んになります。パスカルはそれに強く影響を受けて、改革運動に参加します。改革運動というのは、既成の教会秩序から見れば具合の悪いところがあって、とかく異端の疑いをかけられることがありました。主観的に見ても客観的に見ても、パスカルは忠実なローマカトリックの一員であり、「ローマ教皇に忠誠を誓う」と繰り返し言っています。しかしプロテスタントよりの異端に近いと言われることもあります。そういう意味では、単に個人として熱心な信者であったという以上に、より深く信仰運動にコミットしていたということが言えると思います。

今日の話にもうちょっと近づくために、ひとつ付け加えて話しておきます。「科学革命の時代」だったと今申し上げましたけれども、全盛期のルネッサンスを経たヨーロッパは、キリスト教が社会の全体を表面的に覆っているように見えても、合理主義の観点から、あるいはキリスト教の外にあるギリシャ・ローマの文明を知ったことから、キリスト教の限界、特にその非合理性を批判する機運が強くなっています。そういう状況の中で、パスカルは、自分自身は一流の数学者・科学者でありながら、無神論者や自由思想家のキリスト教への攻撃に対して、キリスト教を擁護し、さらに読者を信仰に誘うような本を書こうとしていた。ですからパスカルは、一方で合理主義に徹した科学者であると同時に、もう一方では超越的な存在に憧れ、純粋な信仰を実践する宗教家でもあったわけです。そのふたつを繋ぐものとして、「希代の文章家」の資質を備えていたのは、とても重要なことだと思います。これについては、彼の周辺にいた人たちが、「パスカルほどの雄弁家はいない」という言い方をしています。次の十八世紀には、彼に強く反発したヴォルテールという啓蒙思想家がいますが、彼もまたパスカルの宗教思想と人間観を強く批判しながら、「これほどの雄弁家、文才のある人間はいなかった」という言い方をしている。「雄弁家」というのは、今ではなじみがないかもしれません。ヨーロッパの昔の伝統で言えば、人を説得するために公開の場で弁論を行う人のことであり、そのような弁論を作り上げる技法の教育と研究が、弁論術あるいはレトリックと呼ばれます。パスカルは、これに極めて長けた人だった。弁論とは、説得のための技巧をこらした散文、現代の言葉に翻訳すれば「芸術的散文」ないし「散文芸術」です。パスカルは散文芸術の達人であったということです。そのことは彼の文章を読んだ同時代人、そして今日に至るまで歴代の読者が、一様に感じていることです。

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『パンセ』の話に移ります。『パンセ』とは、どういう書物なのか。パスカルは一六六二年に亡くなるんですけれども、死んで八年後の一六七〇年に、関係者の手によって出版されました。最初に出た時の正式の題名は次のようになります。『死後書類の中から見出された宗教および他の若干の主題に関するパスカル氏の断想』。最後の「断想」の原語が「パンセ」で、それが独立して書物の題名になったわけです。ところで「パンセ」とは何か。それは要するに、「考えること」「考えたこと」です。ただし考えたことは、どうしても言葉に表現せざるを得ませんから、「言葉に表現された思想」、とりわけ「簡潔な表現に凝縮された着想」、さらには「有名人の言葉」「名文句」という意味にもなります。パスカルの『パンセ』はかつて『瞑想録』と訳されていました。なかなかいい訳だと思います。「パスカルが考えたことを、文章に綴ったもの、それの集成」という意味ですね。元々の題名から推測すると、宗教を中心として、哲学、道徳、精神、言語といった極めて幅広いテーマが扱われている作品だと考えられます。しかも、さっきも申しあげましたが、どういうジャンルの書物であるかを定めることができない。だから、ひとつひとつの文章に感心することはあっても、全体としてどういうメッセージを発しているのかと考えると、みんな戸惑ってしまうことになります。

今日の話ではそんなに深入りしないつもりですが、問題は、パスカルがそういう原稿を残したきっかけはなんだったのか。繰り返しになりますが、パスカルは晩年、キリスト教に対する批判と攻撃からキリスト教を擁護し、さらに進んで、読者を信仰に誘う著作を準備していました。それが未完成のままで、バラバラの準備ノートの段階で終わってしまった。そういうものを中核として集めた遺文集が『パンセ』なのです。
では、パスカルが計画していた書物に、もし題名をつけるとしたら、どうなるのだろうか。パスカル自身が題名をつけていないのでなんとも言えませんが、名前がないと不自由だということもあって、一般的にパスカルが構想していた著作は、『キリスト教の弁明』あるいは『キリスト教護教論』と呼ばれています。これはパスカルや、その周囲の人たちがつけた名前ではありません。しかし、そういう類の著作を考えていたのは恐らく間違いありません。我々の目の前にある著作は『パンセ』ですが、彼の構想していた著作に対しては、『キリスト教の弁明』『キリスト教護教論』という名前が与えられるわけです。

『パンセ』の翻訳は、今度三冊本になりました。すべて短い断片からなっています。私の翻訳で言うと、千ちょっとの短文、といっても数頁に及ぶものもありますが、それが収録されている。ひとつひとつの短文を、日本語では「断章」とか「断想」言ったりします。フランス語の元のタイトル、『パスカル氏のパンセ』では複数形(Pensées)になっていますが、それは個々のパンセ(pensée)を集めた書物、つまり「断想集」ということです。しかしパスカルは、その千に及ぶ断章のひとつひとつを、意図的に断章として書いたのでしょうか。『パンセ』が彼の残した準備ノートを別の人が編集した本である以上、パスカル自身がそれぞれの文章をあらかじめ断章として書いた保証はない。もっとも中には、どうやら意図した断章らしいと思われるものもありますが、その数はそれほど多くありません。

世の中には短い文章から構成される文学作品があります。パスカルの同時代ですと、ラ・ロシュフーコーが出した『箴言集』がそうです。五百句に及ぶ箴言つまり格言を集めて一冊の本にしたものです。そこには、「太陽も死もじっと見つめることはできない」や「われわれの美徳は、たいていの場合、偽装した悪徳に過ぎない」という名文句が含まれています。こういう格言を作ることは、ラ・ロシュフーコー自身得意としていましたが、同時に、当時の社交界の遊戯だったんですね。そういう文章を、完結した短文として作って、それを集めて本にする。『箴言集』に収められた短い文章は、作者が最初からそのつもりで書いたものです。それに対してパスカルの断章(パンセ)は、編集の過程で輪郭が与えられたものです。だから、それぞれの断章を独立して読めばよいのか、それともその背後にもっと大きな文章つまり起承転結を備えた論述を想定してその構成要素として解釈すべきなのかに迷うことが出てきます。そういういうややこしい問題があるということです。

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パンセ 上(パスカル)岩波書店
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ここからは『パンセ』のいくつかの断章を取り上げて、それを読むことを通じて、パスカルの文章と思考の力を、皆さんとともに味わいたいと思います。明確な筋立てを考えて読むことはしませんが、パスカルについてしばしば思うのは、コミュニケーションの問題、それも人間同士のコミュニケーションばかりでなく、人間と神のコミュニケーションの問題に、とても強い関心を寄せていたというということです。したがって、そのことと緩やかに関連する文章を取り上げて読んでいきたいと思います。

最初は大変有名な文章をご紹介します。皆さんも必ず知ってらっしゃる文章だと思います。「クレオパトラの鼻」に関わる文章です。その最終段落は次のように書かれています。「クレオパトラの鼻。もしそれがもう少し小ぶりだったら,地球の表情は一変していたことだろう。」(四一三〔断章番号は岩波文庫版『パンセ』による〕)。そう私は訳しました。「小ぶりだったら」という部分に、ちょっと違和感を覚えられる方もいらっしゃるかもしれません。この文句は大変有名で、たとえば広辞苑を引くと、「クレオパトラ」の項にこう書かれています。「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら,世界の歴史は変っていたであろう」。原文を見てみると、形容詞「短い(court)」が使われているんですが、日本語にすると、「鼻が短い」と言ってもあまりピンと来ない。そういうこともあって、「低い」と訳すことが多かったんだと思います。面白いのは、夏目漱石が「短い」と訳していることです。『吾輩は猫である』の中で、苦沙彌先生と鈴木藤十郎が、こんな会話を交わしています。「パスカルがこんな事を云っておる」「どんな事を」「若しクレオパトラの鼻が少し短かったならば世界の表面に大変化を来したろうと」。漱石の翻訳に、私は感心しているんです。詳しくは立ち入りませんが、原文の意図をよく捉えていると思います。

ひとつだけ、なぜ私が「小ぶり」という言葉にしたのかについて申し上げます。この訳に満足しているわけではないんです。「低い」という言葉では、ちょっと具合が悪いという感覚があるということです。どうしてか。全体の文章を読んでいただいた方がいいでしょう。「人間のむなしさを十分に知りたければ、恋愛の原因と結果を考察するだけでよい」。最初に、人間のむなしさを知ってほしいという主張があります。その主張をどうやって理解してもらおうかという時に、例を持ち出すわけですね。まず「人間のむなしさ」というのは、空虚とか、がらんどうな状態であると考えていただくとわかりやすいと思います。人間は、たとえその境遇や活動が見かけは立派に見えたとしても、中身はがらんどうで実質がない。そういうことを、どうやらパスカルは言いたいらしい。それは、おそらく彼の信念でもある。ただし、世の中の人は、言われてみたらそうかなぐらいは思うけれど、ピンとは来ない。ピンと来てもらうためには、印象的な例を出さなければいけない。その例として、恋愛の原因と結果を考察することをすすめる。肝心なのは、恋愛の原因と結果の関係です。恋愛そのものをむなしいと言っているのではありません。

たとえば昔の英雄の雄大な恋物語を考えてみたとします。ヘレネーという女性をめぐって、英雄たちが争い、トロイア戦争が起こる。その結果、トロイアが滅びる。ヘレネーに対してなぜ恋したのかまでは書いてありませんが、つづく部分でパスカルは、こんなことを言っています。「その原因は、「私には分からない何か」なのに、その結果は恐るべきものだ。この「私には分からない何か」、あまりにも些細で眼にも止まらないものが、あまねく大地を、王公を、軍隊を、全世界を揺り動かす」。つまりギリシャとトロイアの英雄たちが、なぜヘレネーを好きになったかは、よくわからない。でも、結果としてトロイアが滅亡した。これは「私にはわからない何か」に起因する。原因と結果のつながりに納得がいけば、「むなしさ」はなくなりますが、そうではないのです。ここで、最初に引用した「クレオパトラの鼻」に戻ります。「クレオパトラの鼻」というのは、あまりに些細で、眼にも止まらないものの例として出しているわけです。クレオパトラは絶世の美女と讃えられていますが、彼女の鼻がほんの少し変わって、顔の形に些細な変化が生じたら、クレオパトラを愛したカエサルとアントニウスの恋心も変わってしまったかもしれない。そうなればローマの内戦の帰趨も変わってしまったかもしれない。結果として、地中海世界の地図も変わってしまったのではないかということです。

この文章の面白さはどこにあるのか。最後のところを見てみてください。「地球の表情」と、私は訳しました。人工衛星に乗って、あるいは月から地球を眺めてみたら、地中海世界はどう見えるか。クレオパトラの鼻の輪郭が変わることによって、世界の地図も変わってしまったかもしれないと、そういう含みがある文章なんですね。こう考えていくと、「低い」という形容詞ではまずい。先程引用した『吾輩は猫である』において、あの文章の前段のところでは、金田夫人の「偉大なる鼻」について、面白おかしい談義が交わされています。明治以降の日本だと、鼻の高さは女性の美貌に深く関わっていて、高い方がよろしい、低いのは芳しくないと考えられていたわけです。ところがこの部分を、単に美醜の観点に限定して読んでしまうと、「私には分からない何か」という言い回しの本当の意味とその面白みがわからなくなってしまう。そこで、もっといい翻訳がないかと思って、「小ぶり」という言葉を暫定的に使ってみたということです。

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二番目の「秩序(順序)」の話に移ります。
「私はあらゆる境遇のむなしさを示すために、この論議を次のような順序に従って進めることもできただろう。まずは、普通人の生き方のむなしさ、次いで、懐疑主義者であれストア主義者であれ、哲学者の生き方のむなしさを示す。しかし、そこでは順序は守られないだろう。秩序とはいかなるものか、そしてそれを心得ている人がいかに少ないか、私はいささか知っている。いかなる人間の学問もそれを守ることはできない。聖トマスはそれを守らなかった。数学は守るが、しかし数学はその深遠さにおいて無用だ。」(六九四)
「著作を書いていて最後に見つかるのは,冒頭に書くべき事柄だ。」(六一)
時間の都合もあり、一言だけ申し上げておきます。パスカルは、数学者として極めて合理的に考える人でしたから、秩序と順序というものについても鋭敏な感覚を持っていました。彼の文章はよくできていますが、しかしこの断章を読むと、文章において秩序は守られない、あらかじめきちんと計画を決めてうまくいくものではないということを書いています。ここがパスカルの面白いところなんですね。秩序について大変鋭い感覚があるけれども、文章を書く時、書いているうちに、自分が書こうと思っていたのが別のテーマだったことを発見して、違う内容を書きだすことがある。『パンセ』は未定稿ですから、原稿を読んでいくと、度々そういうことが起きます。パスカルにのめり込んで、研究者の立場から見ていると、それがとても面白く感じられるのです。

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パンセ 中(パスカル)岩波書店
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三番目に、コミュニケーションが問題となっている文章、その代表例をひとつ紹介します。「人間の研究」について書かれた文章です。これ自体、そんなに難しくないようでいて、二重底、三重底になっています。ここから先の話題にも影響が及んでくることを、ここでお見せできればと思います。初めのほうに出てくる「交流」という単語の原文が「communication」であることに注意してください。

「長い間、私は抽象的な学問の研究に従事してきたが、それについて交流できる人はほとんどいないので、嫌気がさしていた。人間の研究に取り組みはじめて分かったのは、これらの抽象的な学問が人間には適しておらず、私自身、それに深入りすることによって、それを知らない他の人々より、自分本来のあり方から迷いだしていることだった。私は、それについての世人の無知を赦した。しかし少なくとも、人間の研究においては多数の仲間が見つかるだろうし、それこそ人間にふさわしい真の研究であると、私は信じた。私はだまされていた。幾何学を研究する者より、人間を研究する者の数はさらに少ない。それを研究するすべを知らないものだから、他のことを探究するのだ。しかしそれは、この研究が、人間の獲得すべき学問ではないということではないか。そして、人間にとって、幸せになるためには自分を知らないほうがもっとよい、ということではないだろうか。」(六八七)。

人間の研究のすすめではじまった文章が、最後は、そんなものはやってもしょうがないということになりそうな文章で終わっています。最初の部分は、パスカルの学問に対する考え方を示していて、すぐに理解できるんじゃないかと思います。自分は長い間、抽象的な学問の研究に従事してきた。その上での感想は、物理学者・数学者として、独創的な成果を上げたんだけれども、わかってくれる人はほとんどいない。嫌になってしまう。一芸に秀でた職人や芸術家、あるいは専門の学者が、他の専門の人、あるいは専門家ではない世の中の教養人とコミュニケーションが取れないことに寂しさあるいは苛立ちを感じている。そんなふうにも取れますし、それは決して間違った解釈ではないと思います。そこからパスカルは、人間の研究の方に移っていくわけです。この見方は実は後段で覆されることになりますが、この点については、後で立ち戻って考えることにします。

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「コミュニケーション」に関わる文章を、さらに見てみましょう。大変短い断章で、パスカルはこんなことを書いています。

「「私にとってはいかなる楽しみも、分かち合える人がいなければ味気ない」とモンテーニュは言う。人間が人間を尊重していることのしるしだ。」(*七四)(念のために付け加えれば、「分かち合える人がいなければ」のところは、直訳すれば、「コミュニケーション(communication)なしには」となります。)
わずか二行の文章です。しかもその半分は、彼が愛読したモンテーニュからの引用になります。念のため、モンテーニュも引用しておきます。

「私にとってはいかなる楽しみも、分かち合える人がいなければ味気ない。何か面白い考えが心に浮かんでも、それを独りで生み出し、それを伝える人がいなければ残念で仕方ない。」(『エセー』第三巻九章「空虚について」)。

このモンテーニュの言葉にパスカルは賛同しつつ、それをどのようにまとめたのか。「人間が人間を尊重していることのしるしだ」。そういう言い方をしています。ここが先の「人間の研究」という言葉に繋がってくるんじゃないかと思います。そう考えていくと、パスカルは、コミュニケーションという言葉を使って、抽象的な学問に従事しているあいだは、他の人と交流できないからつまらないと言っている。パスカル自身は、大変強くコミュニケーションを求めた人なんだけれども、彼にとって、人間同士のコミュニケーションは何を対象としているのか。コミュニケーションというのは、自分が知覚したことや感じていること、知っていることや考えていることを伝達することであると、そういう定義が辞書には書かれています。確かにコミュニケーションは、自分の持っている知識や信念、主張、場合によっては勧告とか命令とか、そういうものを相手に伝えることだと、普通は理解されている。しかし、パスカルが目指し感じていたコミュニケーションは、そういうものではない。モンテーニュの文章を引いて、「人間が人間を尊重していることのしるしだ」と言っている箇所を読むと、彼の考えているコミュニケーションは、そんなものでは済まされないところがある気がします。そのことを端的に示すのが、次の文章です。
「自然な文体を目にすると、私たちはすっかり驚き、そしてうれしくなる。なぜならある著者に対面すると思っていたところに、一人の人間を見出すからだ。逆に、よい趣味の持ち主が、一冊の本を目にして、一人の人間を見出すつもりでいたのに、著者の顔を見出すと、びっくりしてしまう。」(六七五)

読書において読者が出会うのは、人間なのかそれとも著者なのかという問いが立てられ、人間と著者が対立させられています。著者とは、どのようなものか。本にもいろんな種類があります。狭い意味での「文学」を考えた時、「文学」というのは、一体何のために書かれるのかと問い始めると、その目標が何であるか、よく分からなくなってきます。ところが、そうではないもの、たとえば法律の本や科学の本、あるいは実用書を考えれば、それらは何か明確な目標のために書かれている。その目標のために書く能力と資格を持った人が著者になる。このレベルでの本を読む場合には、読者の側に、ある実用的な目標や、ある領域に限定された知識欲があることが前提になります。パスカルは、そういう限定された目的のある読書を否定しているわけではありません。それはそれで必要であり、いいことだろうけれど、本当の読書の歓び――文学の歓びと言い換えたくもなりますが――は、そんなものではない。その核心にあるのは、専門家としての著者ではなく、テクストの中に現われる人間に出会うことだというのです。そしてこれは、次に引用するモンテーニュの文章から強い影響と感動を受けて書かれたと考えて、まず間違いありません。パスカルはモンテーニュの『エセー』を愛読し、そのテクストに現れる人間モンテーニュと終わりのない対話を交していました。ところでモンテーニュ自身は『エセー』について、「その題材は私自身だ」ということを述べています。自分が自分のことを書くと宣言しているわけです。たとえば偉い人についての伝記を書く、あるいは偉い人が自ら自伝を書くことがあります。『エセー』を書いたモンテーニュは、後世から見れば偉い人になります。生前でも、ボルドーの市長を務めたぐらいだから一般の庶民ではなかった。しかし自分が歴史に名を残す偉人になるという感覚は持っていなかった。そう自覚している人間が、自分について書くことに意味があるんだと、モンテーニュは書いているのです。モンテーニュの『エセー』三巻の第二章「後悔について」の一節です。

「私は卑しい輝きのない生活をお見せする。だがそれがどうしたというのだ。あらゆる道徳哲学は、平凡な私人の人生にも、それよりもっと豊かな人生にも同じように当てはまる。人間は誰しも自分の中に人間としての完全な姿をそなえている。/世の著者たちは、あれやこれやの特別なしるしによって自分のことを世間に伝える。私は、文法家でも詩人でも法律家でもなく、まさに人間ミシェル・ド・モンテーニュとして、私という普遍的な存在によって、自分を示す最初の人間である」

最後のところを見ると、満々たる自信が感じられます。「私という普遍的な存在」によって、自分を世の中に知らせる。これが『エセー』という書物の存在意義なんだと、モンテーニュは言っているわけです。パスカルも、この言葉に同感していただろうと思いますし、それに通ずる文章があります。「専門性と普遍性」の関係に関わるふたつの断章です。

「世間では,詩人の看板を掲げなければ、詩が分かると認めてもらえない。数学なども同様だ。けれども普遍的な人々は、看板を必要とせず、詩人と刺繍職人の仕事を区別しない。」(五八七)

「紳士(オネットム)について、彼は数学者だ、説教家だ、雄弁家だなどと言われるようであってはならない。彼は紳士なのだ。私の気に入るのは、ただこの普遍的な特質だけだ。ある人に出会ったとき、その著書が思い出されるのは、芳しくない徴候だ。いかなる特質であれ、それに気づくのは、ただ、それをたまたま、〈何事も度を越さずに〉用いる機会があるからにすぎないという風であってほしい。それは,ある特質が他を圧して、そのレッテルを貼られては困るからだ。雄弁が話題になっているときでなければ、彼が雄弁であることは思い出してほしくない。しかし話題になっていれば、思い出してほしい。」(六四七)

時間の関係上、ここも一言だけ申し上げます。「専門性と普遍性」の関係について言えば、先程の引用にありましたように、学界の人間であろうと実業界の人間であろうと、その道の専門家になってしまった人間が、他の業界の人や一般の人とコミュニケーションを取ることはすごく難しい。これは誰でもが感じることです。それを解決するために、最近では、リベラル・アーツやリテラシーという言葉が流行っていますが、広い一般教養を身につけて、自分の知識を増やすという方法がひとつあります。自分とは違う専門について学ぶ。また専門家は、自分の専門分野についての知見を外の世界にもっとやさしく理解してもらえるように努める。そういうかたちで知識を満遍なく広げていく。この方向での普遍性が考えられます。その極めつけは、「万能の天才」でしょう。たとえばレオナルド・ダ・ヴィンチがそうです。彼について、「普遍人」という言葉が使われます。イタリア語では「uomo universale」と言います。この普遍という言葉は、何を意味するのか。レオナルドはこれもできた、あれもできたということです。しかしモンテーニュが「普遍的な存在」と言う時の「普遍性」は、これとは違います。コンテクストを見れば明らかなように、文法家や詩人、法律家といった専門家の手前にある、ひとりひとりのまるごとの存在です。まるごとはある意味で普遍に通じますが、ひとりひとりの人間のまるごとなのですから、普遍ではなく、むしろ個別だと、普通は考えられます。それに対して、モンテーニュはこう主張します。人間の普遍性の根拠は、人間が「誰しも自分の中に人間としての完全な姿をそなえている」ところにある。自分にはこれこれしかじかの役割と能力があるという形で自分を世間に伝えようとするのは、自分の中のある部分だけを切り売りすることであり、これは普遍性ではない。「普遍的な存在」というのは、専門とか職業の手前にあるまるごとの自分のことだと言うのです。パスカル自身も、同じようなことを意識していたからだと思いますが、こういうことを言っています。

「すべてについて知りうることのすべてを知って、万能になるのはできない相談だから、すべてについて少しだけ知らなければならない。なぜならあることについてすべてを知るよりは、すべてについていくらかを知るほうがはるかに見事だからだ。こちらの普遍性のほうがもっと美しい。両方をあわせもつことができれば、もっとよいだろう。しかし選ばなければならないとしたら、こちらのほうを選ばなければならない。」(一九五)

この断章を読めば、人間として、ある職業や肩書き以前の次元で行なわれる付き合い・交流を、パスカルが重要視していたことがおわかりいただけると思います。

*  *  *

ここまではとっつきやすい、ポジティブな内容だったと思いますが、これから先は、あまりポジティブではない話になります。「人間の研究」の話に立ち戻りますけれども、パスカルは抽象的な学問に専念していてはコミュニケーションを取れないから、人間の研究をはじめようと思ったと言う。ところで「人間の研究」で問題になる人間とは一体何か。学問や科学の観点から言えば、人間の体は生理学が研究し、心は心理学が研究し、生物種としての人間は人類学が研究する。しかし、今までの話でわかっていただけるでしょうけれども、パスカルが問題にしているのは、決して学問の考察対象としての人間ではない。また人間は、実践の過程の中である目標を立て、それを実現するために行動しますが、そのような実践的な目標の実現に奉仕する手段としての人間でもありません。人間の研究について考えた時に思い出す、有名な断章があります。それをご紹介します。「考える葦」です。多くの方がご存知だと思います。

「人間は一本の葦にすぎない。自然のうちでもっともか弱いもの、しかしそれは考える葦だ。人間を押しつぶすのに宇宙全体が武装する必要はない。一吹きの蒸気、一滴の水だけで、人間を殺すのには十分だ。しかし宇宙に押しつぶされようとも、人間は自分を殺すものよりさらに貴い。人間は自分が死ぬこと、宇宙が自分より優位にあることを知っているのだから。宇宙はそんなことは何も知らない。/こうして私たちの尊厳の根拠はすべて考えることのうちにある。私たちの頼みの綱はそこにあり、空間と時間のうちにはない。空間も時間も、私たちが満たすことはできないのだから。/だからよく考えるように努めよう。ここに道徳の原理がある。」(二〇〇)

大変有名な文章で、感銘を受けられた方も多いと思います。ここで問題になっている人間とは、何か。「一本の葦にすぎない」と言いながらも、人間が「宇宙」と対比させられています。宇宙に対しては極めてちっぽけで無力な人間が、けれども考えることによって、宇宙に拮抗する存在になるということが書かれている。大変感動的な文章です。しかし人間と宇宙を対置するというのは、逆に言えば、ほとんど誇大妄想的な考え方です。人間は普通、自分が行動を起こしている際に、あるいは科学や学問をしている際に、こんなことは考えないだろうと思います。しかもここで「宇宙」と言われているのは、そのあとに「空間と時間」という言葉が出てきますけれども、それがいつはじまり、いつ終わるのか、それに果てはあるのか、ということが問題になるような存在です。これは、現代であれば、宇宙物理学などが研究することです。それ以前には、宗教・哲学において、時間にははじまりがあるのか、終わりがあるのか、宇宙には果てがあるのかということが考えられてきました。そうした思索を通して、人間が「今ここ」にいるとはどういうことなのかを考えていくと、極めて不思議な感覚が起こってきます。また、ある場合には、奇蹟、恵みということも考えることになるでしょう。無限の時空間の中に放り出された私はどうしたらいいのか。寄る辺なさ、恐怖を感じる場合もあります。パスカル自身は、そういう恐怖を感じる人間の反応を、たった一行で言い切っています。

「永遠に沈黙するこの無限の空間、それを前にして私は戦慄する。」(二〇一)

これに似た文章もあります。
「私の一生のささやかな時間が、それに先立ちまた引き続く永遠の中に〔…〕呑み込まれるのを眺め、私が占めるささやかな空間が〔…〕私が知らず私を知らない空間の無限の広がりに吸い込まれるのを眺めるとき、私は恐れにおそわれ、自分があそこではなくここにいることに驚き怪しむ。」(六八)

これらを読んでわかることは何か。要するに、人間の研究、人間とは何かという問いの中身です。それは、こういうことなんじゃないかと、私は思います。自分が今ここにあることの不思議さに驚き、さらには恐怖を感じて、自分がどこから来てどこに向かうのか、自分は何のために生きているのかということ、それらを自分に問いかける存在が人間である。パスカルはそんなことを言っている気がします。果たして自分はどこから来たのか。まずは親から生まれたということになります。では、その親はどこから生まれたのかと、話をどんどん辿っていくと何が起きるのか。これはキリスト教だけに限った話ではありません。仏教の禅で言う「父母未生以前」の自己とは何だったのかという問いにも繋がる話かもしれない。とにかく、限定された枠、たとえば科学や学問の対象、目標実現のための手段という枠を取り払って人間を考え、それがどこからやって来てどこに行くのか、何の為にあるのかを考えて欲しい。これがパスカルのメッセージだと思います。
次の断章を読むと、そのことがはっきりわかると思います。

「人間は明らかに考えるために造られている。それこそ彼の尊厳、彼の取柄のすべてである。彼の務めのすべては、しかるべき考え方をすることにある。ところで思考の順序は、自己とその造り手、そして自己の目的から始めるところにある。」(六二〇)

「しかるべき考え方」というのは、「考える葦」の最後の「よく考えるように努めよう」という言葉が意味するものと同じだと思います。ここで言っているのは、人間が何かということを考える時に、自分が一体どこから来て、どこに行くのか、自分の造り手は何なのかを問うことから始めよということです。ここで「造り手」と言われているのは、その背後に、創造神を前提とするキリスト教の世界観があるからです。しかし、そういう世界観があろうとなかろうと、人間にとって、自分がどこから来てどこに行くのかという問いは、永遠の謎になります。それに対して、普通の人は目を瞑る。パスカルの言葉をつづけます。

「しかるに世の人々は何を考えているのか。決してそんなことは考えない。考えるのは、ダンスをすること、リュートを弾くこと、歌うこと、詩をひねること、環とり遊びをすることなど、さらに戦うこと、王になることだが、王とは何であるか、人間とは何であるかは考えない。」(同)

ここで次のようなことがわかってきます。人間にとって一番大事な問題を考えないために、まずはいろんな気晴らし、遊戯に耽る。それはダンスやリュート、歌、詩であったりする。ところが、問題はその後のくだりなんですね。「さらに戦うこと、王になること」とあります。前の部分とどのように繋がっているか、見えにくいかもしれません。しかし、ここは「遊びに対する真面目な仕事」と考えると、自分の身に引きつけて感じられるのではないかと思います。つまり気晴らしの遊びはもとより、遊びに対立すると考えられている人間の労働・仕事についても、パスカルは同じようなものだと考えた。煎じ詰めれば、ある目標を立て、その目標を達成するために、今の自分を手段として用いること。それが働くことだというのです。そうした状態にいる限り、自分がどこから来てどこに行くかを考えないで済むということです。最初に、ダンスやリュートを例に挙げているので、遊ぶことが告発されているように見えるかもしれませんが、パスカルにとっては、真面目な仕事と遊ぶこととはまったく同じ次元にあった。すべての活動、より正確にいえば、手段として位置づけられるすべての活動が、人間とは何かを考えることの妨げになっている。そういう趣旨なのです。
次の文章を見てみましょう。パスカルの考え方の特徴がよくあらわれた文章です。

「人間の尊厳の根拠はすべて考え(パンセ)のうちにある。しかしこの考えとは何か。それは愚かしいものではないか。〔…〕。」(七五六)

「考える葦」の断章を読んで、多くの読者は「人間の尊厳の根拠は考えることにある」というくだりに感動します。それなのに、ここでは、現実的な人間の考えは愚かしいものだと、パスカルは言い切ってしまう。そこには、ふたつの意味があると思います。ひとつは、考えるといっても、われわれが考えることは、たいてい愚にもつかないことばかりだということ。もうひとつは、パンセ(「考えること」「考えたこと」)というのは、この私つまり自己が考える以外に考えようがないのであって、パンセは自己にとって一番近いものであり、両者は一体である。だから自分はパンセを思うままにコントロールできるような気がしている。けれども実は、私は私の考えをコントロールできない。そんな確信をパスカルは抱いています。これも今日は深入りすることはできませんが、それについて、パスカルはいろんな文章を書いています。たとえばある考え、思いつきをもたらすものは偶然であり、それが失われるのも偶然である。また、一旦失われた考えを取り戻す術はないなんていう言い方をしています(五四二)。そこでわかってくるのは、私の考えは私のものであって、私の所有であるはずなのに、考えは私の手をすり抜けてしまうということです。このような事実にパスカルは、大変鋭敏な感覚を持っていたのです。

 *  *  *

パンセ 下(パスカル)岩波書店
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「人間の研究」ということについて、もう少し話をつづけたいと思います。人間は、それぞれ自分が人間ですから、人間を研究することは、そのまま「自分とは何か」を考えることに繋がってきます。「汝自らを知れ」という言葉は、ギリシャのアポロンの神殿に掲げられていた文句です。ソクラテスがそれを自分のモットーとしてから、ヨーロッパの古代から中世、近代に至るまで、哲学のひとつの標語となりました。「人間とは何か」と問う時、普通は、自分の外にあるものとして人間を考えます。一方で、人間が反省的に、自分は何かと考える。これも人間の研究のひとつになります。そのことに関連して、パスカルは「〈私〉とは何か」と題された文章を書いています。それをご紹介したいと思います。〈私〉というのは、今のフランス語では普通の用法ですが、実はパスカルが使い始めた言葉づかいのようです。言葉自体は簡単で、フランス語の一人称代名詞強勢形「moi」に定冠詞を付けて「le moi」と名詞化し、客体化したものです。次の文章の中には、カッコなしの私も出てきますが、それは単純な人称代名詞として受け止めてください。不思議な思いにとらわれる文章ですが、引用します。

「ある人が窓辺に身を寄せて、道行く人を眺めている。もし私がそこを通りかかったとして、彼は私を見るために、そこにいると言えるか。否、彼は私のことを取り立てて考えているわけではないのだから。しかし、誰かをその美貌のために愛する人は、その人を愛しているのか。否、天然痘にかかれば、命は失わなくても、美貌は失われるが、そうなれば、彼はもはやその人を愛さないだろうから。/そして、もし私が、判断力や記憶力が優れているという理由で愛されるとして、この私はたしかに愛されているのか。否、私は自分を失うことなしに、これらの性質を失うことができるのだから。それでは、この〈私〉はどこにあるのか。体のうちにも、魂のうちにもないとしたら。そして体にせよ魂にせよ、その性質のためでなしに、どうしてそれを愛することができるのか。しかるにその性質は滅びゆくものである以上、〈私〉を形作るものではない。いったい、ある人の魂の実質を抽象的に、そこにどんな性質があろうと愛するなどということがあるだろうか。それは不可能だし、だいいち、不正だろう。だから人が愛されることは決してない、愛されるのは性質だけだ。」(六八八)

一読して、読んでも取りつく島がないというか、こんなことを言われても困ってしまうという印象を持たれる方が多いかと思います。テーマは「〈私〉とは何か」、自己とは何かということです。この文章の不思議なところはどこか。まず私というものについて、それを見られるあるいは愛されるという受動的な状況に置いてみて、一体私は一貫性があるものとして存在しているのだろうかという問いを立てる。言われてみれば、我々は生まれてから死ぬまで、体も頭も心も変化しながら成長し、それから老化していく。知能も変わるし、心だって、身体能力だって変わっていく。そう考えていった時、ある時点で美しいが故に愛されたとして、その美しさが失われたら、それでも自分は愛されるのだろうかと考える。そういう視点で私を眺めてみると、どうも私というものの一貫性はなくなってしまうんじゃないか。でも、文章の響きとしては、そんなことをわざわざ言いたいがために書かれているとも思えない。しかも途中で「この〈私〉はどこにあるのか。体のうちにも、魂のうちにもない」と言っているのを見ると、そもそも〈私〉というものが存在しないと主張しているように読める。しかしその次の、「ある人の魂の実質を抽象的に、そこにどんな性質があろうと、愛するなどということがあるだろうか、それは不可能だし、だいいち、不正だろう」まで進むと、存在しないかもしれない〈私〉を愛することはできるのか、それは正しいことなのかという問いかけにぶつかって、読者としては面喰ってしまう。実際、ここはちょっと解釈が難しい個所です。誰でも、人間は生まれた時に名前を与えられ戸籍に登録されて、死ぬまで個人的なアイデンティティ、つまり〈私〉として生きているつもりになっています。でも、そのことを分析して考えてみれば、すでに見たように、私自身は常に変わっていくことを認めざるを得ない。それにもかかわらず一貫した〈私〉を想定するためには、「魂の実質」という事々しい言葉でも持ち出すほかありません。しかしそれは戸籍に登録されてアイデンティティを獲得したそれぞれの個人=〈私〉と同じことで、生まれてから死ぬまで有為転変を遂げて、境遇によって善いこともすれば、悪いこともする。立派なこともすれば、人前では見せられないような恥ずかしい行為をすることもある。それらすべてを引っくるめたものが〈私〉だとすると、「そこにどんな性質があろうと愛するなどということがあるのだろうか。それは不可能だし、だいいち、不正だろう」と、パスカルは言うのです。ここはかなり引っかかるところです。「不可能」と言うのはまだしも、「不正」とはどういうことなのか。そう思われる方も、いるのではないでしょうか。これはある意味で、世間の常識を逆手に取った議論です。

「愛」という言葉の意味を考えてみてください。単に男女の恋愛という枠で考えるのではなく、人間として尊重し大事に思う気持ちを、「愛」だと考える。そうすると「哀れむ」ことは「愛する」ことではない。このことは直感的にわかっていただけると思います。一方で「不正」という言葉を考えてみます。「不正」の裏には「正義」とか「公正」という考え方があります。世の中における人間の評価を考えた時、当事者それぞれの価値に応じて評価はなされる。学校の成績から会社の人事評価、犯罪の処罰に至るまで、人々の価値に応じたものを与えるのが「正義」だと、世の中では考えられている。これが「正義」のもっとも普遍的な考え方です。いい仕事をしたから給料を高くする、あるいは他人に傷を負わせたから罰するとか。もちろん価値というのは極めて多様で、主観的に考えても違ってきます。しかし、価値の査定について意見の相違があったとしても、自分の価値が傷つけられたと思った時に、これは不公平だと感じる。たとえばおやつの時に、母親が子どもたちに羊羹を与える。その羊羹を、ある子どもがお兄さんの一切れと比べて薄いなと思えば、不公平感を抱く。でも、もしかして母親には子どもが何人かいて、小さい子には小さくと考えているのかもしれない。いずれにせよ、誰が正しいかどうかは別として、子どもが不公平だと感じる根拠は、価値に応じたものが与えられるべきだという原則です。疑いは、価値の評定の違いから生じてくるのであり、原則自体は疑われていません。だから、親も子も「価値に応じたものを付与すべきだ」という見解においては一致しているのです。しかし、かりに罪を犯して捕まった人を愛せと言うのは、正しいことなのかどうか。大変難しいのは、「罪を憎んで人を憎まず」という言葉がありますね。ここが愛の問題に関わってくることだと思います。愛というものを少しずらして、尊重とか高評価と考えてみればわかると思いますけれども、我々が人生の中で、自らの活動に対して与えられる評価は、公正正義に基づいているはずです。その観点から見た時に、私が犯罪を起こせば処罰されるし、その点では軽蔑され、憎まれてもしようがない。それなのに、愛してほしいと望むとしたら、それは不正です。しかし誰がそのような願望をきっぱりと断念することができるでしょうか。パスカルの文章に戻って、「〈私〉と何か」という断章の裏にあるものが何かを考えてみると、首尾一貫した自分なんて、生まれた時から死ぬまでないように見えて、実は一貫したものがひとつだけあるんですね。自分がどんな状況に置かれ、どんな性質になろうとも、犯罪人になったとしても、認知症になって介護されることになったとしても、憎しみでも憐れみではなく、人として愛してもらいたいという気持ちは、生まれてから死ぬまで変わることがない。それが〈私〉の自己一貫性であり、アイデンティティなんだと、パスカルは主張しているように思われます。

もうひとつ付け加えれば、最後に「だから人が愛されることは決してない、愛されるのは性質だけだ」と結んでいますが、ここも少し気をつけて読まなければなりません。世の中の価値評価の基準に沿った考え方で言えば、美人だから愛する、頭がいいから愛するというふうに、理由をつけていく。ならば美しくなくなったら愛さなくなってしまう、棄ててしまうのか。そのような問いが持ち上がります。しかし、ここで問われているのは、そういうこととは違います。逆に言えば、愛ってそんなものなんだろうかということが問われているのかもしれません。もしかしたら、愛が向かう先、その目標は、公正の観点から問題にされる価値ではないのかもしれない。愛の目標になるものは、いわく言い難いものである。だから、それを「魂」や「人格」と言ったり、あるいは端的に「人」と言ったりするわけです。愛が向かうのはそうしたものであって、美しさや頭のよさといった価値ではないという思いが、この文章の裏にある。いや、パスカルの信仰に即していえば、「裏」ではなく、本心です。パスカルは熱心なキリスト教徒であり、人間は神に対して罪を犯した、その原罪の影響化にあって、神の助力がなければ、そもそも人間が他者そのもの、その魂や人格を愛することは不可能であるという考え方を持っていた。(私がパスカルに代わってそこまで言い切ってしまうのは危険なんですが、あえてそう言います。)にもかかわらず、イエス・キリストは、罪人である自分を先に愛してくれた、神の方が先に自分を愛してくれたという感覚を、パスカルは持っていたと思います。このことは、キリスト教の教義として与えられていますが、それ以上にパスカルという人には、その感覚が強い。彼自身の人生の中で、そういう感覚を持ったことが何度もあるし、そのことを文章に書いている。自分は、ここに書いてある通り、生まれてから死ぬまで、無限の変化を遂げて、やがて(神の恵みがなければ)滅びていく〈私〉である。その中で、たまたま価値がある時もあったにしても、全体として罪びとであり、無価値な存在である。それにもかかわらず、〈私〉という総体を愛してくれる存在が先にいた。それが、イエス・キリストという神である。人間が神を愛し、他者を愛することができるのは、人間の愛に先行するイエス・キリストの愛があるからだ。彼の信仰の根拠には、このような感覚があるということです。

 *  *  *

最後に一つだけ補足して話を終わります。パスカルはコミュニケーションについて強い関心を持っていたと、最初に申しました。この場合のコミュニケーションは、もちろん人間同士のコミュニケーションを問題にしています。彼はコミュニケーションを強く望み、それが人間に必要不可欠なものだと思っていた。しかしながら『パンセ』の多くの断章では、コミュニケーションの断絶あるいは機能不全が強調されている。その原因は、パスカルの信仰に関わっていると思います。人間と神のコミュニケーションが、人間同士のコミュニケーションの前にあって、その基盤となっていると、パスカル自身は考えていました。もし時間があれば、テクストを通じて、そのことを解説したかった。「人間の研究から神の探求へ―コミュニケーションの断絶と回復」と、配布した資料には書きましたが、人間は原罪によって神との交流から閉め出されてしまったと、パスカルは考えていた。その状態からどのように回復できるかが、彼の課題だったわけです。断章をひとつだけ読みます。

「この宗教の本質は、人間が栄光のうちに神と交流する状態から堕落して神と離れ、悲しみと悔い改めの状態に陥っているけれど、今生の後には、来たるべきメシアによって元の状態に復帰できると信じるところにあるが、この宗教はつねに地上に存在した。」(二八一)

一行目にある「交流する状態」は、原文では「communication」という言葉が使われています。パスカルにとっては、コミュニケーションというのは、知識や思想、信念の受け渡しではありません。モンテーニュの言う「私という普遍的存在」の受け渡しがコミュニケーションなのです。そしてそれを可能にするのは、罪びとである人間に自らを贈与した神、イエス・キリストをおいて外にないというのです。これを信じるか信じないかは読者に委ねられた問題になりますが、とにかくパスカルはそういう考え方をしていた人だったということを、最後に申し上げておきたいと思います。
(おわり)

第3176号 2017年2月10日 新聞掲載の塩川徹也氏と野崎歓氏の対談《パスカル「パンセ」を読む》はこちらからご覧いただけます。

この記事の中でご紹介した本
パンセ 上/岩波書店
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著 者:パスカル
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パンセ 中/岩波書店
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パンセ 下/岩波書店
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著 者:パスカル
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