『天皇の美術史』(全6巻、吉川弘文館)刊行始まる 天皇と美術の関係を探る 見えてくる新たな時代観と美術史像|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」

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読書人紙面掲載 特集
2017年2月17日

『天皇の美術史』(全6巻、吉川弘文館)刊行始まる
天皇と美術の関係を探る 見えてくる新たな時代観と美術史像

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吉川弘文館より『天皇の美術史』(全6巻)の刊行が開始された。編集委員を代表して、髙岸輝氏には本シリーズの全体像を、五十嵐公一、伊藤大輔の両氏には第一回、第二回配本の担当巻について、これまでの美術史とは違った視点をもった本書の魅力、読みどころなどを、また美術史家の辻惟雄氏には本シリーズへの期待を込めたエッセイを寄せてもらった。(編集部)

天皇と美術の関係を探る
見えてくる新たな時代観と美術史像
編集委員 髙岸 輝

日本美術ブームと言われる近年、主要な美術館には多くの観客がつめかける。昨春、東京都美術館で開催された伊藤若冲の展覧会では、最長で四時間近い入場待ちの行列が上野公園に出現した。ブームを牽引する近世絵画だが、研究の導火線となったのは、辻惟雄『奇想の系譜』(美術出版社、一九七〇年)である。今回、『天皇の美術史』では全六巻のうち二巻を近世美術に充て、第四巻「雅(みやび)の近世、花開く宮廷絵画」は、俵屋宗達や尾形光琳らが古典絵画を再生させる過程を論じた。第五巻「朝廷権威の復興と京都画壇」では、若冲や円山応挙ら個性を輩出した十八世紀の京都において、天明の大火(一七八八)後の御所復興を機に、流派の序列と絵師の制度化が進行したことを説く。近世の朝廷が果たした役割を見直し、個性と制度のせめぎあいから画壇システムの実態を明らかにする試みである。若冲の代表作「動植綵絵」は、明治二十二年(一八八九)に相国寺から宮内省へと献上され、現在は宮内庁三の丸尚蔵館に所蔵される。第六巻「近代皇室イメージの創出」は、明治国家による古美術保護と西洋美術の導入、美術家顕彰システムの構築が、皇室の名のもとに行われたことを明らかにする。

混雑する展覧会の中でも、毎秋、奈良国立博物館で開催される「正倉院展」は別格だ。多くのリピーターたちは、聖武天皇の時代、シルクロードから平城京へと展開したユーラシアの美術交流に思いをはせる。第一巻「古代国家と仏教美術」は、古代の天皇たちが唐宋の美術を受け入れる窓口として果たした役割を語る。

本シリーズは、飛鳥・奈良時代から明治・大正時代を射程に収めるが、日本美術史の時代名は日本史のそれとはやや異なる。「奈良」を「天平」、「安土桃山」を「桃山」と称する類である。「天平」の美は現存する正倉院宝物が最も雄弁に物語る。「桃山」といえば、豊臣秀吉や徳川家康周辺における狩野派の隆盛、城郭を飾った絢爛たる障壁画、南蛮貿易によるヨーロッパ美術の影響が頭に浮かぶ。かつては平安後期を「藤原時代」と称し、摂関期から院政期の華麗で精緻な仏画・装飾経・絵巻・工芸品などを包含していた。要するに、美術史独特の時代区分と時代観は、強力な芸術庇護者の出現と、それを上手く説明しうる現存作品の質と量に依存し、年表の中にいくつかのピークを設定するという方法で行われてきたことになる。

本シリーズでは、これまでの美術史が行ってきた発想を転換し、古代から近代にいたる数十人の天皇ひとりひとりについて、知名度の有無にかかわらず史料と現存作品の両面から美術への関与を検討することを心掛けた。その結果、政治史上の重要な天皇が美術とも意外な関係を有していること、知られざる天皇の文化史的な業績、さらに美術史で不毛とされる時代に光を当てることができた。

一例として十四世紀を挙げよう。平安の貴族文化が爛熟した十二世紀、天下人たちの美術が勃興する十六世紀。十四世紀はこれら二つのピークに挟まれ、特に南北朝時代(一三三三~九二)の絵画や彫刻は評価が低く、国宝指定は少ない。鎌倉初期の傑作とされてきた「伝平重盛像」「伝源頼朝像」(神護寺蔵)について、南北朝時代の康永四年(一三四五)に制作・奉納された足利尊氏・直義兄弟の肖像であるとする衝撃的な説が発表されてから二十年以上が経つ。当時、美術史家の一部が示した強い拒否反応の根底に、「あのような傑作が南北朝に現れるはずがない」という先入観が横たわっていたことは否定できまい。

第二巻「治天のまなざし、王朝美の再構築」所収の加須屋誠「十四世紀美術論―後醍醐天皇を中心にして―」は、この間隙とされる時代を正面から取り上げた。後醍醐は寺社や公家から美術品を収奪し、中華皇帝を意識した肖像画を描かせ、密教美術の制作に傾倒した。権力の可視化を追求する姿勢と、遺された作品に示される美意識とを丹念につなぎ合わせることにより、『太平記』に記されたバサラの価値観や、網野善彦『異形の王権』(髙凡社、一九八六年)が明らかにした中世人の心性と響き合う議論を展開する。また、第三巻「乱世の王権と美術戦略」の拙稿「天皇と中世絵巻」では、後醍醐と同時代を生きた花園天皇に注目する。天皇は幼少時から絵巻鑑賞に熱中し、自ら絵筆を執って北宋の徽宗皇帝を真似た花鳥画を制作した。南朝と北朝に分かれ、ライバル関係にあった二人の天皇を美術との関係から見直すと、十四世紀美術史を形成する二つの焦点として浮かび上がるのである。

サントリー美術館(東京・六本木)で今春開催される展覧会「絵巻マニア列伝」(三月二十九日~五月十四日)は、後白河・花園・後花園ら中世の天皇、足利将軍、そして松平定信にいたるパトロンたちの視点から絵巻の歴史をひも解く。新たな切り口の展示は、『天皇の美術史』とも共鳴する。
新しい美術史のはじまり
第2巻『治天のまなざし、王朝美の再構築』
編集委員 伊藤 大輔

第二巻の副題は「治天のまなざし、王朝美の再構築」である。この副題に至るまでには、本巻担当の小生だけでなく、全体監修の髙岸氏、共著者の加須屋氏などが、担当編集者氏も交えて何度も会議や打ち合わせを行い、呻吟の末ようやくひねり出したものである。全六巻の中でも一番苦労したのではないかと思う。それだけ本巻の内容は、常識的な枠に当てはまらないものだったのだろうと今では感じている。

本巻においては、平安末の後白河天皇から南北朝時代末の後円融天皇までが取り上げられている。この時期はいわゆる院政という政体が成立し、実質的に機能した時期であり、この時期の権力の中心を総称的に指すには、「治天」しかないであろうという判断に至った。

またこの時期の美術は、平安時代に確立した王朝美を古典とし、王としての権威創出のために歴代の治天は、常に王朝美と関わり、その継承と再創出に取り組まねばならなかった。美とは、個人的感性の問題であるとともに、社会的評価の問題でもある。そこには、見る――見られるという関係性、すなわち「まなざし」が介在している。また、相手を見ること、すなわち「まなざす」という行為そのものが、権力行使の意味を持っている。見る側と見られる側が取り結ぶ関係の非対称性は、男と女や上司と部下など現実の社会関係とも絡んで、人文学、社会学の諸分野で議論が重ねられていることは周知の通りである。こうした問題意識を踏まえて、「治天のまなざし、王朝美の再構築」という副題が本巻に与えられることに落ち着いた。

本巻では、視覚的造形物である美術を媒介にまなざしが生み出す権力性について二人の著者が論じている。

前半は伊藤が、鎌倉時代の世俗絵画について通史的見通しを保ちつつ、まなざしの問題について取り組んでいる。拙論では特に、風流の問題に着目する。風流とは祭りなどのハレの場で非日常的に飾り立てた衣装や調度品を作ることである。その出来不出来が社会的な名声に関わるものであり、平安貴族たちは名誉を求めて美を競った。従来、王朝美はこの風流が持つ競合性がもととなって洗練を極めたとされてきた。しかし、拙論では、風流と対抗する「過差禁制」の美意識がもう一方に存在したことを新たに掘り起こし、その抑制的な美が、院政期から鎌倉時代にかけての新しい美を生み出す原理――あるいは王朝美の再構築の原理――になったことを指摘する。近年話題になった「鳥獣人物戯画」も実のところ、「過差禁制」の美意識が生み出したことを示した点も従来にない成果である。

後半は、加須屋誠氏が後醍醐のまなざしという観点を中心に十四世紀の美術全般を縦横に論じている。十四世紀美術のみを独立して論じる試みは研究史上初であり、画期的な論文であることは疑いない。

従来の十四世紀美術は、鎌倉と室町の間にあって、どちらの時代とも確定し得ない作品を放り込んでおく便利なブラックボックスであった。しかし、日本の肖像画の傑作「源頼朝像・平重盛像・藤原光能像」(神護寺)が実は、足利直義、足利尊氏、足利義詮を描いたものであるという衝撃的な新説が出て以来、この時代の美意識の高さに注目が集まり、作品の掘り起こしや再評価が進んできている状況であった。加須屋論文は、こうした最新の動向を踏まえて十四世紀美術を初めて総括しようとする野心的な論考である。新しい美術史のはじまりに、是非読者の皆様にも立ち会って頂きたいと思う。
『天皇の美術史』に期待する
辻 惟雄

日本美術の通史は、キーワードをそこにつけることによって、さまざまにかたちを変える。私はかって、「かざり」をキーワードにする通史を試み、そのことを痛感した。「かざり」を釣針にすると、単なる装飾品だけでなく、座敷飾り、祭りの飾りといった、動作や空間性を伴う装飾の数々が釣り上がるのである。

このたび、吉川弘文館から、『天皇の美術史』全六巻の刊行が始まる。「天皇」をキーワードとした日本美術の通史である。編集委員は五十嵐公一、伊藤大輔、塩谷純、髙岸輝、野口剛、増記隆介の六氏、これに合わせて同じ世代の美術史家九人が執筆に加わる。近未来の日本美術史学を担う顔ぶれである。大方の名前も顔も存じ上げてはいるが、なにせ、当方とは年齢が倍以上も違っている。私の推薦文がズレたものにならねばよいが……。

久しく「現人神」であられた天皇が、みずから「人間宣言」をされたのは、敗戦翌年の元旦だった。当時私は中学一年。このような世代にとって、「天皇」はキーワードとしてあまりに重すぎる。そんな心配とは無縁の世代が、この企画を実現させた。

私が大学院生のときのベストセラー『日本の歴史』(全十二巻、一九五九、読売新聞社)は、皇国史観の軛から解き放たれた学者が、新聞記者と力を合わせ、明快な読み物としての、日本通史となっていた。人間天皇や上皇がそこに生き生きと登場する。後白河院はその代表格で、今様にはまり、喉を腫らし声が出なくなってしまった、蒔絵師の家に突然入り、主人と長時間話し込んで警護の者をはらはらさせた、とかいう「奇想」のエピソードは、小学生のときに叩き込まれた、恐れ多い天皇のイメージは、これでだいぶ直った。「善を尽くし美を尽くす」ことが浄土への道を保証すると考えられたこの時代に、後白河法皇が蓮華王院に集めた美術コレクションが、どのようなものだったか、これについては、佐野みどり氏の論考などがあるが、今回の企画において〈美の帝王〉はどのような扱いをされるのか。

後白河法皇は二回にわたって登場する。まずは、聖武天皇らとともに、奈良・平安時代をひとまとめにした第一巻で、ついで鎌倉・南北朝時代を扱う第二巻の冒頭にも、院政美術の主役として記述される。二巻にわたる厚遇だが、本命はほかにあるようだ。

吉川弘文館の広報誌「本郷」一月号での談話で、編集委員の髙岸氏が次のように発言している。いささか面はゆいが、そうだとすれば有難い。

“(辻惟雄の)『奇想の系譜』で十八世紀が面白いと分かったとすれば、今回の第二巻で「南北朝、実はすごいよ」ということが、日本美術史でほぼ初めて分かったのではないかと思います”

天皇の影が薄い室町・戦国、江戸時代に、合わせて三巻のスペースが与えられているのも意外だ。影に照明を当てれば、これまで見えてなかった美術の姿が浮かび上るのではないか、という予想がそこにある。

先人のつけた道をそのままたどるのではつまらない。違った新しい道を見つけて先人を越えたい――若い研究者は同じ思いを胸に秘める。美術史のメタボリズムである。私もかってそうだった。

「本郷」での談話には、こんな言葉もみられる。

“ありきたりの通史にはなっていません” (五十嵐)

“皆さんいろいろな意味ではみだしています” (髙岸)


シリーズ『天皇と美術史』に期待しよう。

昨年十一月四日、図らずも文化功労者となった私は、宮中での記念茶会に招かれた。天皇・皇后両陛下は、文化勲章受章者と功労者とが座る食卓を廻られ、一人一人にお声をかけられる。お二人は私たちのテーブルにお座りになった。とっさに私は、皇后に次のことをお尋ねした。
「恐れながら、皇后さまは、大学での卒論にアンリ・ルソーをお選びになったと漏れ承りますが」。

美智子様の御成婚の時、この記事を何かで見つけ嬉しかった。アンリ・ルソーは世界で一番好ましい画家だと自分も思っている。

皇后さまは不意をつかれたように両手で顔を覆って「恥ずかしいわ」を何度も繰り返された。まるで女学生のような初々しさだった。

ご記憶によれば、それは、お友達とガリ版で文集を出しておられたときのこと、文章が一つ足りないと分かり、美智子様が穴埋めの役をされた。その時の苦心の作が「アンリ・ルソー」だった。

このことは天皇にも初耳だったらしい。「そう」「それを書いたのはあなたが十八の時だったでしょう」などとおっしゃる。その間、皇后に向けられる天皇のまなざしは愛情に満ちていた。

『天皇の美術史』は、明治・大正時代で終わり、昭和、平成は省かれている。最近の束の間の体験を加えさせていただければ幸いだ。
天明の大火、京都の絵師たち
第5巻『朝廷権威の復興と京都画壇』
編集委員 五十嵐 公一

現在の京都御所は、光格天皇在位中の安政二年(一八五五)に建てられたものだ。その前年に御所が焼失したため造営された。では、それ以前はどうだったのかというと、江戸時代に御所は建替や焼失により八度も造営されている。慶長、寛永、承応、寛文、延宝、宝永、寛政、そして安政年間(安政二年)の八度である。いずれも幕府の資金で造営され、御殿には障壁画が描かれた。

そして、その障壁画だが、制作体制に注目すると大きく二つに分けることができる。慶長(一度目)から宝永(六度目)まで、そして寛政と安政(七度目と八度目)である。なぜ二つに分けられるのかというと、慶長から宝永の御所障壁画は、幕府に仕える江戸在住の狩野派の絵師たちが中心となって描いた。江戸から京都に出張して描いた訳である。一方、寛政と安政の御所造営では京都在住の絵師たちが描いたからである。

この変化は寛政の御所造営の時に起きている。ということは、変化をもたらすような出来事が、この時にあったということになるのだが、それは天明八年(一七八八)の大火だった。

天明の大火は、京都史上最大の火事だった。その被害は甚大であり、御所も焼失した。御所焼失の知らせをうけた幕府は、すぐに再建に動く。その指揮をとったのは老中・松平定信だったのだが、簡単な仕事ではなかった。幕府財政が逼迫していたからである。しかし、幕府は威信にかけて御所造営をなさねばならない。そこで、定信は造営経費抑制に着手する。そして、その方策の一つとして、御所の障壁画を京都在住の絵師たちに描かせた。江戸から京都に絵師を派遣して障壁画を描かせた場合、絵師たちの出張旅費が必要となるからである。

ただ、これに伴い新たな問題が生じる。京都在住のどの絵師に描かせるのかという問題である。御所の障壁画なので、素性の怪しい絵師に仕事を任せる訳にはいかない。そこで絵師選考が行われた。いくつかの選考基準があったのだが、それ以前に朝廷の仕事を請負った絵師は選考を楽に通過し、そうでない絵師は通過が難しかった。

この点は現在の役所の公共工事とよく似ている。役所の仕事を請負った実績、つまり登録業者であるか否かが先ず問題となる。今も昔も変わらないのである。

こうして、寛政の御所造営で障壁画制作をする絵師六十四名が決まった。そして、この絵師たちを纏めるため、朝廷からの仕事を代々請負ってきた土佐家と鶴沢家の絵師に絵師頭取という役割が任せられた。

すると、どうなるのか。この体制が京都の絵師たちに影響を及ぼすことになる。土佐家と鶴沢家の絵師が最上位、その下に御所障壁画制作に参加した絵師、その下に参加できなかった絵師という序列ができる。

そして、こういう序列が一度できると、それが続いてゆく。安政の御所障壁画も、この序列のもとで描かれた。つまり現在の京都御所は、こういう序列が出来きていた京都の絵師たちによって描かれたという訳なのである。

『天皇の美術史』(全六巻)のうち、第五巻のタイトルは「朝廷権威の復興と京都画壇」である。いま見てきたように、天明の大火後の天皇の権威と京都の絵師たちの関係に注目した。光格天皇、仁孝天皇、孝明天皇という幕末の三天皇の在位期間の話である。御所障壁画の制作体制、その周辺事情について多くの史実を紹介する。様々な事情があったことに驚かれるのではないだろうか。
2017年2月17日 新聞掲載(第3177号)
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