文系学部解体・廃止の最終時計 連続討議「文系学部解体――大学の未来」 第一回(於:横浜国立大学)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」

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文系学部解体-大学の未来
2016年7月15日

文系学部解体・廃止の最終時計
連続討議「文系学部解体――大学の未来」
第一回(於:横浜国立大学)

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六月十六日、神奈川県横浜市の横浜国立大学で、「『文系学部解体』以降の日本の大学」と題されたシンポジウムが開かれた、昨年十二月に『文系学部解体』(角川新書)を刊行して話題を呼んだ、室井尚氏(同大学教授)が企画した会で、五回にわたって行われる連続討議「文系学部解体―大学の未来」の第一回目である。初回のゲストは評論家の内田樹氏。文系学部解体・廃止への「最終時計」は、果たしてどこまで進んでいるのか。この討議の模様を載録させてもらった。教育の荒廃は、社会の荒廃・衰退にもそのまま直結する問題である。「週刊読書人」では、この問題に注目し、幅広い分野の方々からの意見を募ります。地方大学に勤める教員の方、あるいは私立大学に勤務する教員の方、大学生、大学院生も含めて、郵送およびホームページで受付けいたします。インタビュー等、取材に関するお問い合わせも是非お寄せください。(編集部)

強制された「改革」

室井
僕の本をまだ読まれていない方のために、簡単に、本の内容を説明しておきたいと思います。まず歴史的に振り返ると、一九九一年に実施された「大学設置基準の大綱化」によって、ほとんどの大学で教養課程がなくなりました。また競争原理が導入され、新しい大学や学部が作られるようになった。少子化はこの頃からわかっていたはずなのに、逆に大学や学部の数、学生定員数は増えていく。そして二〇〇四年に、国立大学が法人化されます。そこですべてが変わりました。民間会社と同じような形態になったわけです。それ以前まで、大学教員は国家公務員の身分だったんですが、労働基準法管理下となります。ただし、「みなし公務員」と言って、実際には公務員の時と給与の基準も同じ、人事院勧告に従って定められていました。さらに二〇〇六年、第一次安倍内閣が誕生し、それまであった中教審とは違う、教育再生会議という内閣直轄の組織が発足します。これが現在の内閣の教育再生実行会議に繋がる。ここで何を安倍内閣が行なったか。教育基本法を改正して、学長のガバナンスを強化する。それまであった教授会の権限を大きく削減し、民間会社のように権力をひとつの中心に集中させ、学長がトップダウンで素早く意志決定できるようにした。

その後、二〇一三年六月に、文科省は国立大学改革プランを打ち出します。第二次安倍内閣の発足は二〇一二年十二月ですが、半年も経たないうちに、すべての国立大学の学部・大学院研究科ごとに数百に及ぶミッションの再定義が決定され、それに従った改革を強いられることになります。一見すると、各大学の自主的な意志でミッションの再定義をしたようにも見受けられますが、実際には違います。現場に立ち会っていましたからよくわかります。文章が勝手に書き込まれた上で送られて来る。我々が書くところは数値目標ぐらいしか残されていない。そうした形で、ミッションの再定義が、まさに上から降ってくるわけです。

国立大学のカテゴリー分けと、運営費交付金の配分方法の変更も行われました。東京大学や京都大学のような旧帝国大学は、グローバルに戦える世界水準の研究教育を行なう大学として位置づけされました。東京工業大学や東京芸術大学といった大学は、ひとつの専門分野で世界的な質を確保する大学として定義される。僕が勤める横浜国立大学をはじめとする、戦後にできた大多数の新制大学は、地域に貢献する大学としての位置づけをされました。それぞれのカテゴリーに合ったミッションに応じて、各大学の改革を行わなくてはいけない。この改革の進行具合によって、運営費交付金の配布も決められる。これは昨年度からはじまっています。

大学改革の基本的な方針として、教員養成を行わない新課程を一律で廃止し、教員養成だけに特化した学部へと縮小することも強いられています。横浜国大の場合、この新課程にあたる人間文化課程(一五〇人)を、「第三期中期目標・中期計画」の期間内(平成三一年~三二年度まで)に廃止することが、一方的に告げられました。もうひとつの方針は、地域創生、グローバル系学部の新設です。地域創生は安倍内閣のスローガンであり、グローバル人材育成も安倍内閣が進めている政策です。これにのっとった学部・学科の新設を行なう。前者の例が宇都宮大学地域デザイン学部であり、後者の例が千葉大学国際教養学部です。また文系学部を縮小し、理系学部への入学定員のシフトも行なう。大雑把に言えば、これがすべてにあてはまる改革の方針です。神戸大学は、幸いにも文学部はそのまま温存されましたが、教育系のふたつの学部が統合されることになりました。横浜国大でも、経済学部と経営学部が、それぞれ一学科になる。東京大学も、今年の四月から文学部は一学科になった。昨年と今年だけでも、三十近くの国立大学が、学部の新設・統廃合を行なっています。
「第三期中期目標・中期計画」について、もう少し詳しく説明しておくと、二〇〇四年の独法化以降、六年ごとに中期目標・中期計画を作って、それが達成できたかどうかを評価されるシステムになっています。この四月から第三期に入り、ここで文科省の思惑が完全に実現する。先ほどもちょっと触れましたが、学長によるガバナンスのさらなる強化が求められています。あるいは経営協議会における外部委員の意見を尊重しろと言って来ている。今や教授会で決定できることなんてなくなったわけです。教授会の意見を参考までに聞くことはあっても、すべては学長が決め、その学長にしても、学長選考会議が決定することになっています。

人件費の削減についても、かなり厳しく定められています。我々は公務員じゃなくなったはずなのに、公務員の給与を決める人事院勧告に従わざるを得ないんですね。五年前の震災後、国家公務員の給与を平均七パーセント減らすことが決まった。あの時も、もう国家公務員じゃないんだからと従わないでいたら、運営費交付金を減らすという脅しが来た。逆に昨年、アベノミクスで景気がいいんだから、給与を十六パーセント上げろという人事院勧告が出た時はどうだったか。運営費交付金はまったく増えていませんから、このお達しに従うと、給料が払えなくなってしまう。金は上げないけど、給与を上げろと、無理難題を突き付けて来ている。給与を上げるには、人を減らす以外に解決方法はないわけです。簡単に言うと、定年で辞める人の後任を取らない。不補充という仕方で人員を減らす以外はありません。

馬鹿馬鹿しい話ですが、光熱費に関しても同様です。文科省は、エアコンを設置するお金はくれる。今はすべての教室にエアコンがあります。ただし、光熱費までは支払ってくれません。これぐらいの大学だと、電気代も数千万円規模になりますから、光熱費を払えないで今困っている。ならばエアコンを使わなければいいと思うかもしれませんが、せっかく付けたものを使わないと、また怒られる(笑)。だから、少しでもエアコンの効率をよくするために、教員が責任を持ってフィルターを掃除しなければいけない。そういう状況です。こうした流れの中で、何も抵抗することができないまま、次々と学部・学科が潰されているのが現状です。しかしマスコミではほとんど報道されない。それに対して、なんとか声を上げていかなければいけないと思い、『文系学部解体』という本を昨年書きました。今回の連続討議も、そうした活動の一環だと考えています。まだまだ言い足りないことはたくさんありますが、ここで内田さんにバトンタッチしたいと思います。
今は大学淘汰の過程

内田
僕は現場の人間ではなくなっていますから、好きなことを言っても、大学に迷惑がかかるわけじゃありません。ですから、今日は、もう少し大きなスパンで日本の大学について話すことができればと思っています。室井さんのお話を聞いていてもよくわかりますが、今文科省がやろうとしているのは、教育機会そのものの削減です。この点では文科省は非常に苦しんでいると思います。明治以来、近代日本の学制成立以後、教育行政の責務は、いかにして教育機会を拡大するかということだった。どうやって若い日本人たちにより多くの教育機会を提供するか。そういう国家的目的をめざして右肩上がりの教育行政を展開してきた。それがある時点から、学校を減らす、教育機会を逓減させねばならないという社会的な圧力に直面した。文部官僚は、教育機会の充実については多少は知恵が働くんでしょうけれども、教育機会をどうやって逓減させるかについては、ノウハウを知らない。そもそもそんなことを一度も考えたことがなかった。結果的に辿り着いた答えは、市場原理に丸投げするということだった。ただ、全部市場に委ねてしまったのでは、文科省の存在理由がない。どの教育機関が淘汰されるべきで、どれが残るべきかについてガイドラインを提示するくらいの仕事はしないと、文科省は不要だということになる。だから、文科省は「なくなってもよい教育機関のリスト」を作ることにした。そのために日本中の教育機関の「格付け」を行うことにした。外形的には、すぐれた教育機関に褒賞を与え、努力のたりない教育機関を叱正するという教化的な目的のものと見えますけれど、実体は「このリストの下位校は淘汰されてよいので、下から順番に消えていってもらいます」という「切り捨て」のためのリストです。市場原理による淘汰が加速するように、文科省はそれに手を貸した。それくらいしかできることがない。

大学・学部の中には、多様な教育実践をしているところがたくさんあります。その教育成果は数値的には衡量しえないし、外形的には表示できない。そもそも教育活動のアウトカムがわかるまでに三〇年、五〇年という時間がかかる。それでは文科省としては困る。だから、多様な教育的アウトカムをもたらすような教育活動は「ない」ことにした。すべての教育機関の格付けは「数値で測れる教育成果」に限定することにした。そうすることで、すべての教育機関は規格化され、そのアウトカムは数値的に衡量可能なものになった。その目的は「どの学校から淘汰されるべきか」その順番を市場に開示することです。人口減に合わせて学校数を減らすことは、当たり前のことです。人口増に合わせて文科省の主導で定員増をしてきたんですから、当然、今度は人口減に合わせて文科省の指導で定員減を行うべきだった。でも、それができない。「人口が減りますから学校の数を減らしていきます」、はっきりとそう言えばいいと思うんですよ。今のままでは学校も教員の数も多すぎるので、学校の数を減らしていきます。それにあたっては、どういう減らし方がいいか。皆さんとご相談したい、と。自分たちには知恵がないと言ってくれればいい。学校の増やし方は知っているけれど、減らし方は知らないと、正直に言えばよかった。でも役人は民間に対して「知恵を貸して下さい」というようなことは決して言わない。だから、「格付けによる資源の傾斜配分」というビジネスマンなら喜びそうなソリューションを提示した。

人口減の社会において、学校が減っていくのは当然のことです。しかし、教育機会の削減ということを、日本の教育行政はかつて経験したことがない。だから、やり方がわからない。だから、めちゃくちゃな方法を考えた。朝礼暮改的に次々と教育政策を変える。とてもこなせないような過剰な労働負荷を課す。そうやって教育現場を混乱させておいて、そのさまざまな文科省の「意地悪」に耐えて生き残れたところが生き残る価値があった学校だと市場が認定した、という話にする。別に日本の教育はいかにあるべきかについて文科省にヴィジョンがあるわけじゃない。あれもやれこれもやれとふつうの学校だったらとても担いきれないほどの負荷を課して、つぶれたところは「ダメな大学だった」といって終わりにする、そういうストーリーを書いた。今はその淘汰の過程です。でも、淘汰に長い時間をかけるわけにはゆかない。五年十年でさっさとけりをつけたい。だから、現場にできるだけ負荷をかける。すべての学校がどんどん疲弊していって、結果的に教育機関として機能しなくなる。文科省はまさに教育機関の体力を弱めたいと思っている。「もうやってられない」と言って教育現場から立ち去ってゆく人たちを大量に作り出せば、教育機会の逓減という政治目標は達成できる。だから、教育行政の目的はきわめて虚無的、倒錯的なものにならざるを得ない。現場の教員職員たちが、どんどん疲弊して、やる気をなくして、孤立し、心を病んで、教育活動を放棄する。もちろん、そのような無意味な負荷に耐えられる学校は存在します。文科省の言う通りの無意味な「改革」のために、教員を追い詰め、貴重な教育資源をドブに棄てられるほどに余裕のある学校は生き残るでしょう。
想像の共同体

内田
少し経験に即して話をします。僕は大学を辞めて五年になりますが、二十数年務めていましたから、今でもゼミの卒業生が訪ねて来ます。結婚や転職、子どもが生まれたり、何かの度に集まって来る。別に僕にアドバイスを聞きに来るのではありません。卒業した後の、自分自身の成長の定点観測をしに来るんですね。ゼミの仲間たちと喋ったりする中で、自分たちがどう変わったのか、どれだけ成長したのか。あるいは成長しなかったのかということを観測する時の、メートル原器みたいな感じで教員がいて、学校がある。教育実践というのは、在校生のためだけにやっているのではありません。卒業した人たち全部を含み込んだ、大きな教育共同体がある。建学の時からはじまり、現在があり、今後も五十年、百年とつづいてゆく。そこに含まれているメンバーは、教職員も学生も院生も、みなある「想像の共同体」のメンバーなんです。小さな大学でも、建学時点から算えれば、死者も含めて何万人もの構成員がいる。学校というのは、そういう巨大な共同体なんです。そして、教育活動というものもそういう長期的な流れの中で見ていかなければならない。その共同体が、長期にわたって、全体として、どのようなパフォーマンスを達成したのか。それが教育機関の教育成果を衡量する時の、唯一の基準でなければならないと思います。単年度とかあるいはせいぜい五、六年のスパンでは教育実践がどのような成果をもたらしたかなど測れるはずがない。学校教育のアウトカムというのは、三十年、五十年のスケールで測るべきものなんです。今文科省がやっているのは、その長期的な成果についてはそれを全く無視して、単年度せいぜい中期目標六年程度の短期間で、それも数値で表示できるものだけを教育成果として査定している。それ以外のもの、十年後二十年後に開花するかもしれない可能性についてはまとめてゼロ査定しているわけです。単年度の志願者数とか就職率とか偏差値とかTOEICのスコアで学校教育の成果が計れるというのなら、それは教育機関に「教育をやめろ」と言っているのと同じことです。息の長い、百年単位の寿命を持った巨大な共同体をスライスして、CTスキャンを使って一ミリ単位で観察し、「この生物はこういうものだ」と確定しようとしているようなものです。そんなことでその生物の特性や力量がわかるはずがない。

二〇〇四年に国立大学が独立行政法人になってから十二年経ちますが、日本の大学の学術的なアウトカムは下がり続けです。学術論文の数や、人口当たりの論文点数が、教育的なアウトカムを評価する指標として適切かどうかは議論のあるところですけれども、それが激減している。中国に抜かれ、韓国に抜かれ、台湾に抜かれて、東アジアでもかなり低位まで下がっている。これが大学改革の間違いのない「成果」です。表面的には、客観的な評価を導入して、教員たちを競争的環境に追い込むことで、研究教育を活性化し、学術的な成果を増大させるために制度改革を行ったら、がたがたになってしまった。これは教育行政の失敗以外の何ものでもないわけですけれど、文科省の長期的な課題が、「大学をつぶす」ことであることを考えると、一連の制度改革が、無意識的には、どうやって教育現場に「やる気をなくさせるか」、どうすれば学校の活力を殺ぐことができるか、それにフォーカスして行われた制度改革はまさに「大成功」したわけです。たしかに、狙い通り、教育研究現場はガタガタになった。まだフロントラインでは教職員たちが身を削って学校を守っていますけれど、それもどれだけもつかわからない。いずれシステムはクラッシュします。そして、そのときにでもまだ残っている教育機関があれば、それが「生き残る価値のある学校」だったということになる。

画一化・規格化・数値化し、数値の下の方から順番に潰していく。あるいは、こういうことを達成すれば金をやる、やらなければ金をやらないと言って、半ば脅しをかける。そのようなあり方に対して、僕は心底腹が立つんです。要するに、文科省は「人間は金で動く」という人間観を語って、それを率先して宣布しているわけです。大学人は自分たちがやりたいことがあっても、「それをやるなら金を出さない」と文科省に脅されれば止める、自分たちがやりたくないことでも、無意味だと思っていることでも、「やれば金をやる」と言われればやる。そういうふうに仕込んでいる。人は理想や信念によってではなく、金で動く。そういう人間観を教育行政の所轄官庁が宣布しているわけです。

大学教員には非常に不評な「シラバス」という仕組みがあります。在職中に、「シラバスをもっときちんと書くように」と文科省から言って来ました。僕はシラバスというものには教育的にはまったく意味がないと思っていたし、自分でも碌に書いたことはなかったけれど、教務部長という立場上、教授会で「きちんと書いてください」と言わなければいけなかった。でも、続けて「そうは言われていますが、僕はそんなのどうだっていいと思う」と言っちゃったんです(笑)。そうしたら翌年、助成金がかなりの額削られた。その時は本当に怒りました。僕がシラバスなんて書かなくてもいいと言ったのは、その前に自己評価委員長を四年間やって、学生からのアンケート調査の結果、統計的にシラバスが無意味だとわかったからなんです。アンケート調査では、教員のさまざまなふるまいと授業満足度の間にはそれなりに相関があった。遅刻をしないとか、板書がきれいだとか、資料が整備されているとかいうポイントの高い先生の授業はやはり満足度が高い。しかし、シラバスの精粗と満足度のあいだには統計的な相関がゼロだった。教育効果がないもののために時間と手間を費やすのは無駄です。だから、必要ないと僕は思ったし、そう表明した。こちらはちゃんと統計的な根拠があって言っているんです。それに対して文科省がなすべきことは、シラバスを精密に書くと教育効果が実際に上がるし、学生の満足度も高いという統計的なエビデンスを示すことでしょう。それ以外にないはずです。「あなたは間違っている。もっと組織的な研究で、サンプル数も多い調査の結果、シラバスを精密に書くことで大きな教育効果が出ることが立証されている」と言ってくれたら、僕だって言うことを聞きます。でも、統計的根拠もないことをただ「アメリカではやっているから、日本でもやれ」というようなことを言ったって、こちらは受け付けられません。こちらは自分なりの学術的根拠があって「不要だ」と言っている。当たり前のことですよ。僕たちは研究者で、教育者です。知性を守り育てる場にいる人間である以上、「金をやる」からという理由で自分の知性を黙らせることはできません。でも、文科省は自分たちの政策の整合性を説明することもなく、一方的に金を削るというかたちで報復をした。おまえたちはどうせ金で動くんだろうという役人たちの薄っぺらな人間理解に今でも怒りを禁じ得ません。この話をしているときりがないので、いったん話を収めます。
大学人に話し合いの場を

室井
我々は今、文科省の教育行政に対する批判を、かなり厳しく述べましたが、実は、本当に悪いのは財務省なんです。これもみんな知っていることです。本当の悪者は文科省じゃなくて、背後にいる財務省です。その財務省で、大学予算の担当者が、こんな発言をしているのをウェブで見つけました。簡単に言うと、せっかく政府がいい改革をしようとしても、大学自体が縦割りでタコツボ化していて、相互不干渉で全然動かない。改革に抵抗しているのは大学人そのものである。そんなことを述べています。だから学長のガバナンスをもっと強化しなければいけないし、このままだと世界に遅れて、日本の大学は負けてしまう。改革を進めるためには、数値的評価がより必要になるし、評価が高い大学にはどんどんお金を配分すればいい。そういう発想なんですね。
内田
でも、実際に改革を進めているのに、大学のランキングは落ちているわけでしょ。
室井
その通りです。
内田
過去二十数年間やって失敗している。だから、失敗したとしか言えない。アベノミクスと同じですよ。政策そのものが間違っている。それなのに、自分たちの掲げた政策は正しかったけれど、大学人が現場で文科省の指示通りにふるまっていないので、成果が上がっていないという見苦しい言い訳をする。これは、最低の経営者の言いぐさですよ。経営方針は正しかったが、現場が足を引っ張ったので、失敗した。自分は正しい、現場が失敗の責任を取るべきだ、と。文科省はまさにそうですよ。大学人が政策を誠実に実施しなかったから失敗したのだと言い立てて、大学を処罰するというかたちで失敗を糊塗しようとしている。だから、失敗のあとに来る政策的な指示は本質的に処罰的なものになる。大学を処罰するのは、「文科省が立案した正しい政策」を大学が妨害して、その成功を妨げているという「物語」に文科省が首まで浸かっているからです。教授会の権限を奪ったり、教員たちに屈辱的な仕事を強いたりしているのは、まさに処罰的政策以外の何ものでもないです。別に教授会の権限を学長に移管したからと言って、一気に組織改革が進むなんて文科省の役人だって信じちゃいないでしょう。でも、それで大学現場の教員たちを不愉快にすることはできる。やる気をなくさせることならできる。それはこの間の制度改革の失敗は全部現場のせいだから、大学人はその責任を自分たちの権限や威信の喪失というかたちで支払うべきだと文部官僚が思っているからです。でも、九一年の大綱化から四半世紀、文科省がやってきたことは全部失敗したんです。いい加減に「もしかしたら自分たちの掲げた改革路線そのものが間違っていたのではないか」という可能性を吟味してもいい頃だと思いますよ。
室井
内田さんのご意見は正論なんですが、その理屈では、絶対に彼らは納得しない。僕は、この本を書いてから、いろんな人と大学について話す機会が増えたんですね。中には、こんなことを言う人もいます。「とにかく大学の先生は現実を全然わかっていない。国家財政が逼迫しているのに、国立大学は一切動こうとしない。横浜国大には五つも付属校がある。筑波大学にしても、いくつもの付属校を持っている。こういうのをもう少し整理することを、大学の先生たちは、自分から決して言おうとしない」。挙句の果てには、「国立大学は税金で賄われているというのに、女子大があるのはおかしい。お茶の水女子大と奈良女子大は、さっさと潰して私立大学にするべきだ」とまで言っていた。結局、大学教員が何も協力しないから、今のような状況になったんだということです。しかし私たちは、大学改革に関して意見を求められたことは一度もないし、そういうことを喋る場を設けてくれたことすらない。日本が人口減少社会になっていることは、僕も十分承知しています。それによって大学の数を減らさなければいけない、リストラして国立大学の規模や定員を減らさなければいけないのであれば、みんなで集まって話し合えばいいじゃないですか。この大学にはこういう強みがあるんだから定員はそのままにするとか、ここの学部は似たようなカリキュラムがある学部と統合するとか、我々自身に話し合いをさせてくれればいいものを、とにかく上から言って来るだけです。それなのに大学教員は協力しないだとか、現状を何も理解していないとか、非難する。そういう人たちばかりなんですよ。
イノベーションが起きる組織

内田
要するに文科省は、大学を株式会社に準拠して再組織化し、民間企業みたいにやれと言いたいわけですよね。でも日本の場合、民間企業そのものが失敗しているわけじゃないですか。製造業とか、どんどん駄目になっている。イノベーションも起こらないし、株価も下がっているし、倒産件数も増えている。そのような現にうまくいっていない組織の組織論を大学に適用しようとしているのは、どうしてなのか。せめて成功している組織のやり方を押しつけて欲しいですよ。
室井
そこまで言っていいのかどうかわかりませんが、たまたま最近、ソニーでAIBOを開発した元常務の土井利忠さんの話をウェブで読んだんですね。土井さんは当時、AIBOの開発を、出井伸之社長から中止を命じられた人でもあります。「ソニーがダメになった理由」というテーマだったんですけれど、九〇年代に、出井さんは、アメリカ帰りの三流経営コンサルタントの言うことを信じて、選択と集中の理論で、儲かるプロジェクトしか進めなくなった。それ以外の他の事業を整理する方向に舵を切った。これが失敗の理由だと、土井さんは言っているんです。企業にも無駄が必要だということです。日本の会社に対しては以前、「愛社精神」とか「家族的な経営」みたいな言葉で評されることがよくありましたよね。たとえばソニーにしてもホンダにしても、創業者が作った会社の風土があり、社員みんながそういう社風を愛して、それがあるからこそ頑張ることができた。九〇年代以降、成果主義が導入されたことによって、成果を上げるものしか評価されないし、個人のキャリアや能力によって待遇を変えるようになった。典型的なのは富士通ですが、今や日本の会社はどこも似たり寄ったりだと思います。結果として、誰も会社を愛せなくなってしまった。自分の利益だけを優先的に考えるから、今よりもいい待遇のところからヘッドハンティングの話が来れば、簡単に移っていく。アメリカを倣って、日本も成果主義・能力主義を導入した。そのことによって会社が駄目になったのは、現状を見ていれば、よくわかります。
内田
アメリカだって、今や製造業なんて崩壊しているわけでしょ。当たり前なんですよ。だって、個人の自己利益追求というインセンティブでやってきたんですから。自己利益の追求では人間は実力を出せないんです。どんな組織でも、創造的なところは従業員のオーバー・アチーブメントで持っている。自分の給料の五倍も十倍も多くの利益をもたらす人がいて、それが組織を牽引している。彼らを駆動しているのは、自己利益じゃない。属している集団に対する忠誠心とか帰属感とか、仲間に対する愛情とか使命感とか、いわく言い難いものによって人間はオーバーアチーブする。イノベーションが起きるのは、そういう組織だけなんです。自分一身の利益を考えて、「俺さえ良ければそれでいい」という考えをする人が集まっても、何も起きない。仮に誰かが独創的なアイディアを思い付いても、それを共有することを嫌がって、それがもたらす利益を独占しようする人間ばかりだったら、そんな研究機関が集団的に高いパフォーマンスを発揮できるはずがない。人間は自分のためではなく、世のため人のために働く時に一番力が出るものなんです。そんなこと、少し長く生きていれば、誰だってわかることだと思うんですよ。けれども自己利益を追求して、競争的環境において他人を蹴落とすことに夢中になるときに、人間は最高の能力を発揮すると信じ切っている連中が、日本の指導層を形成している。はっきり言います。こいつら馬鹿なんです。自分がそうやって政治家や官僚やビジネスマンになったので、それが「成功事例」だと思っている。自分自身が自己利益だけを考えて、金のためだけに生きてきたので、それが人間にとって最も正しい生き方で、効率的な生き方だと信じている。まともな組織に属して、自分自身何らかのイノベーションを果たした経験があれば、わかるはずのことですよ。どういう組織が多産的であるか、ということは。いろんな人が属していて、その多様性のうちにイノベーションの芽がある。個人単体で測った場合の能力を算術的に加算しても集団の力は計測できない。この人がいるおかげで、ある種の化学変化が起きて、集団のパフォーマンスが爆発的に上がる。そんな人が必ずいる。でも、その人の能力を個人の成果として数値化することはできない。僕がよく例に出すのは、黒澤明の『七人の侍』です。あの中に、千秋実演ずる林田平八という人物が出て来る。武士としての腕は少し心もとなく、その腕は「中の下」であると、平八を雇いに来た侍には評される。だけど非常に明るい男で、こういう男は、長戦の時に重宝する、と、リクルートしてきた侍は言うんです。戦というのはいつも旗色がいいわけじゃない。長戦で気鬱になったり、きびしい後退戦を戦わなければならないときだってある。そのときに被害をどこまで最小化できるのか。これも組織論上は非常に大事なことです。たとえ剣の腕前は劣っていたとしても、みんなが暗くなっている時に、チアーアップする能力を持っている人がいることは、集団が生き延びる上では、ものすごく大事なことなんです。でも、こういう集団レベルで発動するけれど、個人のレベルでは眼に見えない能力は今はゼロ査定されるんですよ。『七人の侍』にはもうひとり、勝四郎という若侍が出て来ます。戦の時には全然役に立たないし、弱いし軽率なんだけれど、この若造が集団の要になっている。というのは、彼が若くて弱いからです。あとの六人はみんな歴戦の強者です。今度の野武士との戦いでも死ぬかも知れないと覚悟している。それでもとにかく勝四郎だけは、なんとか生き延びさせようとする。このひ弱な青年を生き延びさせることで、六人が得るものがある。それは自分たちの戦いぶりを後世に語り伝えるということです。勝四郎が生き延びれば、いずれ彼は若いときに自分とともに戦った六人の侍のことを繰り返し語ることになるでしょう。自分たちの事績を後世に語り継ぐ者がいること、これもまた組織の戦闘力を高める大きなファクターです。でも、それはたいていの場合「若くて、弱いので、戦闘では使い物にならない」人間なんです。でも、個体としては戦闘能力の低い勝四郎がいることで七人の侍の組織的戦闘力は一気に向上する。そういうものなんです。機能的な組織って、そういうふうにできている。その人がいることで他のメンバーの戦闘力が向上するような化学変化をきちんと仕込んである。単体として見た場合には弱かったり未熟だったりする者がいるせいで「弱さが組織に力を与える」ことって、ほんとうによくあるんです。成果を見るべきなのは、共同体なんです。人間が何かを達成する時には、個人じゃなくて、常に共同体として、集団として達成する。その集団のパフォーマンスをどうやって上げていくのかを考えるのが、組織論です。しかし文科省の政策には、組織論なんていう考えは一切ない。
室井
まったくないですね。それと評価に関してなんですが、今は大学も、個人の業績を、必ず自己評価しなければいけなくなっています。研究や教育、委員会活動などをすべて書きだし、点数を付けて評価する。
教員の相互評価は可能か

内田
自己評価に対しても、言いたいことがいっぱいあります。僕は骨の髄まで合理主義で効率主義の人間なので、九〇年代のはじめに、FD(ファカルティ・ディベロップメント)の仕組みが入ってきた時に、自ら率先してこれを大学に導入しようと思った。大学の教師の中には、碌に仕事もしないで高い給料を貰って、ゴロゴロしているのがいっぱいいましたからね。どうやってこういう人間を給料分働かせられるか、それを必死で考えた。そして、研究教育学務などの業績などすべてを点数化して、格付けし、これを昇格や給与配分、研究費配分に反映したらどうかと、悪魔のようなことを考えたんです。若気の至りでしたけれど、ほんとうにそれが正しいと思った。そして、日本の文系私学で初めて、大学教授会の反対を押し切って、強引に教員評価システムを導入した。でも、導入してみてすぐにまったく無駄だということがわかった。教員の相互評価なんて不可能なんです。僕は、論文点数や著作、担当している学生院生数や、受け持っているクラスの数のようなものは客観的数値だから、それをただ電卓で叩いたら教員評価が出来るかと思っていた。でも、そんな簡単な話じゃない。いきなりある先生から、こんなことを言われた。「内田くんのように一年間に五冊も本を書く人間と、私のように二十年かかって一冊書く人間とでは、一冊の価値が違う」。それに対しては「おっしゃる通りです」としか言いようがない(笑)。そう言われればその通りなんです。スカスカの一冊と彫心鏤骨の一冊が同じ点数であるというのは理不尽です。でも、この質的差異を点数化しようとしたら、膨大な作業が要求される。すべての研究者のすべての研究活動をカバーして、それぞれの業績を数値的に格付けできる人間を探し出して、点数をつけてもらわないといけない。そんな人がいるはずがない。質的評価ということになると、同僚の研究について、ある程度客観的に精密な評価が出来る人、なおかつその人の下した評価にみんなが納得するくらいに学内的に信頼のある先生たちにお願いするしかない。でも、そういう人たちはすでにみんな偉い人なんですよ。学長とか学部長とか学科長とかやって、かつ自分の研究分野でも高い業績を達成している。その人たちに同僚の業績評価という何の生産性もない作業を押しつけて、貴重な時間を割いてくれと言わなければいけない。研究教育の効率を上げるために作った制度が、学内で最もアクティヴィティの高い教員たちの研究教育時間を奪うことにしかならないということに、始めて半年ぐらいで気づきました。ほんとうにバカなことをしたものです。
室井
理系では、論文の被引用数が重視されますよね。客観的な数値が出ますからね。ただ、あれだって勢力がある研究室を担当している先生は、数字が上がるということが実際にあるわけです。そもそも数値化できると信じているのが愚かだと思いますね。また数値によって評価し、給与や研究費の配分を変えるなんて、ものすごい暴力ですよ。
内田
絶対にすべきじゃないです。昔の日本の終身雇用・年功序列のシステムは、考課システムとしてはよく出来てますよ。教師を長年やっているとわかることですが、学生たちはどこかで化ける。全然使えないと思っていた奴が、大化けして、ブレイク・スルーを達成することがある。それは社会人だって同じです。ある日、突然開花することがある。何がトリガーになって、いつ能力が開花するかは予測不能なんです。だから、教師にできるのは、多種多様なトリガーを学生たちのまわりにばら撒いておくことです。その仕事は教員ひとりじゃできない。いろんなタイプの教員たちが、それぞれ教育方法・教育理念を異にする教員たちが、自分の経験知に基づいて、学生たちのまわりに「餌」を撒く。教育というのは、集団の営為なんです。教師というのは「ファカルティ(教師団)」としてはじめて機能する。教育・研究の主体は、個人ではないんです。だから、どうやって教員集団のパフォーマンスを上げていくのか、その工夫にこそ資源を集中すべきなんです。しかし、今の日本の行政が進めている教育改革には、「集団としてのパフォーマンスの向上」という発想が全くない。ゼロ、です。教員たちがひとりひとり「自分さえよければそれでいい」と思って、利己的に行動し、周囲の教員たちのパフォーマンスを切り下げる競争をしていれば、教育現場は荒廃するに決まっている。でも、教育官僚たち自身はそうやって「成功」してきた人間たちです。周りを蹴落として出世した人たちが自分たちの「成功体験」をそのまま学校教育制度に適用しようとしている。自分たちみたいな人間が少数のエリートとして勝ち残り、あとは格付け下位に甘んじて、乏しい資源の分け前にしか与れないという仕組みを作っている。彼らは集団としてイノベーティブな組織とはどういうものか、どうすればそれが実現するかというような問題はたぶん生まれてから一度も考えたことがない。政策と言ったって、結局は立案する人間たちの個人的な「人間観」が投影された作文に過ぎないんです。
室井
おっしゃる通りだと思いますよ。ただ、そういう風に言うと、文科省はなんと答えるか。「結局あなた方は、大学をよくするために、何もしないんですか」と返って来る。何かをしていれば、それでいいみたいな風潮が強いんですね。「手続き型合理性」と僕は言っていますが、たとえば「科研費の不正使用を防がないといけない」と言う。それは、その通りです。しかし、そのために、Eラーニングをさせられた上に、誓約書に署名までさせられる。さらなる努力も求められる。結局、何かしているんだということを見せたいだけのことであって、それで納得するわけです。
内田
改革に関しては、科学的な方法があるわけですよ。実験的にやるなら、定員と学部構成、偏差値もだいたい同じである学校をいくつか選んで、一方のグループはすべて文科省の命ずる通りにやる。一方のグループの学校群は文科省とは無関係に学校ごとに好き勝手にやる。その結果を十年見てみればいい。研究教育のアウトカムは、後のグループの方が圧倒的に高くなるに決まっている。そういう実験をやらせてみれば、文科省の教育政策がいかに有害無益かわかるはずです。その結果、箸の上げ下ろしまで文科省の指示に従っていた学校の方が研究教育のアウトカムが優れていたら、僕は土下座して謝りますよ。
室井
それは構造改革特区みたいなことですよね。ある学校だけは文科省の言うことを聞かないでいいけれども、運営費交付金は減らさないと。
内田
そうです。この実験は絶対にできないんです。だって、文科省の言うことを聞く学校にしか助成金が来ないんですから。自由にやりたいという学校に圧倒的なビハインドを負わせておいて、どういう教育が効果的であるかという結果が比較考量できないようにしている。文科省の指示通りでも、指示を無視しても、どちらでもいい。助成金に差別をつけないという条件で、十年でいいですよ。やってみればいい。そのときに文科省の言うことを聞いたグループより結果が悪かったら、そのあと十年は懲罰的な助成金カットをするという条件を出しても、それでも「好きにやらせてくれ」といって手を挙げる学校はあると思いますよ。だって、文科省に出す書類を書かなくていい、そのための会議も開かなくていい、自己評価もしなくていい、科研費申請もしなくていい、シラバスも書かなくていい、半期十五週授業しなくてもいいんですよ。夢のような環境じゃないですか。ただ研究教育だけに専念していればいいんですから。その成果はすごいことになりますよ。でも、絶対に文科省はそんな実験はやらせない。自分たちが命じてきた政策が、すべて研究教育を阻害してきたことが満天下に明らかになってしまいますからね。ほんとうに自分たちの政策に自信があるなら、会議とペーパーワーク漬けで、教員に自由裁量権がぜんぜんない大学が、自由気ままに研究教育をすることが許された大学と比べて、どれほど高い教育成果をあげられるか、見せてくれればいいじゃないですか。
室井
ミッションの再定義にしても、第三期中期目標・中期計画にしても、文科省は全部をコントロールしたいわけです。高校までのように、学習指導要領で授業内容まで決める。それと同じことを大学にもしようと目論んでいる。彼らにとっては、全国一律同じような学部構成・学科編成が望ましいんですね。
内田
そんなことをしたら、日本という国の知的な水準が落ちるに決まっている。現にこれだけ日本の学術的なアウトカムが低下しているじゃないですか。その現実にきちんと目を向けなければいけない。ここからさらに悪い方向にアクセルを踏めなんて、そんな話に誰が頷けますか。
室井内田さんが勤務されていた神戸女学院もそうですが、実は国立大学より私立大学の方がさらにかわいそうなところがあるんですよね。助成金カットがあるから、シラバスはもちろんのこと、一学期十五回の授業を確保しないといけない。だからどこの私立大学も、今は休日開講している。
内田
バカじゃないですか。国民の休日なのに、なんで授業をやらなければいけないんです。大学教員も学生も、国民じゃないということですか。だいたい授業時間を十三から十五に増やして、どれだけ学習効果が上がったのか。エビデンスを示せよ。
室井
今は十五回確保するために、正月も四日から授業をやっていますよ。正月休みもまともに取れない。
内田
そんなことして教育効果が上がるはずがないじゃないですか。下がるばかりですよ。学生側にしても、そう考えていると思いますよ。三回授業が増えたから、その分学力が上がるなんてふざけた話があるはずがない。
室井
さらに、うちの大学では、今度新学部を作るんですが、六学期制にするんですよ。
内田
六学期制? どういうことですか。
室井
まず前後期をふたつにわける。四、五、六月の頭ぐらいで一学期、六、七月で二学期とする。後期も同様です。なおかつ春休みと夏休みも授業をできるようにして、六ターム制にする。
内田
何を考えてるんですかね。人間は生身の体でしょ。生身の体と生身の脳でやっているのであって、ひとつのことを習って、それが定着するまでには時間がかかるんですよ。耳から入った言葉が、段々体に染み込んでいって、腑に落ちるまでにはそれなりの時間がかかる。どんどん詰め込めば、それだけ量が入っていくわけがない。人間の知性や理解力を、鍋みたいなものと同じだと考えたら駄目なんです。ざっと水を一気に入れれば、いっぱいになる。そんなもんじゃないでしょう。インターバルをじっくり取って、少しつずつ入れないと、身に付くものも身に付かない。
室井
昔のことを言ってもしょうがないけれど、九〇年代の頭までは、大体通年の科目だったんですよね。四単位で一年間ずっと同じ講義をしていた。そこから前期後期にわけてセメスター制になり、今度は六ターム制です。
内田
それは絶対に失敗しますね。予言します。すぐにやめた方がいい。学生たちも声を上げるべきです。「国民の休日は休ませろ」「休んだ方が、効率が上がるから」と。それも実験してみたらいい。休日全部登校させる学生たちと、国民の休日は休める学生たちと、ふたつのグループを作って、何か月かやってみる。どちらの学力が上がるか。教育機関というのは、本質的には「温室」なんですよ。学生たちを社会の雨風から守る。初等教育の成り立ちを考えてみればわかる。イエズス会が作った学校が初等教育のはじまりだと言われていますが、イエズス会士が学校を作って、子どもたちを家から離したのは、親の暴力から子どもを隔離するためだったんです。子どもは親の所有物ではない。子どもを労働させたり、殴ったり、ひどい場合には殺したりすることも当時は「親権」の一部だった。その親の専横から子どもたちを守るために学校を作った。そこは外の社会の価値観とは違う空間なんです。学校の中だけは外と違う空気が流れている。そこで、まだ未熟で脆い、若い人たちを育てる。彼らの才能が開花できるように、風雨から守る。これが一番基本にある学校の機能だと思います。学生たちが自分のテンポで、自分の成長のリズムで、自由に、個性や資質を開発するのを支援する。それが学校の社会的責務じゃないですか。
室井
おっしゃる通りだとは思いますが、これがなかなか言えないんですよ。僕も好き勝手を言っているように見られがちですけれども、内田さんほどは自由に言えない。「運営費交付金を減らす」とか「大学の評価の点数で差をつける」と文科省から言われれば、難しい。自分だけが減らされるんだったらいいんですよ。でも同僚が追い込まれていくことを考えると、そうは言えない。昔、教務委員長をやっていたことがあって、その時の経験を少し話します。内田さんと同じで、どうでもいいとは思いながらも、「シラバスを書いてください」と言わなければならなかった。またゼミ以外の全科目の授業アンケートも取らなければいけない。そのアンケートを業者に解析してもらうと、変な円グラフが出て来る。それに基づいて改善計画を書くことが義務付けられている。そんなことをやっていたら、人格的に壊れますよ。ただ、無視すればいいとは思いながらも、やってくださいとしか言えなかった。
内田
僕の時も、授業アンケートはありました。五段階評価だと、大体「五」でした。でも、いつやっても一つだけ「二」がつく項目がある。それは「教員は十分に授業の準備をして来ていますか」という質問項目だった(笑)。学生もよく見ているなと思いましたね。僕はいつも準備なんてしないでふらふらっと教室にいって、「今日は何の話をしましょうか」と言って授業をやっていたから。でも、授業準備は「二」でも、授業満足度は「五」なんです。「他の学生にこの授業を勧めますか」という質問に受講生のほぼ全員が「します」と回答してくれた。授業の準備の有無と学生たちがその時間の間に経験する知的な高揚感や満足には関係がない。僕にとっては、本を読んだり、ものを書いたり、武道や能楽の稽古をしたり、友だちと仕事をしたりしているすべてが「授業の準備」なわけです。だから、教室で話したいことはいくらでもある。学生たちにわかって欲しいと思うことは何十時間分も何百時間分もある。だから、そのときなんとなく学生たちが聞いてくれるかなと思った話をする。話題の選択はほとんど直感的です。自分が面白いと思う話をする。僕が夢中になってしゃべっているときは、学生たちは私語なんかしないで、聴き入ってますよ。そういうときって、同じ話をぐるぐる繰り返したり、言い淀んだり、つっかえたり、前言撤回したりするんだけれど、「ライブ」で今何か新しいことが起きているということは学生たちにはわかる。そういう授業は食いつくように聴いてくれます。いいじゃないですか、それで。結果オーライで。授業が面白くてためになった、僕の授業から触発されて、そちらの方向で勉強したいと言ってくれているんだから、それでいいでしょ。学生に知的なブレイクスルーが起きるかどうかが大事であって、教師は、そのきっかけをどうやって作ることができるか。それだけだと思うんですよね。
室井
そろそろまとめに入りたいと思います。現実的に考えると、文科省の言うことを無視するのは、今や難しいと思います。だけど、どこかで声を出していかないと、今の大学改革のままでいいんだという空気がどんどん進行していって、大学は息の根を止められることになると思います。そういう意識を、ひとりでも多くの人たちに共有してもらいたいんですね
内田
もう息の根を止められかかっていますよね。
室井
ただ、まだ隙間はあると思うんです。僕は、この大学に二十年以上勤めているからわかるんですが、同僚たちも事務の人たちも頑張っている。それは、そういう隙間を残しておこうとする校風があるからだと思います。内田さんが言われたように、建学以来、諸先輩方やここを卒業したOBたちが作り上げて来たものです。こういうものを、短期的な数値的評価で格付けをし、どんどん変えていったり破壊したりするのはよくない。僕らが出来ることは何か。一応文科省の言うことを聞いたふりして、裏で舌を出しているぐらいのことしか出来ないかもしれません。もうひとつは、内側から声を上げていくこと。学生たちも、今年一月、横浜みなとみらいで、「人文社会系学部の縮小に抗議する集団行為」という横断幕を掲げて、反対の行進をしました。言いたいことを言えない時代になって来たので、自分たちの思いを発信していくのは大事なことです。これからも、そういう流れを内側から作っていきたいと思います。 (おわり)

◇討談「文系学部解体―大学の未来」第二回「『文系学部解体』VS『「文系学部廃止」の衝撃』(室井尚・吉見俊哉)の模様は、近日掲載の予定。
2016年7月15日 新聞掲載(第3148号)
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