『在日二世の記憶』(小熊英二・髙賛侑・高秀美編、集英社新書) 発売記念トークセッション レポート|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 特集
2017年2月24日

『在日二世の記憶』(小熊英二・髙賛侑・高秀美編、集英社新書)
発売記念トークセッション レポート

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二〇一七年一月二三日、ジュンク堂池袋本店にて『在日二世の記憶』(小熊英二・髙賛侑・高秀美編、集英社新書)の発売記念トークセッション〈「在日」とは何か?「戦後」とは何だったか? 足かけ13年のプロジェクトを振り返る〉が行われた。スポーツ選手、実業家、学者、社会運動家といった在日二世のライフ・ヒストリーが語られる本書は、二〇〇八年刊行の『在日一世の記憶』(小熊英二・姜尚中編)と合わせ、日本社会の中で在日朝鮮人の置かれた状況がわかる近現代史の一級史料となっている。イベントは編者の小熊英二氏、高秀美氏、本シリーズの執筆に関わった木村元彦氏が登壇した。


『在日二世の 記憶』の経緯

まず『在日一世の記憶』と『在日二世の記憶』(以下、『一世』、『二世』)の経緯を小熊氏は「二〇〇三年に遡るのですが、私と姜尚中さんを中心に在日一世の聞き取りができないか、と編集者と話したことが、このプロジェクトを始めた契機でした。一世の方々はご高齢であるから急いだ方がよい、ということで企画が進みました。

その際に聞き取り作業と次代の育成を兼ねようとして若い三世、四世に一世の話を聞いてもらい、そしてその若手が在日の歴史を踏まえた物書きや研究者になってくれればいいと思いましたが挫折しました。その後に髙賛侑さんと高秀美さんに相談して、在日の取材経験のある方々にご協力いただいて『一世』が出来上がりました。自然な流れで『二世』も作りましょう、となりました」と振り返った。

高氏は「『二世』作成について強く声をかけたのは髙賛侑さんでした。在日二世は在日のパイオニアだから絶対に記録する必要がある、と担当編集者に伝えたようです。ただ同時に取材した一世の方たちが亡くなることが多く、二世も幅広い年齢層なので、このままだと二世の記録も取れなくなるということが後押しした」と述べた。
在日とは何か

次に、それぞれの立場で思う在日について、小熊氏は「日本における在日という言葉、概念は二世のものだと思います。聞き取り、編纂をして思ったのは、日本に居ざるを得なかったけれど一世は朝鮮人です。二世は、自分たちを在日朝鮮人、在日韓国人、在日コリアンのどれで呼んだらいいのか、という論争があることを加えても在日です。団塊の世代と重なっている在日二世が多いのですが、その人たちが若い頃に自分のアイデンティティに迷っていろんな活動をしている。そこで作られた、日本人ではないけれども朝鮮人でもない、という概念が在日というイメージだと思います。

そしてその頃の日本は、日本にいる外国人とどう向き合うかが大きな問題となってきた時期でした。その時に在日という有り様のアイデンティティ、法律的な存在、社会的な存在の位置が目立ってきた。それを作ったのは一世ではなく二世でしたし、おそらく三世、四世の問題意識とはかなり違う。それはこの本を編纂してわかった点です」。

木村氏は「他の移民との大きな差異は歴史的な背景が横たわっていることです。皇民化教育、創氏改名によって名前と言葉を奪われて、戦後にはお前たちは外国人だ、と言われてあらゆる権利を剥奪された。それでも日本でどう生きていくのかを考えるのです。

二世の歴史は運動の歴史を体現されている方が多い。僕が取材した張本勲さんも野球で権利獲得をしている。それぞれの現場で権利を勝ち取っていくのが二世の生き様だと思います。そうしないと生きていけなかった時代だったんだと取材しながら改めて感じました」とそれぞれが取材を通して感じた在日について述べた。
 高氏は自身が在日三世であることから「在日」という言葉は日本人とは違うニュアンスで受け止めている、とし「七〇年代くらいまで、親である二世は国に帰ると思っていました。だから子どもたちも帰ると思っていた。その時は朝鮮人でした。段々と本国の分断が過酷になった状況で、このまま日本に居なければいけないと思い始めた頃に、ようやく在日ということを自分の中で見ざるを得なくなった。私にとって在日という言葉は私自身がいる場所が日本なのかなと思い始めたことと結びつきます」と語り、『二世』巻末鼎談で小熊氏の〈在日は「日本社会の鏡」である〉との発言について改めて問いを発した。

小熊氏は「一世の記憶をインタビューして印象に残ったのは、戦前世代の朝鮮での生き方、および日本での生き方でした。二世になると、核として朝鮮人の文化や言語があるというよりは、日本の中の位置や日本社会との関係を考えながらずっと生きてきた人たちです。喋る言語は日本語を得意とし日本社会の中で権利を少しずつ獲得していく方向で物を考え始める。その人たちの悩み方や戦い方や行動の仕方をみると逆に日本社会の姿が見えてくる。一歩離れてみると、日本の中の周辺部に位置していた人の歴史です。エスニシティが朝鮮人であることよりも日本社会との関係の方がよく出てくる意味で〈日本社会の鏡〉と言いました」と発言。

これを受けて高氏は「鏡というのはそこに自分の姿を見るためのものです。でも朝鮮人は日本社会の同時代に同じ場所にいるのに、日本人には見えていない、あるいは見ない――そこの部分を考えると鏡にはなっていない現実があるように思えるのです」「私は今回の企画を通して在日二世の言葉にできない痛みを改めて知りました」と日本人との意識のズレと説明し難い部分がある心情を吐露した。
戦後とは何か

 小熊氏は〈日本社会の鏡〉について触れながら「そういう立場にいるのは在日の人たちだけではなくて、例えばリストラや非正規雇用になった人たちなど、ある特定の立場に立てば社会の鏡にされてしまう人たちは幾様にも発生する。その意味において、在日一世は朝鮮人ですから鏡としては透明性が低い。二世の朝鮮人性が薄い分だけ鏡という特性が出てくる。

在日というのは、単に朝鮮半島にルーツを持つ人々ではない。最近やってきたニューカマーは、「在日」とは呼ばれない。「在日」とは、植民地支配と戦争の歴史を背負った朝鮮系の日本在住者です。それは戦争の記憶に規定された集団という意味で、日本の「戦後」社会とも共通している。「一世の記録」と「二世の記録」の二冊を編纂した感想としていえば、九〇年代くらいまではそのことが見えてくる。その後はまだよくわからない。それは日本にとっての戦後でつかめる時空間が九〇年代で終わっているのか、そうではないのか。三世、四世、五世がどんな経験をしているのかまで踏まえないと理解できないでしょうね。

その「戦後」は、日本の戦後だけではなく東アジア、つまり分断国家としての韓国、北朝鮮まで含めた戦後です。それは韓国の民主化がなされたところで終わったのか、分断が統一されるまでは終わらないのか。日本の戦後だけでなく、東アジア全体の戦後と大きく関係することです」と戦後の概念をどこまで拡張するかという問題にまで関係することを語った。
シリーズを 振り返って


高氏は二冊の完成を振り返って「『一世』はどこからでも読める本でした。『二世』は話してくれた方の年の順から並べています。一番の高齢者は一九三二年生まれで若い方は六七年生まれです。だから最初から読んでいくと、二世の置かれた社会的状況、国の状況、教育関係の状況の側面がわかる」と。同じオーラル・ヒストリーでも『二世』はより歴史性が出た本になっている。

小熊氏も「『二世』を編纂する時に、どういう人に聞くかを皆さんで相談しました。一世がみな経済的に貧困だったので、二世の出発点はほとんど皆同じですが、そこから先はいろんな人たちがいるのでバラバラになる。しかもその中で、成功した人だけをとりあげると、芸能人と知識人ばかりになってしまう。そうなると二世全体の記憶にはならないので、意識的にバリエーションをつけようと相談しました。収録されたそれぞれの記憶は、多様な歴史の資料であって、個々人の聞き取りでは無くなっているとは思います」とし、日本社会、東アジア社会の歴史の証言集の色彩も本書は持っていることを語る。

高氏は「幅広い証言を取ることができた」と述べるも、取材をできなかった部分について「結婚があります。二世では父親が朝鮮人で母親が日本人の場合はあったのですが、その逆には出会えなかった。これはたまたまなのか必然なのか疑問として残りました」と、同じ在日からも見えなくなっている存在があることを明かした。

最後に記憶と記録に関することで木村氏は「このシリーズのタイトルを記憶としたのがミソかなと思います。人の記憶は主観が入ってきます。インタビューは相手との関係性によって変わる。事実関係で明らかな捏造でない場合は全部載せてしまおう、というのが取材方針でした。人を通して歴史を見ていく場合には、この多様性が『二世』にはものすごく出ている。名もない人の証言を集めることによって類型化していない部分が見えてくる」と語り、小熊氏も「言ったことの記録ではありますけれど記憶です。歴史は広い意味で記憶であって、明らかな嘘は訂正するにしても、それ以外に関しては記憶として残すのは良いのではないか。そうすることによって証言をしてくれる方の存在を生かす側面と、それが鏡となってその時の時空間や社会を映し出すことができれば、それが世のため人のためになるだろうと考えています」と語った。

質疑応答では、「在日三世の記憶を刊行するのか、その場合はどのような取材をするのか」という質問に対して、高氏はジブリ映画「千と千尋の神隠し」の一場面に触れながら「三世は大多数が日本人に囲まれて生きているので、自分は何者かを忘れてしまうと自分に行き着けなくなる、というのが私にとっての三世のテーマです。そういう形で取材をすると思います」、小熊氏は「在日三世の歴史だけでなく、戦後日本の現代史をどう書くのかと並行しなければいけない」と語った。会場には在日二世、三世の聴講者も多く、自身の置かれた立場、経験を語り始める場面もあった。
2017年2月24日 新聞掲載(第3178号)
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