Forget-me-not⑨|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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Forget-me-not
2017年3月3日

Forget-me-not⑨

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初めててんかん発作を起こした高校生の頃。
発作はそれ以降も断続的に起こり記憶を奪っていった。
ⒸKeiji fujimoto
静寂を破り、サイレンが団地に鳴り響く。救急車の赤色灯が夜の闇に浮かび上がる。17歳の秋、自宅で突然倒れた僕は病院に運ばれていた。

学校に行ったこと、本を読んだこと、バイクに乗ったこと…。今日までそこにあった日常が、遠い昔の出来事の様に感じる。たどり着いた病院では医師から『てんかん』との診断を下された。僕の体に潜伏していた一生治ることのない脳疾患は、常に記憶を奪い去る可能性を孕んでいた。

入院が決まり、消灯時間がきた病室。窓外にはどす黒い夜空が広がっていた。

「同性愛者である上に、不治の病を抱えている。普通の一生を送ることなんて無理だ。ならば、人とは違う道に向かって猪突猛進するのも面白いではないか」

周囲の患者たちがとっくに寝静まる中、闇が僕を悲劇の英雄に仕立て上げる。いま世界で活動しているのは自分だけの様な気分に浸っていた。

しかし翌朝、病室の鏡からはそれまでと何ら変わりない若く無垢な僕が、少し眠たそうにこちらを見つめていた。そう。目下の現実とはつまり炭酸の抜けたソーダ水の様なもの。真夜中の英断は朝日の前では無力だったのである。
(ふじもと・けいじ氏=写真家)
2017年3月3日 新聞掲載(第3179号)
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