セクシュアリティとヴィクトリア朝文化 / 田中 孝信(彩流社)多層的なセクシュアリティ文化論 ◇文化の本質を明るみに◇  九名の論者がそれぞれの視点から迫る |書評専門紙「週刊読書人ウェブ」

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読書人紙面掲載 書評
2017年3月3日

多層的なセクシュアリティ文化論
◇文化の本質を明るみに◇ 
九名の論者がそれぞれの視点から迫る 

セクシュアリティとヴィクトリア朝文化
出版社:彩流社
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ヴィクトリア朝期の中産階級が抱いていた「リスペクタビリティ(社会的体面)」という強迫めいた概念には、身体の清潔さ、禁欲、節制、慎み深さなどが含まれていたが、彼らがもっとも忌避し、抑圧し、隠蔽しようとしたのが「セクシュアリティ」であったことは、イギリス文学や文化を学んだ者なら誰もが知っていることだろう。セクシュアリティに対する過剰なまでの拒絶反応によって、この時代の価値観や道徳を表す「ヴィクトリアニズム」という言葉には「性に対して抑圧的な」という意味が付与され、性への度を越した厳格な考え方は「お上品ぶった、偽善的な」というニュアンスをもつことになっていったのである。

しかし、このような一方向からの見方に対して異議を唱える反対方向からの視点が提起されてくる。それは、ヴィクトリア朝期の文学や文化にはセクシュアリティを喚起させるイメージや言説が横溢しているというものであった。たしかに、この時代には女性の裸体が絵画に数多く描かれ、センセーション小説やポルノグラフィも数多く出版されていた。また、下層階級では乳児の死亡率はまだ高かったものの中流・上流階級家庭の子どもの数は多かった。当時の人々の関心は、決して「リスペクタビリティ」のみに向かっていたのではなかったのである。ちなみに、ヴィクトリア女王には九人もの子どもがいた。

本書は、九名の論者がそれぞれの視点からヴィクトリア朝期の文化の特質とセクシュアリティの本質に迫ろうとする試みである。第一章(要田圭治)では、マルサスの『人口論』やその後の人々による下層労働者の環境や身体の捉え方とその意図を、統計のもつ意義を中心に住宅の形態や教育の役割にも言及しながら論じる。第二章(閑田朋子)は、「誘惑・売春取引抑制法案」の発議から否決に至る過程を追いながら、女性ジャーナリストの急進的な姿勢を明らかにする。そして第三章(侘美真理)では、『アグネス・グレイ』における動物・身体・欲望の表象から時代のセクシュアリティが考察されている。

第四章(本田蘭子)は、『ジェイン・エア』におけるバーサの運命を、彼女のセクシュアリティや『サルガッソーの広い海』のアントワネット像を分析しながら浮かび上がらせ、そこに絵画に描かれたメドゥーサの物語を重ね合わせて論じる。第五章(市川千恵子)では、性のダブルスタンダードを批判したエリス・ホプキンズの社会運動や性に関する思想が論じられるとともに、小説の中で彼女が女性の自律性をどのように捉えていたのかが考察される。第六章(川端康雄)は少女売春の実態を暴いた調査の語りを検討し、刑法改正法制定を実現させるのにその語りが果たした役割と問題点について論じている。

そして、第七章(原田範行)ではオスカー・ワイルドとジャーナリズムの関係や彼のセクシュアリティ(同性愛)への向き合い方を主要作品から考察し、第八章(田中孝信)はトマス・バークの作品とスラム小説を比較することによって、ロンドンの貧民街イーストエンドに暮らす中国人移民から成る周縁社会の性的異人種混淆やアヘンに対してイギリス人の中流・上流階級という中心世界が示した心的世界を明るみに出してゆく。最後の第九章(武藤浩史)ではフェティシズムの系譜にD・H・ロレンスの『息子と恋人』を位置づけ、作品における多層的なセクシュアリティをさまざまな観点から考察している。

以上九編の論文と序章(田中孝信)から構成される本書はさまざまな視点からのセクシュアリティ研究であり、それぞれの論文のレヴェルの高さは言うに及ばず、「性的抑圧」とそれへの反動という枠組みを越えて、セクシュアリティをめぐってヴィクトリア朝期の文化の本質を明るみに出そうとするすぐれた文化論である。
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2017年3月3日 新聞掲載(第3179号)
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